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感覚の違い

新しい女の新垣美登子と東恩名先生の間で面白いエピソードがありました。
ちなみに生年はこんな感じです。
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ
東恩納寛惇(1882-1963)明治15年生まれ

昭和10(1935)年、新垣美登子が辻遊郭をテーマにした小説を「花園地獄」の大で新聞に発表した。それをみた東恩納寛惇から新聞社の親泊政博に物言いがあった。「女だてらに辻の内面を描くとは汚らわしい。沖縄ではそんな『手合い』を女流作家というのか」
新垣美登子はしかし「住む世界が違うのは仕方がない」といって一笑に付した。
笑う!おきなわ人物記 p135、136


新しい女のきっぷの良さがひかりますが大正デモクラシーというのは大きかったんでしょう。他にも新垣美登子さんにはいろんなエピソードがあります。
この二人は後年みんなで旅行に行ったりするんだからわかりません。

昭和33(1958)年冬、東恩納寛惇、池宮喜輝、上江洲文子、新垣美登子が国頭旅行をした。(略)
70歳の東恩名があまりに若々しく見えるので、のち上京した際、再婚をすすめようと新垣は金城芳子と東恩名宅を訪ねた。ところがすでに東恩名には数ヶ月前のおもかげはなく、急に年をとった感じがして、再婚の話はもちださなかった。
笑う!おきなわ人物記 p136


そのころ山入端さんがいたはずですが仲間内にも口に出してなかったんでしょうか。
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ことばの地域差

ことばについてわかりやすいページがあったのでご紹介。

沖縄の言語と意識に対する社会言語学的考察
http://tokyo.cool.ne.jp/b3959/jyosyo.html


母音の変化、古語の残存などわかりやすいですね。
屋取部落と地人中心の部落が距離を近くしてもことばに大きな差があったという話は興味深いです。
現在の那覇市の範囲でも小禄ムニーなどはからかい半分で田舎者のレッテルがついてるようなもんですし、那覇の人間にとっては首里の大げさなことばも笑いになるようなとこがあります。

村落社会が成立していた時代は一つの村や字の中だけで一生を暮らすのが普通だったし、交通機関が未発達だったということも原因となり、他地域との交流がほとんどなかったので地域によっての言語差が大きくなった。特に今帰仁(ナキジン)地方や糸満地方、山原地方などの地域は音韻的にも大きく違っていた。

2回目の調査において、話を聞かせてもらった比嘉清光さんと敏子さん夫妻は二人の言語状況がそのことを表している。清光さんも敏子さんも二人とも出身地の琉球語で話すことはできる。しかし、日常生活の中で、二人で会話する機会の時も琉球語は使わずに共通語で話す。二人とも出身は中部地方で距離的には近いが、清光さんは今帰仁地方の出身で敏子さんは本部町の出身だった。今帰仁は「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」と発音する沖縄でも特殊な発音の特徴をもつ地域である。一方、本部町は廃藩置県後に首里から没落した士族が流れて住み着いた地域であるので大部分の言葉が首里方言に変化していったので、中部にありながら南部の首里の言葉の特徴を持つ。結果として近距離に位置してるけれど言葉の違いは意思伝達に障害が起こし、精神的にも抵抗が生じるほどになる。そのために琉球語で会話したとしても大意は通じるが、言葉によって聞き直さなければならなかったり、分かりづらい所もでてくるのでストレスが生じることになる。
それほどに沖縄における地域による言語差は大きい。
※一部語を修正しました


屋取の発生は廃藩置県の時と王府が士族の田舎居住を許可した時に二つの大きな波があります。そして明治後半の土地整理の際にさまざまな問題を巻き起こします。

砂糖委託屋 2

砂糖委託屋の続きです。前まではこんな感じでした。

明治30年代後半、委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。
沖縄県史別巻 p278

製糖農家の委託をうけて砂糖を貯蔵し、税務署や物産検査所の検査を受けさせ、砂糖の販売等をもつかさどった商店等を砂糖委託屋といった。
そもそも両砂糖会社の設立の意図は、砂糖農家にとって取引上のガンだといわれた砂糖前代をなくし、砂糖製造農家の取引面での利を守るためにあった。糖業農家に対して資金の貸し出しもなされたが、会社幹部の経営の不手際で販売会社は間もなく解散した。
沖縄県史別巻 p271


農家に高利で貸し付けを行い支払いを(相場より安い価格で)砂糖で受け取る砂糖前代というシステムを廃止する目的で県内資本により委託屋は設立されました。
沖縄県史の砂糖委託屋の項から引き続き抜粋します。

委託屋は生産者が搬入するのを店で傍観していたのではなく、入糖の増加を図るためタオルや暦等をもって生産農家をめぐり搬入の勧誘を行った。また田舎には砂糖買(サーターコーヤー)がいて直接農民から砂糖を買い上げてそれを委託屋に持込むこともあった。
農民が砂糖を委託屋に搬入する際に、直売(じきばい)か止め置き(とめおき)にするかは各自の希望によった。直売というのは搬入した砂糖を搬入した日の翌日の入札にすぐにまわすことである。止め置きとは砂糖の値が上がるのをまって入札にまわすことである。止め置きにする場合は委託屋は農民から倉庫料を徴収したという。止め置きにした際には、大抵の農家は止め置いた砂糖を担保にして必要な金を借りたようである。
沖縄県史別巻 p272


あるていど有利に換金できるようになり砂糖前代による拘束もなくなったようですが、田舎から委託屋までの経路には砂糖買(サーターコーヤー)がまだいたようです。
委託屋は手数料による商売ですので多量に品物を扱わないと損をしました。その性格上大きな資本を必要とすることから那覇の金持ちが経営したようです。

委託屋は自分の商店への入糖の増加をはかるため、地方の砂糖を那覇に運搬してくる荷馬車業者(バシャムチャー)にとりいったという。地方の生産者はバシャムチャーにすべてを任せる傾向にあったので、バシャムチャーは自分に都合のいい委託屋に砂糖を入れることができたのである。1922年に那覇市内に43ヶ所もあった委託屋が1937年には22ヶ所になっている。

糖業組合での入札に参加するのはいわゆる糖商であった。その糖商と委託屋の間にブローカーがいた。砂糖商の依頼を受けて砂糖を調達していたのである。
沖縄県史別巻 p271、272(省略と編集)


県内生産の砂糖の量はあまり変わらなかったでしょうから委託業者が乱立すれば砂糖の奪い合いになるのは目に見えています。委託された砂糖は委託屋の店先に積まれ、税務署と物産検査所の検査を受けてから倉におさめられ、毎日午後四時に糖業組合でおこなわれる入札にかけられました。
整理すると、
•農民は委託屋へ搬入、砂糖買に販売、バシャムチャーへ委託
•委託屋は農民の希望によって直売か止め置き
•委託屋は糖業組合に出品、糖商が入札して内地の市場へ

という流れでしょうか。
砂糖前代の時代との違いは(相場の変動や相場がわかることで)利益を得る人間が増えているというとこです。以前は買い取りと砂糖前代による拘束で農民は安く売るという選択肢しかありませんでしたが「前代・止め置き」の選択も可能になり一方的に損をするだけの存在ではなくなりました。

砂糖委託屋

承前。
グダグダ 砂糖仲買人
グダグダ 沖縄砂糖商店について

これまで砂糖がらみで登場したのは、糖商、仲買人と委託屋です。
糖商が移出する商人(寄留商人)、仲買人は農民から砂糖を買い集め商人に引き渡す仕事です。
そこで糖商は皆各数人の砂糖仲買人に買い集めを委託するのが通常の取引方法となった。砂糖仲買人が「糖商の手先」といわれた所似である。彼らは糖商の縁故者とか商売気のある農村人とかであった。
沖縄県史別巻 p278


委託屋という名称では登場していませんが、「琉球砂糖株式会社」「沖縄砂糖株式会社」が委託屋になります。
両者は沖縄県内の資本で設立され不要な中間業者(仲買人)の排除を目的としていました。
明治30年代後半委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。
沖縄県史別巻 p278

明治末から大正、昭和にかけて新手の大手糖商が買い出動し、黒糖の仕入れ競争が繰り広げられ、その間を種々の仲買人が活躍した。この頃の仲買人はブローカーとも称した。農村の有力者や馬車持ち(バサムチャー)も仲買商人の役を努めた。
大正末頃から産業組合の進出著しく黒糖取引は急速にその手に集中されていった。1941年黒糖集荷が産業組合連合会に一元化された時糖商もろとも砂糖仲買人も真に無用のものとなった。
沖縄県史別巻 p278


以下県史別巻から「砂糖委託屋」の項を抜粋します。

製糖農家の委託をうけて砂糖を貯蔵し、税務署や物産検査所の検査を受けさせ、砂糖の販売等をもつかさどった商店等を砂糖委託屋といった。
そもそも両砂糖会社の設立の意図は、砂糖農家にとって取引上のガンだといわれた砂糖前代をなくし、砂糖製造農家の取引面での利を守るためにあった。糖業農家に対して資金の貸し出しもなされたが、会社幹部の経営の不手際で販売会社は間もなく解散した。
会社は解散したが製糖業の隆盛によって個人あるいは産業組合が砂糖の委託販売を行うようになった。
沖縄県史別巻 p271(抜粋と編集)


砂糖は生産農家からなんらかの人間を経て税務署と物産検査所の検査を受けて市場へ輸出されるという構図は変わりません。しかし市場の相場より低い価格での買い取りで売る形から農民が「委託」して販売する(ここは別項で取り上げます)より有利な形になりました。

沖縄砂糖商店について

承前。
グダグダ 砂糖仲買人
グダグダ 前代(まえだい/めーでー)
グダグダ 沖縄砂糖商店

生産者の裁量による処分が可能であった焼過糖(たきかとう)の買い取りに携わっていた砂糖商人は拡大してゆき、砂糖市場はほぼ寄留商人の独占状態になりました。
砂糖商は内地の市場へそれらを販売し、県内の生産農家へは前代と呼ばれる借金などで拘束しそこからも利潤を上げていました。また農村で生産する単位は小さく広範囲に広がっているため砂糖の直接買い付けは仲買人とよばれる中間業者がおこなっていました。

その頃の沖縄の砂糖商人は大阪の相場を標準にして農家を駆け巡り砂糖を仕入れ、便せんがあると次々に鹿児島や大阪に送り出し、市場で入札に付して、引き合えば売り、引き合わなければひかええているという単純なものでした。
黒糖に関しては沖縄商人が商勢を制することができるはずなのに、何の策略もたてず個々別々な一騎打ちのありさまで、上がる利益をあげ得ていませんでした。そのかわり沖縄の糖商はその牙を農村に向け農村からあらん限りの搾取をしようという態度だったのです。つまり農民に対する高利貸なのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)


「沖縄県史物語」で新屋敷さんは沖縄の糖商が相場に無知で取引が稚拙であったこと、農村への前代などでの搾取で利益を上げていたことを書いています。この前代という制度は王府時代にルーツを持ち、寄留商人もそれに加わっています。
引用文では「沖縄の商人」のみ商取引が稚拙だったので農民への高利貸をしたという風に読めないこともないのですがそれだと誤解を生んでしまいます。砂糖前代には寄留商人、地元の資産家・高利貸も前代貸に関わっていました(県史別巻 p279)。

商店の場所は、那覇区字西74番地にあって1月14日の新聞に広告も出しております。その沖縄砂糖商店を組織していた7人の氏名を記しておきましょう。
比嘉次郎、島袋加那、川津喜助、呉屋仁栄、島袋永保、小嶺幸之、糸満誠忠
沖縄県史物語/新屋敷幸繁 p120


事実関係から考えるとこの沖縄砂糖商店は「丸七商店」です。
ただ沖縄県史別巻の丸七商店の項目をみると名前と住所などが少し違っています。

明治37年、那覇区字通堂に出資者10余人の匿名組合で設立された。
丸七商店が設立された動機は県農商課の仲吉朝助「琉球新報」主筆太田朝敷らの勧誘によるもので(略)
丸七は大阪から砂糖鑑別人桑山伊作を招き、はじめて那覇で大阪と同じ黒糖の等級選別を行い、入札をした。翌年中頭郡の有力者と合流し、琉球砂糖株式会社と発展し、また島尻郡の有力者も沖縄砂糖株式会社を作った。明治の末から大正の初め頃にかけて、本県出身者の砂糖委託問屋は新里、喜屋武商店を加え、4、50軒を数えるぐらいに繁栄したといわれる。
沖縄県史別巻 p511、512(部分引用)


沖縄県人の有力者がてこ入れして各地の有力者もそれに習ったという形でしょうか。
名称が違う件ですが、「丸七商店」は七人の社員がいたところから名付けられたと県史には書かれていますので新屋敷さんの書かれた「沖縄砂糖商店」は「丸七商店」と同じものを指していると思っていいでしょう。
まぁともかく沖縄側も寄留商人に対抗したことを憶えておけばいいんではないでしょうか。
沖縄県有力者(尚家)対寄留商人(那覇)の争いは明治期に盛んに行われています。

砂糖仲買人

沖縄県史の別巻に砂糖仲買人についてあったので引用します。

主に移出商人の委託をうけて生産農家から黒糖を買い集める仲買商人をいう。サーターコーヤー(砂糖買い)などと呼ばれた。夙に薩摩治下に印判をうけて来沖し農村を巡り歩き焼過糖の私売買に携わる薩摩商人が存在していた。明治以降沖縄糖の移出業は鹿児島等他府県人の寄留糖商によって独占的に営まれた。糖商は数十人に限られていたのに対して大部分極零細な黒糖製造農家は数万戸にのぼり地方分散孤立の状態にあった。糖商自ら農村に赴くこともあったが、それでは地方農村に広く散らばっていてかつ2、3挺ないし4、5挺を産する程度の細農から数千挺ものまとまった量を買い集めることは難しかった。そこで糖商は皆各数人の砂糖仲買人に買い集めを委託するのが通常の取引方法となった。砂糖仲買人が「糖商の手先」といわれた所似である。彼らは糖商の縁故者とか商売気のある農村人とかであった。
沖縄県史別巻 p278


「焼過糖の私売買に携わる薩摩商人が存在していた」ってのは面白いですね。
砂糖仲買人の消滅はこんな感じらしいです。

明治30年代後半委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。仲買人は「糖界の寄生虫」「無用の中間者」などと非難され、彼らの盛時は去った。しかしながら委託商は一挺あたり幾何かの手数料を主たる収入源とする営利業であったから問屋となって取扱量を大量化して増益を図らざるをえなかった。他方では生産者は依然零細で地方に広く分布していたから委託商自身が何らかの仲介商人を必要とした。
明治末から大正、昭和にかけて新手の大手糖商が買い出動し、黒糖の仕入れ競争が繰り広げられ、その間を種々の仲買人が活躍した。この頃の仲買人はブローカーとも称した。農村の有力者や馬車持ち(バサムチャー)も仲買商人の役を努めた。
大正末頃から産業組合の進出著しく黒糖取引は急速にその手に集中されていった。1941年黒糖集荷が産業組合連合会に一元化された時糖商もろとも砂糖仲買人も真に無用のものとなった。沖縄県史別巻 p278


部落ごとに製糖するような小さな単位が田舎に散らばっているので集荷するための人間はどのみち必要だったということですね。砂糖前代で拘束しつつ相場より安い価格で買い上げるシステムは農民の無知に半ばつけ込むような形であったわけですが、そのシステムに対抗するシステムがより有利な条件を農民に示してシェアを奪ったというのは面白いです。
ちゃんと調べてはいないのですが、戦前はやたら産業組合結成のニュースがあるのを見ることができるんですが他業種のそういった動きもこういう流れの上にあるのかもしれません。
1941年の一元化は戦時の為でしょうか。

前代(まえだい/めーでー)

砂糖は市場で投機的に扱われることもありました。農民から砂糖を買い上げ内地の市場へ出して売るのですが、農民と大手商人の間には砂糖買と呼ばれる人間がいました。
砂糖買はほぼ商人に雇われ前代と呼ばれる借金で農民を拘束し利益を上げていました。砂糖相場で大もうけだとか湯水のように散財する砂糖買のことなども記録には散見されます。
前代は砂糖前代(さとうめーでー)などとも呼ばれます。
引用文中の「一挺」というのは砂糖樽のことです。当時の砂糖は樽に詰められて輸送されており、壺川は山原から送られてくる樽用材を組み立てて樽を生産していました。

当時「前代(まえだい)」という方法で砂糖が出来たときに支払いをする貸借があり、これは利息を三割としたもので、現金と利子の返済は砂糖を持ってなさしめるというものでした。それだけではなく砂糖の相場をはじめに定め、砂糖の一挺を4円から5円と定め、前述の約定で計算するものでした。
これは良い場合でも時価より30銭から60銭ばかりの安値で計算するもので、このような取引は沖縄産の砂糖の20%にも及びました。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)


その頃の沖縄の砂糖商人は大阪の相場を標準にして農家を駆け巡り砂糖を仕入れ、便せんがあると次々に鹿児島や大阪に送り出し、市場で入札に付して、引き合えば売り、引き合わなければひかええているという単純なものでした。
黒糖に関しては沖縄商人が商勢を制することができるはずなのに、何の策略もたてず個々別々な一騎打ちのありさまで、上がる利益をあげ得ていませんでした。そのかわり沖縄の糖商はその牙を農村に向け農村からあらん限りの搾取をしようという態度だったのです。つまり農民に対する高利貸なのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)


糖商は「砂糖買(さーたーこーやー)」と称する手先を使い、わらじ脚絆で村々を巡って買い集めていました。このような砂糖買はざっと200人もいたということです。
金の必要な農民は他に銀行から借りる術も知らず、これら砂糖買の手に乗って銭の融通を受けていたのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)

首里の人口

王国の首都であった首里は、旧藩時代の人口も5万人近くありましたのに、沖縄県が出発して一年もたたないうちに、その半分に減り、人口25000人にも満たなくなってしまいました。
それもそのはずで、人口の半分は田舎から奉公に出て来た女中や人夫で、首里役人の家には数人の使用人が働いていたのですが、その役人の大部分が職を離れるということになると、召使いを多く抱えるぜいたくはできません。召使いも、故郷に帰って砂糖黍でも作ったほうが生活が面白いと考えるようになりました。過疎になって滅んだ部落もあった農村地帯に過密時代が出現するという時代に移り変わったのです。
また首里人から那覇人になる人も多くなりました。
沖縄県史物語 p13(省略と編集)


これもいわれてみればそうだなというとこです。廃藩置県(明治4)からだいぶたった明治末の人口はこんな感じです。
現住戸数人口
40年 5343戸 24786人
42年 5302戸 25101人
大正元年 5301戸 25591人
在籍戸数人口
40年 5824戸 26807人
42年 5823戸 27769人
大正元年 5839戸 28777人
大正2年8月28日 琉球新報


同じ記事にはこう説明されていますが、在籍は増えても現在住人口が増えていないのはゆるやかな衰退ではないのでしょうか。

昨紙掲載したる潮内務参事官の談によれは首里区は年々人口及び戸数減少し月々衰退の状に赴きつつありと云ふことに就いて区当局者なる某氏は語って曰く之れは甚だ迂遠なることにして区の現状を知らざるものなり今試に過去6ヶ年に於ける在籍及現在の戸数人口を調査するに殆ど増減することなく現状を維持しつつある有様なれば衰退しつつありとは云はれざるなり左にこの表(上表/省略あり)を示せば大略判明すべしと。
大正2年8月28日 琉球新報

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