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家庭でのたばこ

沖縄県史物語から引用します。

百姓というものは、ただ苦労させられているばかりではありませんでした。きび汁もジュースのように飲めるし、砂糖鍋の中にまだ固まりきらない砂糖湯(サーターユ)も飲もうと思えば飲め、他村の人が道を通ってゆくと呼び止め「サーターユーン、ヌデイカンナー」といって、ただで他人を喜ばせて自分まで喜ぶことも自由でした。
もっと面白かったのは、彼らの飲んでいるタバコはみんな自家製なのでした。農家の家の裏に行くと、どの家の軒下にも煙草草がかげ干にされていて、それを刻んでキセルにつめて、キセル煙草で吸うのでした。自分の家で必要な分だけ、畑の隅に植えたり、屋敷内にも葉煙草が十本、あるいは二十本、三十本と自然にはえているような格好で茂っているのが見られました。

廃藩置県以来、煙草は専売制になったので、実は密造したり密売買したりしてはならなかったのです。それで煙草製造所が那覇に設けられて製造を始めていたのですが、各間切村々の農民はこの調子だったので、首里那覇の製造所で作る専売の「はぎ」とか「もみじ」などのタバコはあまり売れませんでした。そこで「はぎ」よりも上質の「あやめ」を製造することとなり、(略)大正時代の「あやめ」全盛の基礎を築いていったのでした。
沖縄県史物語 p180


この段落の後段では那覇では吸われなかったこと、先生や商売人たちは「あやめ」を吸うことを誇りとして密造煙草に手を出さなかったことなどが述べられています。かれらは田舎風習を嫌ったのかもしれませんし単純にまずかったのかもしれません(煙草は熟成が必要なものです)。あるいは専売で売られる煙草が紙巻きだったとしたらそのハイカラさにしびれていたのかも(笑)。
サーターユも身近な甘味としては手頃だったのかもしれませんが、この風習も製糖工場で砂糖が生産されるようになるまでの風景だったでしょう。

戦後はリウエン(琉煙)などの会社があり沖縄県内流通の煙草を販売していました。昔祖父にハイトーンを買いにいかされたもんです。
少し前までは県産品の愛用意識もそれほどではなく、外国煙草やウイスキー、石けんやシャンプーに至るまでうちなーんちゅは外のものが大好きでした(今もか?)から密造煙草に手を出さなかったのもそれに似たようなものだったのかもしれません。
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ナーハイバイ

那覇の気質を表す有名なことわざがありますが、方言データベースの「ナーハイバイ」の項目から引用します。

スインチョー スリージュリー、
ナーファンチョー ナーハイバイ、
クニンダンチョー クンクルバーセー、
トゥマインチョー トゥメーイドゥメーイ。
首里の人はうち揃って、
那覇の人はばらばらで、
久米村の人は互いに争って、
泊の人は互いに捜し合う

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN40057


実はこれよくわからなかったんですが「沖縄県史物語」に背景の説明があったので紹介します。

沖縄の商業、起業はほとんど寄留商人によって占められていたのは仕方のないことで、那覇の士族などは、まだ事業に慣れていませんでした。バックとなる資本もありませんでした。そこで廃藩後の沖縄の事業は、首里士族の活動にまたなければならないことになります。
(略)
そうして首里士族は、尚泰の四男尚順男爵や高嶺朝教らを中心にして、明治30(1897)年に沖縄銀行を設立し、寄留商人がわの第百四十七銀行那覇支店と対抗していくようになります。尚家の事業に資金援助をするために設立したものであった、と見てもよいでしょう。
明治26(1893)年に創刊された琉球新報も、尚順を中心とした首里士族によって発刊されたものでした。このような首里士族の活動に対して、那覇士族は寄留商人のどちらかについて、那覇としてのかたまり結束が出来ていませんでした。そこで有名なことわざが生まれ出たのです。
沖縄県史物語 P50、51(省略と編集)


割と新しいことわざだという説でした。
那覇が寄り合い所帯でまとまりがないからという説もあります。

沖縄砂糖商店

明治期の砂糖はほぼ寄留商人に牛耳られていたのですが明治36(1903)年に沖縄県人による会社が設立されます。

そこで沖縄の砂糖の商人たちも結束して沖縄砂糖商店を設立し、砂糖の委託販売を受けて、自分らで直接に、大阪、鹿児島に輸送して売却するというような元気を出しました。
商店の場所は、那覇区字西74番地にあって1月14日の新聞に広告も出しております。その沖縄砂糖商店を組織していた7人の氏名を記しておきましょう。
比嘉次郎、島袋加那、川津喜助、呉屋仁栄、島袋永保、小嶺幸之、糸満誠忠
沖縄県史物語/新屋敷幸繁 p120


砂糖前代や仲買人などの砂糖にまつわることは別項で取り上げます。
ここでは明治36年の西町に沖縄人による砂糖販売業者があったということを憶えておきたいと思います。
追記:沖縄砂糖商店について

著者の新屋敷幸繁さんは明治生まれで大学教授をされていた方でした。下の引用はwebからですが本のあとがき(77年発行)にもほぼ同じ内容が記されています。

明治32(1899)年〜昭和60(1985)年
詩人、教育者。与那城町生まれ。第七高等学校造士館教授、初代中央高校校長、沖縄大学学長などを務める。詩集『生活の挽歌』『野心ある花』、詩誌『南方樂園』、史書『新講沖縄1000年史』『コザ市史』など。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41820-storytopic-121.html


この本には新屋敷幸繁さんの地元、勝連半島あたりの船が活躍する生活も少し書かれています。全体的にはソフトな書き口の歴史エッセイという感じでしょうか。

安里から松川まで


安里から松川までです。真和志民俗地図で集落になっている箇所を表示してみました。松川は現在の部落の範囲とあまり変わりませんし安里も同様です。

栄町から大道小学校に至る一帯には一高女と師範付属小学校(と陸軍墓地)があります。川がカーブする内側(二又原)の現公務員宿舎は試験場です。
川が合流する側には酒造所、向かいには沖縄製缶工場、首里に登ってゆく坂の途中には瑞泉社(糸関係?)があります。

鉄道の本を見ていると線路が高架になっていてトンネルを通って横切っていたという点に改めて気がつきました。安里十字路角の安里駅も一段高くなった線路に登るような形をしていたようなので現在のひめゆり通りを人が歩けたと考えるのは間違いということになります(もちろんその傍には人用の道があります)。
現在の安里十字路の高架も考え方次第では戦前とあまり変わらないのかもしれません。「図説・沖縄の鉄道/加田 芳秀」には当時の安里駅のイラストが掲載されています。

鍛冶屋のようす

「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」から明治41年那覇生まれの桃原さんのインタビューから抜粋します。

桃原さんは甲辰小学校6年を終了して13歳の時に宮平カンジヤーに弟子奉公した。三年間の奉公期間であった。しかし、幼少の頃からフイゴ押しや、横座、メーウッチャをしていた。兄が宮平鍛冶屋に働いていたので頼っていった。

19歳に達したとき、山田有幹氏が代表となって20〜30人の鍛冶工が那覇職工組合を結成した。ある工場に勤めていたが給料を支給しなかったのでやめたこともある。別の工場に就職することについて親方連中から文句や邪魔が入らないように強く申し入れておいた。幸いニシンジョの宮平鉄工所に採用され給料も倍額一円が支給された。
宮平鉄工所では工具の修理が中心であった。安謝のブータノール工場にも一年いて、建築用の金物を制作した。4、5人の鍛冶工がこの工場に雇われていた。
昭和19年、小禄飛行場で三人の鍛冶屋の責任者となって軍の仕事を請け負ったこともある。

戦前那覇には大きな鍛冶屋(鉄工所)としては宮平とかじ原があった。小さい鍛冶屋は久茂地のミンダカリに20〜30軒が立ち並んでいた。全鍛冶屋とも農具を作っていた。桃原さんが働いていた宮平鍛冶屋はニシンジョーにあって風呂の煙突やボイラーを作っていたのである。ここに20人の職人がいて桃原さんは職工長をしていた。
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p127〜131から抜粋

鍛冶屋 2

「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」を参考にすると、下働き(ふいご・鎚打ち)は妻子や弟子にやらせ、弟子は無給で最低3年くらいはふいご(フーキ)、鎚打ち(メーウチ/前打ち)をやり10年程もかかって一人前(立身小)とされたようです。また前打ち工には日当で働く専門の人もいたそうです。
脚の悪い人の就職先でもあったようでインタビューに取り上げられた人のうちにも何人かそういう人がいます。
戦中は徴用され、竹槍の先、刀作り・研ぎ、石斧、荷馬車の車輪、爆弾、手榴弾、カブトなど様々なものを作り、戦後は米軍の下で農機具等の復旧に必要なものを生産していたようです。

他に金物を扱う職業は蹄鉄師や鋳掛屋(ナービナクー)がいたようですが専門が違うためこれらの人達は重ならないようです。

「カンジャーには二種類あってミンダカリ系が農具で首里系は刃物が専門であった」(p123)
「久茂地通りに「ハンジャー・スージ」といって16軒の鍛冶屋が通りの両脇に立ち並んでいた」(p200)
「那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた」(p227)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭

鍛冶屋

鍛冶屋
わかさ民俗地図」の範囲に見える鍛冶屋(カンジャー屋)です。
(1)宮城カンジャヤー、(2)我那覇鉄工所、(3)漢那カンジャー屋、(4)宮平鉄工所、右下の赤い線はミンダカリの「カンジャースージ」でこれは那覇民俗地図を参照しています。
「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」の年表から、明治から敗戦までの期間を部分抜粋します。

1908(明治41)年 工場数15(原動力を用いざる工場)
1911(明治44)年 八重山で鉄工所初め(常深熊太郎)
1924(大正13)年 ガス溶接機初めて購入(梶原鉄工所)
1925(大正14)年 首里城正殿改装用釘(宮平鉄工所)
1926(昭和1)年 ミンダカリ鍛冶屋農具制作
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p311、312


続いて明治36年の鍛冶屋の分布です。

那覇区33戸(74人)、首里区23(69)
島尻郡28(44)、中頭郡37(62)、国頭郡86(120)
宮古郡7(7)、八重山郡10(20)
合計224戸(394人)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p313


久茂地ミンダカリのカンジャースージには十何軒もの鍛冶屋が軒を連ねていました。また壺川や上之屋にも鍛冶屋があったようですがこれは馬車の発着場という条件のせいかも知れません。
鍛冶屋は下働き(ふいご・鎚打ち)は妻子や弟子にやらせ、弟子は無給で最低3年くらいはふいご(フーキ)、鎚打ち(メーウチ/前打ち)をやり10年程もかかって一人前(立身小)とされたようです。脚の悪い人の就職先でもあったようでインタビューに取り上げられた人のうちにも何人かそういう人がいます。
戦中は徴用され、竹槍の先、刀作り・研ぎ、石斧、荷馬車の車輪、爆弾、手榴弾、カブトなど様々なものを作り、戦後は米軍の下で農機具等の復旧に必要なものを生産していたようです。
また前打ち工には日当で働く専門の人もいたそうです。

他に金物を扱う職業は蹄鉄師や鋳掛屋(ナービナクー)がいたようですが専門が違うためこれらの人達は重ならないようです。ナービナクーの仕事の様子は「沖縄物語/古波蔵保好」に描写されていますので興味のある方は参照してみて下さい。

「カンジャーには二種類あってミンダカリ系が農具で首里系は刃物が専門であった」(p123)
「久茂地通りに「ハンジャー・スージ」といって16軒の鍛冶屋が通りの両脇に立ち並んでいた」(p200)
「那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた」(p227)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭

チージサガイ

「なは・女のあしあと」からジュリの後半生についてです。

遊郭の家の大部分は那覇の資産家の貸家で、一軒の楼に幾人かの「ジュリアンマー」が数人の「ジュリ」を抱えて同居していた。
資産家たちにとって遊郭は不動産経営の重要な拠点であった。
すべてのジュリがジュリアンマーになれるわけではないから、遊里で働けなくなったばあいは「チージサガイ(辻下がり)」といって田舎落ちをした。たとえば、首里のアダニガー、糸満、与那原、馬天、泡瀬、屋慶名、普天間、嘉手納、名護、本部、塩屋、久米島、平良、石垣、沖永良部、徳之島、名瀬などの「サカナヤー(料理店を兼ねたあいまい宿)」に売られて落魄の晩年を送ることもあった。
なは・女のあしあと p128


おちて行く先にはだいたい港がある場所ですね。人の出入りがある場所にはそういう歓楽街もすかさず出来るのでしょうか。
また金持ちの不動産経営(ダンナ)業は様々な人間がいたようです。

[辻の]ダンナになっている人の職業は、船頭(フナトゥ)、地方の人だったら田畑等不動産をたくさん所有している人、酒屋の主人、銀行山城、カネコウ、新里といった名うての金持ち連中でした。ヤマトゥンチューは少なかったようですが、平尾のスーメー(ご主人)だけは羽振りもよかったです。
なは女性史証言集 p136

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