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葬儀社 2

葬儀社で大正期に設立された葬儀社のことについて触れました。
その補足になるのですが「奄美沖縄の火葬と葬墓制」には沖縄での火葬率があげられていますので引用します。

1924年/1.8%、26年/0.7、28年/1.4、30年/0.7、32年/1.9、34年/1.6、38年/3.8、40年/5.4、41年/6.4、42年/8.3、43年/5.5
奄美沖縄の火葬と葬墓制 p133表より部分抜粋


戦後はデータがあまりないようなのですが、1954年には真和志市で58.9%、69年には沖縄県全体で73.9%というふうになっています(同表より)。戦後にガッと上がる他は対して急激な伸びはありません。
本でも述べられているのですが大正4(1915)年の葬儀社の役割は従来の葬儀に必要なもの(僧侶、念仏者、龕担ぎ、左官、葬花など)の手配をするものであったようです。

従来本県の葬儀というと肝煎人といって近隣の人や知合の人が寄り添って香花を造るやら人夫を指揮するやらして万事に不便がちであり、また繁鎖でもあることは多くの人々の経験したことであるが、其間にも時々人夫共が酒など強請って飲むやら賃銭に文句をつけて望外に得んとするなど種々てこずったものだが、此度の欠点を補ひ喪家に不便を感じせしめない目的で下泉町1の12水張小路に沖縄葬儀請負事務所なるものが出来たれば(略)
大正4年8月21日 琉球新報(一部抜粋、編集)
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墓地整理

戦後暫くしてから那覇の海岸一帯の墓地は整理されました。

1951年から行われた那覇市若狭町、辻原の墓地整理事業をあげることができる。那覇の若狭、辻原の各墓地群は沖縄を代表する墓地として戦前から有名であったが、1951年に米軍の軍命をうけて、那覇市都市計画課がその撤去事業を開始したのである。米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである。
戦後沖縄の火葬 : 那覇若狭町、辻原の墓地整理をめぐって/加藤正春


若狭町と辻原と述べられています。
那覇の海岸線沿いの石灰岩地帯、辻原の山、波上宮のそば、雪の崎など辻から若狭町の海岸線には多数の墓地地帯がありました。加藤正春さんの本、「奄美沖縄の火葬と葬墓制」に新聞に掲載された告知がありましたので引用したいと思います(少し改めました)。ちなみに「ウイノモー」は上ノ毛で、旭が丘は「セーコージ山/済広寺山」とも呼ばれます。

急告
軍命に依り那覇市辻(ツジ原)ワカサ町(ウイノモー、ユキノサキ、アサヒガオカ)一帯に有る墓地所有者は右記に依り御参集ください。

一、日時 1951年1月31日(火)午後1時
一、場所 那覇市役所
1951年1月25日
那覇市役所

士族の比率

「中城村の屋取」という中城村教育委員会が2004年に発行した本があります。図も豊富で内容も濃くこれ以上のものは出来ないんじゃないだろうかと思われるようなよい資料でした。
その中に明治33年の士族の割合の表がありましたので数字のみ抜粋します。中部辺りには屋取村(泡瀬とか)があるのは知っていましたが、ここまで士族の割合が高い地域があるのは知らなかったので少しカルチャーショックでした。

浦添 20.62%(以下すべて同じ)
西原 23.93
中城 18.44
宜野湾 21.88
北谷 49.88
読谷山 21.69
越来 47.50
美里 35.46
具志川 48.40
与那城 11.90
勝連 10.32

那覇区 68.40
首里区 56.60
島尻区 16.07
中頭区 28.58
国頭区 21.07
中城村の文化財第七集/中城村の屋取 p14表より抜粋

ジュリと料理屋女

那覇の女たちの感覚ではモラル的にジュリや料理屋女は自分達以下、そしてジュリより料理屋女が嫌悪されるという感じだったようです。
この料理屋女というのは大和料理店の従業員や芸者ではなく、肴屋の女(サカナヤーノイナグ)で、チージサガイで触れた「サカナヤー(料理店を兼ねたあいまい宿)」の女だったのでしょうか。

ジュリがそれなりの地位を得て料理屋女が嫌悪されるというのはそこに(一応の)モラルがあることや、家を傾ける程散財しなければ自分達の地位や生活を脅かすものではないからでしょう。

あの頃は自由結婚は許されない。そんなことをしたら後ろ指さされて、料理屋女だとかジュリだとかいわれる。
なは女性史証言集 p16


また遊女たちは三味線や舞踊などをたしなみ稽古をしたから琉球芸能の淵叢でもあった、那覇の男子仲間では遊女買の存分も無い者は無能な者として軽蔑された。家庭の主婦たちも料理屋の女(サカナヤーノイナグ)などはハゴームンとして嫌悪したがジュリには割に寛容で、馴染が冠婚葬祭に挨拶に来たり手伝いにきたりした。
辻のジュリは原則として紹介制でめったな客を取らず、美妃などは詰ジュリになって一人を守り、他客をとらなかったためであろう。
昔の那覇と私 p49

漁とその対象

那覇の漁場で那覇近郊の漁場四ヶ所について説明しました。
343号が小禄沿岸、2622号が漫湖、2623号が那覇から安謝一帯沿岸、4909号が慶良間です。
「近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之」には漁業の種類も示されています。

343号(小禄沿岸)
廻高網、スク抄網、鉾突き、イカ網、亀・貝採取
2622号(漫湖)
船打投網
2623号(那覇-安謝沿岸)
建干網、磯魚白網廻網、カマス張網、ムロアジ張網、ヒチ抄網、イカ網、ダツ刺網、一本釣り、手籠
1909号(慶良間)
貝・海藻採取、廻高網、スルル四張網、磯魚刺網、アイナメ抄網、イカ釣り
近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之 p36(表より抜粋)


ここでは漁業種類については詳しく触れませんが那覇市史資料編の漁労の項目には説明されていますので興味のある方は参照されて下さい。それとヒチはスズメダイです。
那覇市史資料編の4909号(慶良間)の箇所を引用します。

慶干瀬(チービシ)は那覇港と前慶良間島との中間にある神山・大伊保・小伊保なる三無人島の総称である。漁場の位置は従って、那覇港よりおよそ七海里(12.6km)のところにある。漁場は狭いが潮流の関係から好漁場となっており、グルクン、ミヅン、ヒチ、スルル、カツオなどを穫っていたのである。
(略)実際の漁業者は渡嘉敷間切前村との間に古くから入漁料を払って漁業をしている垣花網人衆、釣人衆、小禄間切大嶺および糸満、小禄間切胡城である。
那覇市史資料編第2巻中の7、p256


>神山・大伊保・小伊保
伊保はイーフのことでしょうか。神山島は沖縄戦で米軍が砲を設置したため日本軍が切り込みをかけたところです。

那覇の漁場

那覇近郊の漁場についてです。引用は「近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之」から。
この本は九州の漁業についての本ですが、第一章が古賀辰四郎の八重山水産開発、第二章が那覇の漁業発展と鮮魚販売、第三章が沖縄県のカツオ漁業についてとなっています。引用は第二章からです。
那覇豊見城境界線で現在那覇と豊見城との間で揉めている話を取り上げましたが、那覇市が根拠としている漁業権がここで引用した漁業権(343号)です。
図は那覇市史資料編第2巻中の7、p255の図を参考にしました(正確なものではありませんので注意)。
戦前那覇の漁業権
那覇の漁業と関係する専用漁業権漁場は4ヶ所で(略)

343号は島尻郡小禄間切の地先漁場で、かつて同間切に所属していた儀間村(住吉町)も入漁権者として登録されている。

2622号は漫湖で、渡地の投網漁業者の専用漁場である。明治42年に東、西、泉崎、久茂地の漁業者11人に免許されている。那覇港の回収、埋立で昭和4年に漁業権者は上泉町の7人に変わった。

2623号は干瀬があり、那覇の優良漁場として知られるが、その管轄権は那覇・泊に授けられ、海当人が管理し、その地位は世襲されてきた。海当人は自らは漁業をせず、儀間村漁民の小魚や寄魚を対象とする網漁、糸満漁民のカゴおよびいざり漁業(サンゴ礁内の歩行漁)から入漁料をとって入漁させていた、
那覇・泊に管轄権があるといっても旧那覇に漁民はおらず、したがって実態は泊漁民の村中入会漁場であった。

4909号は慶干瀬漁場と呼ばれ、那覇港と前慶良間諸島との中間にあって船舶の避難、風待港であると同時に絶好の漁場を形成していた。明治40年に地先の渡嘉敷村漁業組合に免許された。入漁権者は垣花約40人、大峰村約80人、糸満約50人であった。
近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之 p35、36(部分抜粋/省略編集)

葬儀社

大正4年の琉球新報に葬儀社開業の記事があります。

従来本県の葬儀というと肝煎人といって近隣の人や知合の人が寄り添って香花を造るやら人夫を指揮するやらして万事に不便がちであり、また繁鎖でもあることは多くの人々の経験したことであるが、其間にも時々人夫共が酒など強請って飲むやら賃銭に文句をつけて望外に得んとするなど種々てこずったものだが、此度の欠点を補ひ喪家に不便を感じせしめない目的で下泉町1の12水張小路に沖縄葬儀請負事務所なるものが出来たれば、喪家の依頼に応じて葬式一切のことを請負のださうで、一等が30円で僧侶5人に造生花4対、2等は20円で僧侶3人に造生花2対、3等は僧侶一人ださうだ。このほか墳墓を開くことだけは除いて墓口を閉することから左官の費用龕持人夫念仏に至るまですべて引き受けるそうであるから至極便利なものである。
大正4年8月21日 琉球新報(一部編集)


龕や念仏の手配までするようなので従来の形式の葬式なのでしょう。
那覇民俗地図では下泉町の松田橋そばに「ミジハイ」という文字がみえますから水張小路もその辺だったと思われます。
首里では龕は平民が担ぎ士族は不浄として触りもしないものだったらしいですが那覇ではどうだったのかは(自分は)わかりません。

参考:松田橋

身売りのさまざま

「インジャ/福地曠昭」の前文を安仁屋政昭さんが書いています。そこから抜粋して引用します。

太平洋戦争の頃まで、沖縄の農村では借財のために身売りをすることが、一般におこなわれてきた。それは、貧農が豪農に従属して農作業に従事することが最も多く、地域によってその形態は多様である。
富農はウェーキ(ウヤキ)とかブギンシャ(分限者)などと呼ばれ、土地や家畜を多く所有していた。開墾地(仕明-セーキ)を広げて資産家になったという意味で仕明持(セーキムチ)ともいった。ウェーキは、みずから農業経営者であり、土地の一部を小作に出したり、模合を主催して農村の高利貸しとしても村落共同体を経済的に支配してきた。
貧農は、このウェーキのもとで小作人となり、さらに借財がかさむとウェーキの家内労働力として使役された。この従属的性格の強いものを、ンジャ(インザ・インジャ)とかンジャックヮと呼んでいた。ところによっては、ヤンチュ(家人)ともヤトゥイ(雇)ともいった。
(略)
一代で元利返済ができない場合には世代をこえて子や孫に引き継がれることもあった。貧農の身売りといわれている最も一般的な形態がこれであった。労働力移動の範囲が狭い地域に限られていた時代には、母村と近隣の農村に身売りをするのが普通であった。移民や県外で稼ぎが一般的になる1920年代(大正末期)以降はシカマ・イリチリの形態は割合としては少なくなったと言えよう。


県史別巻では「シカマ(イリチリ)」の項目にこう書かれています。

ドシル、イリチリは従属的性格が強く、住み込んで次男下男として働き、シカマはそれが軽く、ふつう通いで労務を提供することをいう。これらが明治の土地整理以降も残存し、所によっては第二次大戦前までもあったということは、沖縄農村の後進性を特徴的に示すものの一つであるが、くわしい研究は今後に残されている。なお、ンザ(奴)、あるいはンザックヮ、ンジャックヮ(奴の子)というのは、イリチリやシカマにたいする蔑称である。
沖縄県史別巻「シカマ」 p289


出稼ぎや移民は貧困を救った面もありますね。この豪農による支配は徴兵などでもダメージをうけました。
また地域によって様々な形態があったようですから簡単に一般化することも難しそうです。

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