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新村渠周辺の様子

引き続きなは女性史証言集から。
大正4年の西原生まれで大正10年からは辻で育った小渡さんの証言から引用します。

[那覇に入り辻へ行く]途中立派な大きな橋が目にとまりました。いま思えば美栄橋だったのでしょう。田舎では見たこともない立派な橋なので、手でさすったり、叩いたりしてはしゃぎました。しばらく行くとウコーヤ(線香屋)があり、シマウコーがたくさん外に干されていました。真っ黒なウコーが天日に干されていた光景はとても珍しく印象に残っています。p126

やがて久茂地のシチャミチに入りましたがそこは食堂の多い所でした。そば屋さんが軒を連ねており、そのうちの一軒に入りました。父はそこでそばとジューシーを注文したのです。スンカン(青い模様の入った大きな丼)に入ったそばと、アラマカヤー(荒焼碗のおおぶりなもの)に大盛りのジューシーが出されると、父は二つとも私の目の前に差し出し「さあ、しっかりお上がり」とすすめてくれました。p127

しばらく行くと泉崎橋にでました。右側に孔子廟があり、福木がいっぱい生えていました。その後方に教会があり、十字架がたっていました。父は十字架を指して「ウランダーのイハイ(外国人の位牌)」といっていました。p127

[辻の]ダンナになっている人の職業は、船頭(フナトゥ)、地方の人だったら田畑等不動産をたくさん所有している人、酒屋の主人、銀行山城、カネコウ、新里といった名うての金持ち連中でした。ヤマトゥンチューは少なかったようですが、平尾のスーメー(ご主人)だけは羽振りもよかったです。p136


美栄橋を渡りミンダカリ近辺でウコーヤを目にしたようです。美栄橋を渡ってまっすぐ行く道がウィーミチー(上道)、途中で左折する道がシチャミチ(下道)です。
那覇民俗地図にはウィーミチーそばにウコーヤー多しとの説明、シチャミチそばには食堂多しとの説明がついています。

スンカンはスンカンマカイとマカイ(お椀)までつけると調べやすくなります。本土産の大量生産された瀬戸物です。下のアドレスはpdfですが焼き物についてわかりやすく画像もあるのでこちらを見るとわかりやすいと思います。
www.maizou-okinawa.gr.jp/koukoshiryounimiru/kokopdf.pdf

孔子廟そばにはメソジスト教会、すこし離れて那覇キリスト教会がありました。もっと奥にはパブテスト教会もあります。

銀行山城<ギンコウヤマグシク>、平尾商店の平尾、カネコウ・新里はおそらく新里酒造は有名です。
平尾商店は戦前那覇の大商店で大門通りの円山号向かいにありました(支店もあったはずです)。平尾等の寄留商人はいずれ別項で取り上げたいと思います。

教会近辺について→久米にあった流れ
ミンダカリについて→新村渠(ミンダカリ)那覇の細民

那覇まちのたね通信 | 那覇(橋)/泉崎橋
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1353
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国場のくらし

なは女性史証言集から国場で1910(明治43)年に生まれた城間さんの証言を引用します。
省略と編集をしてあります。

畑仕事は、ユイマールといって六名ぐらいずつグーなって(組になって)今日はこの畑、あしたはこの畑と仕事をしました。結婚するまでは、那覇の市場へ売りにも行きました。国場川からティンマグヮー(伝馬船)にキャベツや大根をのせてね。ほうれん草の時は歩いたりしてね。
畑はウージ(さとうきび)の他、芋、タマナー(キャベツ)、シブイ(冬瓜)、グンボー(ごぼう)、レークニ(大根)、人参、トマトなどいろいろ作りました。
畑がない人や少ない人をヒヨーのように雇い、(略 賃金説明)
ヒヨーというのは日雇いのことで一日いくらで雇われ、あとはイリチリといって一ヶ月いくらというように。p98

伝馬船はここから先、国場川から長堂川にも行って、今の津嘉山の琉球製糖の所までも運んでいました。国場川は川幅は同じだけど、今よりずっと深かったよ。それに汽車や馬車より運賃が安かった。
野菜はやはり伝馬船や馬車、汽車で那覇へ運び、東町市場で直接店を広げて売りました。だいたい七時頃から市場で売って、昼過ぎからは町まわりをしました。p98、99

クエーフニ(肥料を積む船)に畑の肥料をのせて那覇からも運んで来たよ。汲み取りしたものさ。国場川から運んだ。また那覇なんかで大きな行事があったら豚のソーキ骨をもらいにいくこともあった。骨は粉にするといい肥料になるからね。
国場の女の人達は小学生のときから野菜売りをしていたけどね。その他にフルガニコーヤー(鉄くず買い)もしていたよ。金城というフルガニを買ってくれる店があったからね。那覇の民家をまわってフルガニを集めてその店に売るわけ。 p99

私の実家の葬式のときは、識名から三人の坊主がやってきていました。当時は国場は龕がなくて上間や嘉数(豊見城)から借りていました。それからニンブチャーというのを頼んできて、葬式のときの旗を持たせたり、家の門の傍でケーンケーンと鉦を鳴らしていましたよ。ニンブチャーには死んだ人の枕元にあげたミミガーを渡しました。p104


国場の水運の利がわかりますね。汽車や馬車より伝馬船を使った方が安かったというのも面白いです。
国場川水系
この図では新橋ヌ前、仲毛ウリグチーの二箇所を書いてありますが、国場誌の「集落の名所遺跡跡地図」には十箇所の船着き場が書かれています(仲毛ウリグチーは最内部です)。長堂川はここを参考にして下さい。

与儀の暮らし

なは女性史証言集にある証言を拾ってみたいと思います。
1901(明治34)年に与儀で生まれた城間さんの話です。引用は抜粋や省略があります。

私の家は農家だった。畑の大きさは憶えていないが主にサトウキビを植えていた。
大正時代の畑作物は、サトウキビや芋で、タマナー(キャベツ)、ほうれん草などの葉野菜も作っていた。大根はシマレークニ(島大根)だった、ゴーヤー、ナーベーラーはサトウキビや芋作りに忙しくて手が回らず、放っておくとすぐ木に巻き付いて上に伸びるので畑には作らなかった。p79

母は豆腐を作り、東町で売って生計を支えていた。(大豆の)煮立て汁を固めるときにウス(塩水)をいれた。にがりとして使う物で、その塩水を買いに泊に行った。一斗缶に買った。
私が結婚した頃は泊から売りに来ていた。また近くの古波蔵の海のきれいなところから海水をとって来ることもあった。
芋や豆腐作りに使う燃料は真玉橋の方に松の葉っぱを取りにいった。p80、81

1914(大正3)年 真和志尋常小学校を卒業してから結婚するまで、12、3歳から20歳まで帽子編みの仕事をしていた。部落のクシウフンミ(後大嶺)に、与儀の女の人のほとんどが集まって帽子編みをしていた。
那覇で仕事をしたくて与儀から一人だけ希望して(久茂地の)「アファリ」に行った。現在の与儀十字路から那覇高校前を通り、沖縄電気会社近くにあった「アファリ」に歩いていった。p83、84

馬のエサとしてサトウキビの葉を売りにいくこともあった。通堂や垣花の港には、近隣の田舎から荷物を運搬する馬車が集合した。夕方馬主は家に帰る時葉を買うので時間を見計らって波の上まで売りにいったことがある。
売った収入でその日の夕飯のおかずや、米や鰹節やスルルーなどを買った。また子供達にはたまにお菓子をお土産に買って帰ることもあった。一日に一回はご飯を食べていた。p86

ハシグチ、東町、潟原マチグヮーなど、どこに売りに行くかは売る物によって場所が決まった。たとえば現在の知事公舎のところにあった芋畑からは、壷屋経由で潟原が近く、芋は特別洗う必要がないので畑からそのまま売りに行った。
また与儀の家近くの畑からは葉野菜が取れたが洗わなければいけないので洗い場に行き、そこから近い東町やハシグチの市場へ行った。歩きながら道々で売ることもあったが、市場はそこに置けば売れるためほとんどは市場で売った。p88

1928(昭和3)年農事試験場建設のときは内地からたくさん人が来た。夫も土地をはかりに行った。サトウキビ畑が広がっていたが農事試験場がみんな取った。あそこは与儀部落の財産だったが強制だった。p89

(戦後)与儀でも地べたに建てたカバヤー(テント小屋)に住んでいた。キャベツなど野菜を作り、ようやく生活が落ち着き始めようとしたときキャベツ畑に米軍のブルドーザがやってきた。米軍のガソリンタンクを作るためだった。p93


豆腐、サトウキビ、芋、葉野菜、大根等々多角的ですねぇ。決まった市場ではなく場所を選んで売りに行ったというのも面白いです。また農事試験場が与儀部落のものだったとすればかなり広い農地をもっていたことになります。
城間さんは職業婦人、あるいは賃労働者の出始めでもありますね。
文中で「一日に一回はご飯を食べていた」とありますが、これが意味するのは当時としてはかなりいい暮らしをしていたということです。

※文中の潟原マチグヮーは「泊市場(カタバルマチグヮー)」と書かれていますが、場所の説明に「沖縄電気会社から久茂地橋を渡り右に折れた場所」と書いてあるので潟原マチグヮーに直しました。ちなみに泊市場は上之屋近辺です。

新しい女たち

明治・大正に出現した「新しい女」「モダンガール(モガ)」についての論文があります。
1920∼30年代沖縄における モダンガール という問い
http://www.igs.ocha.ac.jp/igs2/igs/IGS_publication/journal/9/journal09001.pdf

このブログでは内容については扱いませんが興味深いとこを抜き出してみたいと思います。写真は上記pdfから。

伊波普猷と「新しい女たち」。沖縄組合教会設立(1916/大正5年)の頃。前列左より永田八重子、真栄田冬子(伊波冬子)、比嘉初子(富原初子)、永田美津子、永田文子。後列左より知念芳子(金城芳子)、伊波普猷、比嘉静観、伊波普成(月城)、照屋寛範。

pdf中から。
山形屋は華々しい舞台でもあったようです。
1930年はまた、山形屋が大門前通りに新しい百貨店スタイルの店を出し、20人の「デパートガール」を募集した年でもある。募集の条件は「容姿端麗、頭脳明晰」で、このとき130人が応募し、最終的にはすべて高等女学校を出た20名が採用された。

大久保、木口両者ともに医者の子女です。
この大久保の父は若狭病院で引用した証言の中の「大久保医院」だと思われます。
大久保M子と木口T子の家族は、もともと大和出身だが那覇に定住している。大久保の父は徳島出身の医者で那覇には1896(明治29)年に来た。クリスチャンである。木口の父は、鹿児島出身で、やはり医者であり、1885(明治18)年に那覇に定住した。

西町の医師の子女ですね。
田中T子さんは芳紀二十歳*西本町の医師田中音吉氏の長女で昭和七年春県立二高女を卒業され、同年大阪市岡高女専攻科に一年学ばれ、和裁の方を専攻されました。

1930年に西町に美容院があったと。
新垣美登子は遊学中の東京で小説家の池宮城積宝と出会い結婚した。しかし積宝との共同生活は短く、新垣はひとり那覇に戻って県庁に勤務しつつ子育てをした。その後、再度の妊娠がわかると、新垣は美容師として自活の道を確保するため、1928年に東京のルイズ美容専門学校で学び、1930年に那覇・西本町で、伊波が勉強会を開いていた家に「うるま美粧院」を開業した。
那覇でおそらくもっとも早くに開いた美容院として、新垣の店は評判を呼び、当時まだめずらしかったパーマネントなど、ファッションをリードした。

池宮城積宝は東寿寺(堂小)で紹介した奥間巡査の作者です。

伊波普猷らが設立した沖縄組合教会には県立高女の一群の若い女性たちが集った。そのうち、のちに沖縄の「新しい女」として知られるようになったのが、以下の5名でる。
富原初子(1888-1974)明治21年生まれ
真栄田冬子(1897-1975)明治30年生まれ
玉城オト(1897-1993)明治30年生まれ
金城芳子(1901-1991)明治34年生まれ
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ


若狭病院で引用した島袋さんは那覇下泉の士族の家庭に明治36年(1903)に産まれていますが高等教育など望むべくも無い状況だったようです。
モダンガールの出現は那覇に外来文化と消費社会が定着し始めたのと同じ頃だと思います。そして一高女、二高女に進むことができた彼女達が明らかなアッパークラスであったことは確かです。

クヮンチェーバク(棺箱)

タカラムンともいう。寸法は唐尺にあてて作った。七分の杉板を用いて作った。洗骨の早いのは、この板を利用してクェーワキー(肥桶)を作った。年寄りのいる家では前もって用意しておき天井にあげておいた。
那覇市泊では、大正時代に大城のハクヤーがあって、タカラムンツクヤーが白布と枕もつけて二円五十銭であった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p636


以前ドウグヮーと鉦打ちで葬儀について触れました。浦添の内間誌の記述からですが上之屋に棺桶を買いにゆくという話がありました。

ダビ一切の面倒を見る。棺桶を買いに行く人(上之屋にあった)。
内間誌 p73

[上之屋には]その他特殊な職業としてクヮンチェーバク(柩)ツクヤーがあった。
上之屋誌 p44


那覇市史では泊で棺桶作りをしていた人間がいたこと、内間誌では上之屋に棺桶を売っていた人間がいたことがわかります。「ハクヤー」は「箱屋」でしょうか。
上之屋は以下のような部落です。

天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39


薪などの水揚げ場所であった泊港の北が交通の要所となり、近くに市場もでき居住者も増え独立した字となったというのが上之屋であったようです。また隣接する泊の新屋敷も新しい時代の居住区域です。
想像でしかないのですが、上之屋に住むようになったのは古くからの仕事を持たないような(都市のスタイルを持った)住民で、泊新屋敷に住むようになった人達とは似たような境遇だったのではないでしょうか。那覇市史での「大城のハクヤー」もそのような人であったのではないかと思います。

関連:グダグダ(β) クヮンチェーバク(棺箱) 2

ドウグヮーと鉦打ち

引き続き内間誌からですが葬送の項目に「ドーグヮーヤシチ」というのが見えました。
以下抜粋して引用します。

幹事
ダビ一切の面倒を見る。棺桶を買いに行く人(上之屋にあった)。

カニウチ(ニンブチャーとも言った)
何某が死亡したということをグソーにお知らせする意味だと聴いている。門の片隅に座を作って鉦をつるして葬式が終わるまで鉦を叩く役、ドーグヮーヤシチ(クニンダ)に行って頼んで来た。一人から二人であった。

坊さん連絡
約束の時間になると徒歩で来てお経をあげてくれた。一人から三人であった。末吉遍照寺の住職が来てくれるのが多かった。

出棺
ヤーゼー箱(葬式に必要な小道具入れ)持ちが先に行く。しばらくして頭に白紙を巻いた傘をさして個人の位牌、つづいて相続人とお坊さん、親戚の男、一般会葬者の男、コー、親戚の女(泣き人)、一般会葬者の女、最後にティンゲーを持ったカニウチと続いてゆく。
(略、墓におさめてから)坊さんがお経をあげ、供物を供えて会葬者が手を合わせて冥福を祈り、最後にカニウチが手を合わせ鉦をならして「後生極楽ウトーイミセービリ」と結んだ言葉が印象的であった。
内間誌 p73(省略編集)


興味深いのは棺桶を買いに上之屋へゆくというところと久米村の堂小屋敷に鉦打ち・ニンブチャーを頼みにゆくというところでしょうか。ニンブチャーは引用した通りのことをするのですが半ば賤民扱いされていたようです。

鉦打ちやニンブチャーはよくわからないので保留にしておきたいのですが、那覇近郊部落の葬儀で久米村まで呼びにいくなら真和志などでも同様であっただろうなと思います。
ニンブチャーやチョンダラーは本等もあるようなので読んでみてから考えます。

ブタジョーグーのうちなーんちゅも年がら年中食べていたわけではありません。現在のように大規模な養豚も行われておらず各家庭で飼っていた豚を潰すのは盆と正月が主です。那覇では肉市場もあり小さく切られた肉を購入することも可能であったようですが一頭丸々潰すとなると保存食にする分も含めて大掛かりで日常で行うには大変です。
盆正月などの肉を口にする機会を楽しみにしていたのがうかがえる文があったので引用させて頂きたいと思います。那覇ではなく本部でいわゆる田舎の話ですが、「田舎」といっても那覇・泊・首里(と久米)以外はすべて田舎であって、マチがたち商業と貨幣経済が萌芽を見せていたこれらの地域が沖縄では特異的なのです。
以前に引用した船越義彰さんは大正末年生まれの辻育ちで生粋の那覇人ですが、義彰さんの少年期の想いでと引用した戦前の昭和の田舎の想いでを比較するとよくわかるかと思います。

当時の沖縄の慣習としてお正月用の豚『ショウグワチャー』を一軒で一頭宛屠っていた。中には二軒乃三軒で一頭のところもあった。芋と裸足の時代で、肉類を口にするのは正月とお盆と折目(ウイミ)の時だけであった。
 成長盛り、喰い盛りの高等科一年生の級友達は一刻も早く家に帰りを、トシノユルーの豚肉料理を腹一杯たべたかった。学校周辺の家々からはチーイリチャーのニンニクの葉の香りが漂よい、いやが上にも食欲をかき立てていた。
■II.昭和戦前期 -思い出の記 思い出の写真

http://www.town.motobu.okinawa.jp/schoolnet/motobu-e/100kinensi/sz/sz_omoide_t03.html

クニンダの正月

久米村では正月はどうやっていたのでしょうか。

大晦日のうちに掃き清め、仏壇前と火の神前を飾り付ける。
明け方に来る若木売りの声に起こされる(若木は縁起物)。
アチホー(恵方)の井戸から汲んできて仏壇と火の神にお供えする。
子供は早く起こされて若水で顔を洗い、着替えて仏壇を拝み、両親に新年のあいさつを述べた。
まず宗家、親戚の高齢者から年始廻りをする。
二日目にはハチウクシー(仕事始め)、子供は書き初めをして仏壇に供える。
三日目には「ミッカ ノ シュク」(三日の節供)で夕食の膳を仏壇に供える。
四日の晩には火の神が天からお戻りになる日なので香炉のある場所には新しい札と聯を張り出してお迎えする。
七日目は「ナンカ ノ シュク」で七草雑炊を仏壇に供える。
出典:那覇市史 資料編第2巻中の7 p109、110(省略編集)


七日目まで書きましたががこのあと毎日ではないけども二十日の「ハチカ ソーグヮチ」まで行事があります(トゥシビーウィエー、ショウニンウィエー、アトゥシビー、ハリヤクとイリヤク、十五日、十六日のお墓参り)。
ほかには「ウビナリー(水撫り)」というのがあり、女性は吉日をえらんでユーチヌサチにお参りしたようです。
では大晦日はどうか。

トゥシ ヌ ユール(歳の夜=大晦日)
赤飯に豚肉のお汁、酢の和え物、ヒルヌファー(大蒜の葉)を夕食、仏壇にも供える。
ヒルヌファーは添え物で食べない。
床につく前にトゥシトゥイクニブ(年を取る九年母)といってシークヮーサー(クガニー)を家財道具一式に一滴ずつ感謝の気持ちを込めておいてやる。これは年を取らすという意味。
夜間トイレに行くのはタブーとされどうしてもという場合にはヒルヌファーを持参した。
またトゥシジリ(歳末の決算)もこの夜だった。
出典:那覇市史 資料編第2巻中の7 p126(省略編集)


那覇市史から抜き出しましたが古老の証言だと思われます。お年玉に一銭から五十銭(かなり多め)をあげたという話もあります。
明治期に近い久米村は衰退が激しい家もあり行事がすべて行われていたわけでもないように思いますが貴重な証言であることには間違いありません。また町方、町百姓、地方の百姓、首里等々すべて違う風習があったと思います。
資料編にはこのあたりも詳しく説明されていますので興味のある方にはご一読をお勧めします。

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