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いちゃんだゆーぶる

写真集の「むかし沖縄」に面白い記述があったので紹介します。

また夕闇せまるころになると電気会社から流れる湯を無賃風呂(イチャンダ・ユーブル)といい付近の男女が久茂地川に注ぐ溝で浴びる風景もあった。
むかし沖縄 p77


沖縄電気会社は久茂地小学校そばです(橋の位置が現在と違うので注意)。沖縄電気会社では八重山の石炭を燃やして発電していましたから使い終わった蒸気や熱湯を川に捨てていたのでしょうね。
当時風呂屋が普及していなかったわけではありません。

湯屋は2、3年前に比しさしたる増加なく区内の営業者24件なり。
明治40年6月 琉球新報


これは市井雑感という記事で旧那覇の範囲のことだと考えられます。旧那覇の範囲に24軒ですからけっして少なくはないのですが多くの貧しい人達を抱えてもいましたから無料風呂はありがたかったと思われます。
参考:那覇の細民

高倉幸次郎追想録にも記述があったので引用しておきます。

久茂地尋常小学校は久茂地河畔にあった、流れの清い川には魚が泳ぎ、子供たちも水と戯れた。それに久茂地川には名物があった。電気会社から川へ排出される「湯」である。電気会社のモーター冷却用の水であろうか、ちょうど浴場の「お湯」の熱さになって濤々と川へ流れ込むのである。子供たちは、それを「ユーフル(お風呂)」に見なして、時間をかけてたのしんだ。
高倉幸次郎追想録 p199


こちらは那覇の民俗ニュースから「発電所とユーフル」を引用します。

当時の発電所は石炭を使用し、西表炭が主で1ヶ月1回の那覇港着の石炭船は港の伝馬船を結集して、昼夜兼行で荷揚げし、久茂地河の満潮を利用して発電所前に着くと、家族ぐるみの作業を終わると再び通堂へと3日間作業で6円あり、死にものぐるいの儲けジュクと船頭は話していた。
夜になると発電所の機械を冷やした湯を裏から流したが、当時のパナマ帽の盛んな時で、帽子あみたちがイチャンダユーフルとばかりにたくさん集まった。男女の別なく、恩納は着衣のままで浴びたが、機械場の職人が使い残りの重油を排水に流し、悪質なからかいをする時もあった。
7時、12時、6時にはピーピーと時間を告げる汽笛が鳴った。
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コードールー(香灯籠)

旧暦の正月十六日(ジュールクニチ)はグソーの正月とされています。

正月十六日には那覇では走馬燈一対と香灯籠一対を墓参して墓前につるす。一尺五寸の渦巻きで赤白黄の紙を各三枚九箇所ににさげる。約3時間燃える。
首里では新参や百姓が用いる。
那覇市史資料編第二巻中の7、p342


もう殆ど見ませんねー 
形は丸く太めの蚊取り線香のような感じで、しめ縄につくような紙が下がっていたかと記憶します。

クヮンチェーバク(棺箱) 2

クヮンチェーバク(棺箱)の続きです。

棺造り
琉球は古来より相互扶助が発達し、葬式は近所(隣組)が取り仕切った。それで棺は死者の家の庭で大工や細工勝手がつくったが、大正年間から金持ちは葬儀社に頼むようになり、棺屋ができた。(略)
那覇市史 資料編第2巻中の7 p337


那覇市泊では、大正時代に大城のハクヤーがあって、タカラムンツクヤー(棺作り)が白布と枕もつけて二円五十銭であった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p636


那覇市史の別箇所にあったのでまとめられなかったのですが専業の棺造りは大正以降の風習のようです。
これまでをまとめると那覇市史では大正時代の泊に棺造りがいたこと、内間の記録では上之屋に買いにいったこと、上之屋誌では棺作りがいたことがわかります。上之屋は周辺市町村や泊の人間の寄り合い部落で、馬車の停車場設置による人口増加で自然発生したところですから歴史は古くありません。
細工勝手(セークガッティ)も引用しておきます。

細工勝手
本職の大工ではないが、手先が器用で大工仕事のできる人をいう。役人になっても収入のある官職になるまでは相当の年数を要するので、手先の器用なものは非番の日には大工に代って仕事をしたり、細工物をした。そのうちに技は上手になり、彫刻、印刻、指物、挽物などで大成した人もいる。もっとも彼らが多くやったのは甕や鍋や釜の蓋、柄杓、まないた、玩具などの日用品製造であったが、飛白結・仏画描き・飾職・表具などあらゆるものに手を伸ばした。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p336

前島のスクラップ

戦後泊前島一帯は米軍部隊が駐留しており返還されるのは暫く経ってから(55年/一部52年)です。その間に泊部落にあった小さな丘は整地され前島はスクラップ等で埋め立てられました。
この前島に埋められたスクラップは朝鮮戦争時の鉄需要により掘り起こされ売却されます。沖縄全体で見ても戦後の輸出額でくず鉄は大きな割合を占めます(55年で輸出額2位)
参考:那覇市有地/輸出品目(55年)

なお南部戦線への物資集積部門も前島であり、朝鮮戦争への補給基地もこの前島にあった。朝鮮戦争(1950〜53)が終息し前島からの軍用物資は送り返されこの前島東側の柵外の久茂地川に泥土で埋め立てられるように多量に集積された。当時朝鮮戦争景気でスクラップが高騰した時代でこれらの資材を発掘するためスクラップブームを現出したのである。
前島町が米軍から返還される前の1953年頃米民政府土地課長の配慮によって金網撤去をのばし前島塩田一帯の地下埋蔵スクラップの発掘権を獲得し、スクラップ委員会を組織して統制ある発掘を行いこれらのスクラップを販売して当時の金で二百万円余の資金を造成し前島青年会館の建築造成に充当した。
泊前島誌 p41

参考:旧那覇地区の解放順序(52年まで)
参考:立ち入り制限(2)

立ち入り禁止区の境界にあった柵/金網を撤去する日時をのばし、柵内に立ち入る形で前島住民(スクラップ委員会)の委託業者が撤去作業を行えるように配慮したということのようです。
泊前島誌のp421〜p431は「前島スクラップ委員会の活動」となっていて、1955年の請負業者との契約書内容等があります。地主3割、業者が7割の取り分だったようで、業者名は當銘直喜、屋宜宗一とあります。

写真は左が久茂地辺り(54年ごろ)、右が那覇市内の一号線(54年頃)だそうです。
久茂地(54年)一号線(54年)

イリチリー

安謝誌にイリチリーについて説明がありましたので引用します。

イリチリーとは他家に泊まり込んでその家の仕事をすることだが、例えば
•借金返済のために一定期間、貸し主の家の仕事を泊まり込みで行う。
•畑の少ない人が、豪農の家に泊まり込みでその家の仕事をし、労賃の代わりに、主人から無償で畑を借りる。
•労賃は無く、単に寝食させてもらうだけの条件でその家の仕事をすることもある。これなどはまさに、親元の食口を減らすだけの手段に過ぎない。
安謝誌 p40


国場のくらしでの証言にも少しイリチリー(とヒヨー)のことが出て来ます。
前金で借金をして様々な労働形態で返却するのがイリチリー、日払いの日雇いがヒヨーということでしょうか。
畑がない人や少ない人をヒヨーのように雇い、(略 賃金説明)
ヒヨーというのは日雇いのことで一日いくらで雇われ、あとはイリチリといって一ヶ月いくらというように。
なは女性史証言集 p98


資料を読んでいると地方の豪農のことが出て来ますが自分が土地制度のことを知らないためどういう風な発生をしていたのかわかりません。
土地制度に関しての参考になりそうなページから引用しておきます。
地割制 じわりせい:近世琉球にあった村内の耕地割替制度で、明治36年(1903)年まで存在した。その起源は、古琉球からあったとする説と近世に始まったとする説があり、決着していない。近世琉球には、百姓地・地頭地・オエカ地・ノロクモイ地・仕明地などの耕地区分があったが、割替えは、基本的には百姓地・地頭地・オエカ地で行われた。
杣山 そまやま:王府の山奉行が監督し、間切・村(島)が管理する山。間切・村(島)は、総山当・山当の役人を置き、必要な林産物を無償で取ることができた。王府が材木を必要とするときは、間切・村(島)に代価をはらった。
http://www.miyakojima.net/kotoba/sa.htm


わかりやすい説明もあったのですが長いので畳みます。つづきをクリックして読んで下さい。
これらの土地制度が明治32年の沖縄県土地整理法で解消されるわけですがそれ以前に富を蓄積できる条件というのが自分にはいまいちわかりません。しばらくは勉強しながら証言や資料を追ってゆくつもりです。
引用させて頂いた皆様に伏して感謝申し上げます。m(_ _)m

アフリカマイマイ

見るもおぞましいアフリカマイマイですがWikipediaによると当初は養殖動物として移入したようです。

食用目的で人為的に移植された経緯がある。沖縄県には1932年(昭和7年)以降に台湾経由で移入され、当初は養殖動物として厳重に隔離され、飼育されていたが、沖縄戦を機にこれらの飼育個体が野外に逸出した。奄美大島へも、やはり食用として陸軍が持ち込んだ。小笠原へはジャワ島から持ち込まれた。
沖縄県では逸出時期がちょうど敗戦直後の食糧難の時代であり、途方もなく大きな本種は当時県民の格好のたんぱく源になった。しかしほどなく食糧事情は好転し、日本にもとより陸産巻貝を食べる習慣がなかったことや、外観が敬遠されるようになり、放置された個体が桁違いの繁殖力で爆発的に増加した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アフリカマイマイ


2010年発行の安謝誌にはアフリカマイマイについて書かれています。
昭和19年頃まで、多くの家庭でアフリカマイマイを食用として飼っていた。繁殖力旺盛なアフリカマイマイは、今次大戦後いたる所で繁殖し、戦後の食糧難の時代に多くの人が食した。
安謝誌 p41


昭和7年以降から戦争まで、そして戦後すぐの困窮の時期まで食べられていたということでしょうか。確かに戦前の困窮する地方民の生活を考えると場所もとらず只同然で馬鹿みたいに増える食料というのは夢のようだったかもしれません。生きるためにジュリ売り、糸満売り、イリチリー、年季奉公などで口減らしを行わなければいけない状況では贅沢は言ってられないでしょうからね...

獣骨/屎尿(肥料)

国場のくらしでの城間さん(明治43年生)の証言に獣骨を肥料として使うという話が出て来ます。

クエーフニ(肥料を積む船)に畑の肥料をのせて那覇からも運んで来たよ。汲み取りしたものさ。国場川から運んだ。また那覇なんかで大きな行事があったら豚のソーキ骨をもらいにいくこともあった。骨は粉にするといい肥料になるからね。
なは女性史証言集 p99


屎尿と獣骨ですね。そのほか自家製の山羊の肥も使われていたようです。
明治40年の琉球新報に獣骨販売業についての文がありますので引用してみます。

「市井雑観」 獣骨販売業
この営業者は国場、仲井真辺の者最も多かりしが、多く無鑑札者で公然と許可を受けたる者は7人なり。
琉球新報 明治40年6月


許可制で鑑札が必要だったこと、国場と仲井真で多く獣骨が扱われていたことがわかります。
那覇市史は屎尿処理をこのように書いています(※ここでの那覇市は旧那覇市です)。

那覇市の中央部や周辺の町は主に小禄村、豊見城の農家が処理に当たり、北部の泊方面は真和志村上泊、安謝、銘苅、真嘉比または浦添村の農家が処理してくれたものである。
---
(那覇)市の中央部は農家が数件と口答契約し随時汲取をなしていたが、もとより金銭による汲取料金を支払うことはなく、無償であり、逆に農家は時折野菜を届けていた。
---
随時汲み取っていたので屎尿処理に悩まされることはなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p419 (省略と編集)

大石の呪い

1904(明治37)年に寒川(スンカー)で生まれた比嘉さんの証言から引用します。
この証言は比嘉さん個人の生活史というよりは親戚まで含めた生活史が当時の変化を反映しているので一部の抜粋が困難です。

比嘉さんのおばあさまは与那原でジューシーや天ぷらを売ったり、役者を雇って寒川や泡瀬で芝居を見せたりしていたそうです。また引っ越し先の中城では学校の門口で文房具を売っていたこともあったと。さらにまた高嶺村与座(現糸満市)の製糖工場近くでジューシーや天ぷらを売っていたこともあったと。
寒川芝居に関わっていた人が女性だったというのも面白いです。

比嘉さんのおばあさまの移動は、ひきとった子供の勤務先、(子供の)結婚相手の勤務先(製糖工場)、によるものです。比嘉さんが15歳の時に亡くなられているとのことなので1919(大正8)年ごろ鬼籍に入られています。
この移動は子供達の生活上の理由によるものですが、その当時の年寄りが異動先で小資本でも可能な商いをすばやく始めることが出来ていたこと、その逞しさなどにすこし呆然とします。
(比嘉さんの)祖母は旧藩時代の暮らしから明治維新、そして土地整理という変化をおそらく経験しています。さらにはこの激変の中で変化してゆく生活スタイルにもきちんと対応できていたことなどにも驚きます。世が世なら商売で財を成していてもおかしくない人だったのでしょう。

[引き取られた叔母の家(鈴木完次宅)]は下泉町一丁目でした。今のバスターミナルの大石の隣で二百坪余りの土地に、自分達の家と四軒の貸家もありました。石の下に井戸があって使っていました。(略)
後でおじさんの屋敷を買った人、島袋といいましたが、落葉に腹を立てて木を切ってしまったところ、その日のうちに死んでしまったというのです。その後にも似たような不幸があったので、あの大石は今のバスターミナルの中でも動かせないのです。一度だけ火花が走ったのを見たことがありますがそれは神様だといわれました。p147、148

おばさんの家では、初めはいわし売りのカミアチネー(行商)をしました。東町で卸で魚を買い、それをいれたザルを頭にのせて、若狭町、久茂地、松尾辺りを廻って売りました。市場まで行くよりは、とよく買ってくれました。
それから通堂、三重城にボタン会社があって、針でボール紙にボタンを付ける仕事もしました。賃金は十個つけたら八銭とかね。p148

鈴木(完次)は学校を定年で辞めて大坪ドンという米問屋の会計をして60円もの月給を取っていたのですが、そのうちに鈴木がシビナー船(まぐろ船)を買って一回目は二百円もの大量でよかったけど、あとは欠損ばかりでとうとう家も手放してしまったのです。
鈴木のおばさん達は、夫が船で失敗してからは、垣花で家を借り、下宿屋をしていました。p149、150

父の実父は私が生まれた明治33年に亡くなっているので、(父は台湾から)33のオワイスーコー(三十三年忌)に帰って来たのです。そこで辻で育った私より四つ下の妹が訪ねてきました。「さくら屋」という屋号でした。ウトという名前で、ずっと姉妹の付き合いをしましたよ。辻にいたので私とはいろいろと違っていましたがね。p151
昭和25年、子供が小学校一年の途中まで為又(名護のびいまた)のヤマノミー(山の中)に住んでいました。那覇へ出たのは、私の妹、さくら屋のウトが辻から出て、松尾の「南海」という料亭の後継ぎをしていたのでそれを頼って出て来たのです。p157

一銀通りがまだ出来ていない頃に、私は今の海邦銀行のすぐ横で雑貨店をしていました。しかし家主が自分で店をやるから出ていくようにといわれて、困っていたら、近所の小川さんという人が、私の家でやりなさいといってくれたのです。なかなか繁盛していたのですが一銀通りが出来る時に立ち退きになって引っ越さなくてはならなくなりやめました。p157


寄留商人の大坪ドン(殿)のことがでてきますね。ボタン会社は貝のボタンを作っていたのでしょうか。

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