沖縄県史の別巻に砂糖仲買人についてあったので引用します。
主に移出商人の委託をうけて生産農家から黒糖を買い集める仲買商人をいう。サーターコーヤー(砂糖買い)などと呼ばれた。夙に薩摩治下に印判をうけて来沖し農村を巡り歩き焼過糖の私売買に携わる薩摩商人が存在していた。明治以降沖縄糖の移出業は鹿児島等他府県人の寄留糖商によって独占的に営まれた。糖商は数十人に限られていたのに対して大部分極零細な黒糖製造農家は数万戸にのぼり地方分散孤立の状態にあった。糖商自ら農村に赴くこともあったが、それでは地方農村に広く散らばっていてかつ2、3挺ないし4、5挺を産する程度の細農から数千挺ものまとまった量を買い集めることは難しかった。そこで糖商は皆各数人の砂糖仲買人に買い集めを委託するのが通常の取引方法となった。砂糖仲買人が「糖商の手先」といわれた所似である。彼らは糖商の縁故者とか商売気のある農村人とかであった。
沖縄県史別巻 p278「焼過糖の私売買に携わる薩摩商人が存在していた」ってのは面白いですね。
砂糖仲買人の消滅はこんな感じらしいです。
明治30年代後半委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。仲買人は「糖界の寄生虫」「無用の中間者」などと非難され、彼らの盛時は去った。しかしながら委託商は一挺あたり幾何かの手数料を主たる収入源とする営利業であったから問屋となって取扱量を大量化して増益を図らざるをえなかった。他方では生産者は依然零細で地方に広く分布していたから委託商自身が何らかの仲介商人を必要とした。
明治末から大正、昭和にかけて新手の大手糖商が買い出動し、黒糖の仕入れ競争が繰り広げられ、その間を種々の仲買人が活躍した。この頃の仲買人はブローカーとも称した。農村の有力者や馬車持ち(バサムチャー)も仲買商人の役を努めた。
大正末頃から産業組合の進出著しく黒糖取引は急速にその手に集中されていった。1941年黒糖集荷が産業組合連合会に一元化された時糖商もろとも砂糖仲買人も真に無用のものとなった。沖縄県史別巻 p278部落ごとに製糖するような小さな単位が田舎に散らばっているので集荷するための人間はどのみち必要だったということですね。砂糖前代で拘束しつつ相場より安い価格で買い上げるシステムは農民の無知に半ばつけ込むような形であったわけですが、そのシステムに対抗するシステムがより有利な条件を農民に示してシェアを奪ったというのは面白いです。
ちゃんと調べてはいないのですが、戦前はやたら産業組合結成のニュースがあるのを見ることができるんですが他業種のそういった動きもこういう流れの上にあるのかもしれません。
1941年の一元化は戦時の為でしょうか。
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