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沖縄砂糖商店について

承前。
グダグダ 砂糖仲買人
グダグダ 前代(まえだい/めーでー)
グダグダ 沖縄砂糖商店

生産者の裁量による処分が可能であった焼過糖(たきかとう)の買い取りに携わっていた砂糖商人は拡大してゆき、砂糖市場はほぼ寄留商人の独占状態になりました。
砂糖商は内地の市場へそれらを販売し、県内の生産農家へは前代と呼ばれる借金などで拘束しそこからも利潤を上げていました。また農村で生産する単位は小さく広範囲に広がっているため砂糖の直接買い付けは仲買人とよばれる中間業者がおこなっていました。

その頃の沖縄の砂糖商人は大阪の相場を標準にして農家を駆け巡り砂糖を仕入れ、便せんがあると次々に鹿児島や大阪に送り出し、市場で入札に付して、引き合えば売り、引き合わなければひかええているという単純なものでした。
黒糖に関しては沖縄商人が商勢を制することができるはずなのに、何の策略もたてず個々別々な一騎打ちのありさまで、上がる利益をあげ得ていませんでした。そのかわり沖縄の糖商はその牙を農村に向け農村からあらん限りの搾取をしようという態度だったのです。つまり農民に対する高利貸なのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)


「沖縄県史物語」で新屋敷さんは沖縄の糖商が相場に無知で取引が稚拙であったこと、農村への前代などでの搾取で利益を上げていたことを書いています。この前代という制度は王府時代にルーツを持ち、寄留商人もそれに加わっています。
引用文では「沖縄の商人」のみ商取引が稚拙だったので農民への高利貸をしたという風に読めないこともないのですがそれだと誤解を生んでしまいます。砂糖前代には寄留商人、地元の資産家・高利貸も前代貸に関わっていました(県史別巻 p279)。

商店の場所は、那覇区字西74番地にあって1月14日の新聞に広告も出しております。その沖縄砂糖商店を組織していた7人の氏名を記しておきましょう。
比嘉次郎、島袋加那、川津喜助、呉屋仁栄、島袋永保、小嶺幸之、糸満誠忠
沖縄県史物語/新屋敷幸繁 p120


事実関係から考えるとこの沖縄砂糖商店は「丸七商店」です。
ただ沖縄県史別巻の丸七商店の項目をみると名前と住所などが少し違っています。

明治37年、那覇区字通堂に出資者10余人の匿名組合で設立された。
丸七商店が設立された動機は県農商課の仲吉朝助「琉球新報」主筆太田朝敷らの勧誘によるもので(略)
丸七は大阪から砂糖鑑別人桑山伊作を招き、はじめて那覇で大阪と同じ黒糖の等級選別を行い、入札をした。翌年中頭郡の有力者と合流し、琉球砂糖株式会社と発展し、また島尻郡の有力者も沖縄砂糖株式会社を作った。明治の末から大正の初め頃にかけて、本県出身者の砂糖委託問屋は新里、喜屋武商店を加え、4、50軒を数えるぐらいに繁栄したといわれる。
沖縄県史別巻 p511、512(部分引用)


沖縄県人の有力者がてこ入れして各地の有力者もそれに習ったという形でしょうか。
名称が違う件ですが、「丸七商店」は七人の社員がいたところから名付けられたと県史には書かれていますので新屋敷さんの書かれた「沖縄砂糖商店」は「丸七商店」と同じものを指していると思っていいでしょう。
まぁともかく沖縄側も寄留商人に対抗したことを憶えておけばいいんではないでしょうか。
沖縄県有力者(尚家)対寄留商人(那覇)の争いは明治期に盛んに行われています。
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