砂糖は市場で投機的に扱われることもありました。農民から砂糖を買い上げ内地の市場へ出して売るのですが、農民と大手商人の間には砂糖買と呼ばれる人間がいました。
砂糖買はほぼ商人に雇われ前代と呼ばれる借金で農民を拘束し利益を上げていました。砂糖相場で大もうけだとか湯水のように散財する砂糖買のことなども記録には散見されます。
前代は砂糖前代(さとうめーでー)などとも呼ばれます。
引用文中の「一挺」というのは砂糖樽のことです。当時の砂糖は樽に詰められて輸送されており、壺川は山原から送られてくる樽用材を組み立てて樽を生産していました。
当時「前代(まえだい)」という方法で砂糖が出来たときに支払いをする貸借があり、これは利息を三割としたもので、現金と利子の返済は砂糖を持ってなさしめるというものでした。それだけではなく砂糖の相場をはじめに定め、砂糖の一挺を4円から5円と定め、前述の約定で計算するものでした。
これは良い場合でも時価より30銭から60銭ばかりの安値で計算するもので、このような取引は沖縄産の砂糖の20%にも及びました。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)その頃の沖縄の砂糖商人は大阪の相場を標準にして農家を駆け巡り砂糖を仕入れ、便せんがあると次々に鹿児島や大阪に送り出し、市場で入札に付して、引き合えば売り、引き合わなければひかええているという単純なものでした。
黒糖に関しては沖縄商人が商勢を制することができるはずなのに、何の策略もたてず個々別々な一騎打ちのありさまで、上がる利益をあげ得ていませんでした。そのかわり沖縄の糖商はその牙を農村に向け農村からあらん限りの搾取をしようという態度だったのです。つまり農民に対する高利貸なのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)糖商は「砂糖買(さーたーこーやー)」と称する手先を使い、わらじ脚絆で村々を巡って買い集めていました。このような砂糖買はざっと200人もいたということです。
金の必要な農民は他に銀行から借りる術も知らず、これら砂糖買の手に乗って銭の融通を受けていたのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)PR