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授産事業としての人形作り

戦争を経て沖縄には未亡人が多数発生し、男女比のバランスも人口の年齢構成も狂いました。

タイトルの授産事業なのですが、琉球人形や日本人形を生活に苦しむ女性への授産事業として生産させたというのは初めて知りました。戦後に女性が経済的自立を目的として理容師(パーマ屋)やドレスメーカーとして手に職をつけたというのはわかっていましたが、土産物の人形作りということにそういう背景があったのかと驚きます。
子供の頃近所で土産物を内職して干していたのを見かけることがあったのですが、どこかの工場で生産するにしろ、内職として作るにしろ、作業自体は軽作業でしょうから手頃なものだったのかもしれません。

第三代会長(1952〜54)は中村信(1905〜97)である。
婦連会長となった中村信が最も力をいれたのは授産事業だった。戦争ですべてを失い、職を求める女性たちが多く、婦連にも子供をつれた戦争未亡人たちが連日おとづれて仕事の斡旋を頼みにきた。(略)これを婦連の授産事業として各市町村から会員120名を集め、1人1ヶ月二千円の補助金を出して婦連会館に宿泊させ、3ヶ月の間毎日天久にあったエーザ社に通い、技術を習得させた。(略)
また人形作りのため東京に会員を派遣、帰って来た後、日本人形や琉球人形の講習会も行った。これも希望者が多く、製品は米人相手によく売れた。戦前までほとんど作られなかった琉球人形などが戦後、米人や観光客に売れるようになったのは、中村ら当時のリーダーたちが壁にぶつかり挫折をしながらもその基礎づくりに努力した結果だといえる。
なは・女のあしあと(戦後編) p206、207(省略と抜粋)
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那覇への人口集中

1950年に人口5万人足らずであった那覇市は、54年9月に首里市と小禄村を合併して人口11万人になり、57年に真和志市と合併、人口18.7万人の都市になってさらに膨張を続けていた。その頃には那覇女とならぶ商いにたけた糸満女性たちも商売の本拠地を那覇へ移し、宮古や八重山、大島からも移住する人々が増えた。(略)
食料品や衣類、雑貨から建材まで女性たちは多様な商品を扱っていたが、看板に「卸・小売り販売」の文字が多くみられたのは零細な小売業者まで競ってLCを開設して商品を輸入したからであろう。市場が小さいせいもあるが、沖縄経済は機能未分化のまま推移し、輸出1に対する輸入の割合は7〜10という極端に輸入に頼った経済であった。
なは・女のあしあと(戦後編) p181、182(省略と抜粋)


現在への変化の兆しですね。離島の人達の移住の開始です。
ただ同時期には収容所から戻れない人の発生、土地割当制度、極端な住宅不足が同時進行しています。離島から移住してくる人がいる一方収容所から戻れない人もいるというちぐはぐな状況で、さらには土地接収による集団移動もあります。

機能未分化という指摘には頷けます。昭和の時代くらいまでは那覇市内にも個人経営の商店がまだまだたくさんあり、大概は女性が日用品を広範囲で商っていました。また自分で作って(作らせて)自分で売るような女性衣料品店も機能未分化の名残といえるかもしれません。

平和通りの宮古出身者、離島出身者が経営する飲み屋、むかしよくあった「さしみ屋」を経営した糸満出身者などなど那覇をよく見るとあの時代の名残は少し前までいくらでもありました。

1950年の長者番付

「なは・女のあしあと(戦後編)」から引用します。

1950年3月の長者番付をみると上位30位まで那覇、糸満を含む南部地域に集中し、密貿易ブームから貿易庁ブーム、自由貿易への流れの中で財を築いたことがうかがえる。
注目すべきは、上位20位の中に女性が6名も入っていることで、業種は、雑貨、劇場、飲食店、旅館・料亭の経営者等となっている。すべて那覇市の在住者で、中部や北部地域で女性が皆無であることをみれば、商都那覇に女性の活躍を促がす素地があることがわかる。
なは・女のあしあと(戦後編) p173、174(省略と編集)

1951年2月、待望の民間貿易が開始、貿易解禁とともに銀行にはLC(信用状)を開設する輸入業者が列をなし、貿易庁ブームにのって商売の基礎を築いた女性たちも加わって「LC時代の到来」と呼ばれた。(略)
過当競争にあった輸入業者は1953年頃にはかなり淘汰されていた。
なは・女のあしあと(戦後編) p172(編集)

1950年2月、那覇市へのオフリミッツ(米軍人、軍属の住宅地域への立ち入り禁止令)が解除され、米兵が民間地域で買い物をすることができるようになると、小売業やサービス業を営む女性たちはてぐすねひいて米兵が街へ繰り出す週末を待った。当時の那覇市は空軍基地をはじめ、多くの米軍基地を抱える基地の街であった。8月に旧市街地が開放されると、映画「八月十五夜の茶屋」のモデルとなったといわれる料亭ができ、数年のうちに辻町、波之上一帯は米兵相手の料亭やキャバレー、クラブ等が営業する歓楽街へと変貌していった。
なは・女のあしあと(戦後編) p173(編集)


まとめると、「1950年度の沖縄県長者番付の上位30位までが南部地域に集中、上位20位の中に女性経営者が6人はいっていてすべて那覇市在住者である」という感じでしょうか。
船越義彰さんの「狂った季節」の中でも玉城親慶原(だったかな?)にいた義彰さんが復興する那覇の様子を聞いて那覇へ移り住む描写があります。

今ではわかりにくいのですが現在の自衛隊那覇基地は米軍飛行場、小禄ジャスコ一帯も基地でした。小禄の基地時代を自分は覚えていないのですが開放地と呼ばれた返還後暫くの様子は覚えていますし、基地周辺に米軍相手のバーや売春街の残滓があったのも記憶しています(今もわずかにあるか)。
米兵相手の辻のステーキハウスももう無いですし、現代の若い人に伝えようと思うとと意外とめんどくさいですね...

ブリ屋敷(群屋敷)

長屋のブリ屋敷です。

ブリ屋敷(群屋敷)
ブリ屋敷は都市部、特に那覇に多くあった。ブリは群れの方言で、高倉が群立しているのを「ブリグラ」と呼んでいるのと同義で一ヶ所に集まっている意味である。
そこで「ブリ屋敷」は大きな屋敷に数棟の建物があって、その建物は一部屋と台所付きのものも、現代風に表現すると「1DK」が数戸連なっているいわゆる棟割り長屋であった。こういう棟割り長屋が数棟ある屋敷を指しているが、また一戸建ての建物が数棟建っている大きな屋敷もあった。
群屋敷は屋敷および建物まで大地主の所有のものと、屋敷は大地主のもの、建物は住人のものということもあった。
那覇市史資料編第2巻中の7 p229、230


那覇市史の図を模写しました。

垣花の水産関連施設

垣花には様々な水産関連施設がありました。
垣花の水産関連施設
那覇の企業的漁業の発展を支えたのは、政府の産業助成費によるところが大きく、製氷工場、貯氷庫、冷蔵庫、冷蔵運搬船は昭和2〜3年の産業助成費によって建設、建造されている。
製氷工場は宮古と那覇市垣花町の2ヶ所に建設されたが(略)。垣花町の製氷工場は沖縄製氷㈱の経営で、日産18トンの能力を有し、昭和3年末に竣工した。貯氷庫は県下4ヶ所に全額補助で建設された。
冷蔵庫は県水産試験場に設置された。県水産試験場は大正10年に創設されたが、昭和4年に産業助成費によって垣花町に庁舎が建てられ、56トンの冷蔵庫も設置された。
冷蔵運搬船はマグロ・カジキなどを大阪や東京の中央市場に出荷することを目的として、昭和3年に185トン、250馬力の2隻が建造された。経営者は下関の林兼商店㈱である。
近代における地域漁業の形成と展開 p53、54(省略編集)


施設の整備とともに販売の形式も変化してゆきます。
カツオ漁業は鰹節の製造を目的とした寄留商人のものだったのですが結局あまりうまくゆきませんでした。

沖縄のマグロ・カジキの価格は、内地・海外市場への出荷がないために好不漁が増幅されて変動した。林兼商店との取引では、語業者はマグロ漁業団を組織して価格交渉に臨み、折り合わないときには県内で販売することとし、昭和4年に県水産試験場の一角に仮共同販売所を設置し、入札販売を始めた。そして内地への冷凍輸出の見通しがなくなる昭和8年に那覇市水産会が住吉町1丁目に卸売市場を設け、マグロ延縄・深海一本釣りの漁獲物を入札販売するようになった。那覇市水産会は大正11年に設立され、主にカツオ漁業の振興を図ってきたが、カツオ漁業の衰退とマグロ漁業の勃興に対応して卸売市場経営に乗り出したのである。これが沖縄で唯一の鮮魚の共同販売始業であり、水産会が開設者である点が特徴である。
近代における地域漁業の形成と展開 p54(省略編集)

ダシカマボコ

那覇市史にダシカマブク(出汁蒲鉾?)作りの様子があります。春先のトビウオの季節に行商から買い、家族や手伝いもいれて大掛かりに作ったようです。

次は蒸し上がった蒲鉾をござの上に芭蕉の葉を敷いて冷めるのをまつ。冷めたら蒲鉾の端に穴をあけてチサヰ(裂藺)を通して径10センチくらいの輪に結んでおく。
翌日は蒸した蒲鉾を干す作業だ。これは家によってはやり方は違うが前日のチサヰーをを通した蒲鉾を小さい笊に入れて下男がもって台所のカマドの上の天井に登る。まず大カマドの上のタムン棚といって燃料にする薪を積み重ねた棚にはしごをかけて登る。天井裏のくらいところに屋根の煙出しからのわずかな明かりが漏れてくる。ここ屋根裏のの桁を利用して数本の中くらいの竹竿を吊るしてある。これに蒲鉾を通して吊るしてゆく。
蒲鉾は屋根裏に吊しっぱなしでおいて使う分だけその都度おろしてくる。包丁もよいが鰹節削りや大工の使い古しの鉋にかけて薄く削って使う。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p333、334(省略編集)


大正までの蒲鉾の主原料は糸満漁民が多獲するトビウオ、グルクンで、多くが糸満で製造され地元で消費されていた。
那覇では蒲鉾は各家庭の自家製で、2〜3月のトビウオ時期に行商の糸満婦人からトビウオを買って作り、日陰干しにして使う分だけ削ってダシをとった。このダシカマボコは高価なカツオ節やコンブの代用品だったが、市販の調味料が出回る昭和初期に姿を消した。その後、カマボコは本来の食用となりその製造も那覇で行われるようになった。
近代における地域漁業の形成と展開 p54、55(省略編集)


糸満のものは普通のカマボコ、那覇ではダシカマボコで昭和には廃れたという感じでしょうか。ということはカマボコの本場は糸満で、それが糸満人によって那覇で普及したということになるのですね。
那覇市史からもうひとつ「だし」関連を抜出しておきます。

フカの肉は細長く切り塩づけにして天日に干したものをソージリーという。大きな魚は骨を取り、小魚は丸のまま煮て干し、おかずにしたり「だし」を取った。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p330

カマボコヤ

まず那覇の周辺部にあった宿小(ヤール小、ヤードゥ小)。

ヤードゥグヮー(宿小)というのはというのはもともと地方出身者が那覇の旭町や西新町などに「那覇宿」を経営して、郷里のものが那覇へ出て来た場合に宿泊させた施設である、島尻の宿小は旭町に多く、中頭や国頭の宿小は西新町や泊の新屋敷にあった。
林産物をヤンバル船で運んできた人達も、宿小で「出荷と売り時」の検討をした。宮古や八重山の宿小は渡地にあった。
昭和期になると、通堂付近には離島の慶良間・久米島・粟国・伊是名・伊平屋などの宿小が軒を連ねるようになった。
なは・女のあしあと「ヤードゥグヮー(宿小)」 p124、125(省略抜粋)


「近代における地域漁業の形成と展開」から抜粋します。

そしてカマボコ製造は、鰹節製造を抜いて那覇の水産加工品の首位についた。ただ製造者は那覇の人ではなく、那覇に居住した糸満婦人が多く、その夫は南洋方面に追い込み網で出漁していた。
[カマボコ製造の]場所は、糸満宿小が集中する東町の糸満集落である。昭和初期に数戸であった那覇のカマボコ屋は、数年のうちに20戸位に増えた。昭和16年の沖縄県蒲鉾工業組合の組合は54人なので、その後も増加している。カマボコ製造は、一戸1〜2人で動力機を据えたものは少なく、糸満婦人の生業として営まれた。カマボコ製造の社会的な役割は、一方で消費市場を拡大し、他方で追い込み漁やマグロ漁業の魚価の下支え、過剰漁獲物の処理を通して漁業の発展を促したことである。
近代における地域漁業の形成と展開 p55(省略編集)

東町の糸満部落
図は那覇民俗地図を参考にしました。すぐ北は市場ですからなにかと便利そうでもありますね。

「近代における地域漁業の形成と展開」では消費市場の未発達さゆえ規模が小さいことや、内地商人によって内地市場向け商品が開発され経済が活発になってゆく過程も書かれています。またダシカマボコが市販の調味料によって姿を消し、カマボコは本来の食用になってゆくということにも触れられていますが、これは大正期に沖縄そばにカマボコが入るようになったのにも影響しているでしょうね。
いろんなことが絡み合っています。

那覇の漁業民

「近代における地域漁業の形成と展開」には漁業従事者数の推移があります。一部を抜出します。

明治27年 
渡地 8戸/専業8、兼業3、漁船6
泊 1戸/専業2、兼業16、漁船12
小禄間切 167戸/専業284、兼業183、漁船160
明治35年
渡地 4戸/専業0、兼業8、漁船4
泊 13戸/専業13、兼業0、漁船13
小禄間切 152戸/専業205、兼業105、漁船?
明治43年
那覇区 225戸/専業254、兼業163、漁船165
大正3年
那覇区 350戸/専業524、兼業70、漁船67
大正9年
那覇区 382戸/専業448、兼業162、漁船94
近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之 p38表より部分抜粋


この時代の漁業形態はずいぶん変化が激しかったようです。くり舟から船が変化し、漁の方法も変化しました。そのへんも引用した本では丁寧にあたられているので興味のある方は参照していただきたい。

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