王国の首都であった首里は、旧藩時代の人口も5万人近くありましたのに、沖縄県が出発して一年もたたないうちに、その半分に減り、人口25000人にも満たなくなってしまいました。
それもそのはずで、人口の半分は田舎から奉公に出て来た女中や人夫で、首里役人の家には数人の使用人が働いていたのですが、その役人の大部分が職を離れるということになると、召使いを多く抱えるぜいたくはできません。召使いも、故郷に帰って砂糖黍でも作ったほうが生活が面白いと考えるようになりました。過疎になって滅んだ部落もあった農村地帯に過密時代が出現するという時代に移り変わったのです。
また首里人から那覇人になる人も多くなりました。
沖縄県史物語 p13(省略と編集)これもいわれてみればそうだなというとこです。廃藩置県(明治4)からだいぶたった明治末の人口はこんな感じです。
現住戸数人口
40年 5343戸 24786人
42年 5302戸 25101人
大正元年 5301戸 25591人
在籍戸数人口
40年 5824戸 26807人
42年 5823戸 27769人
大正元年 5839戸 28777人
大正2年8月28日 琉球新報同じ記事にはこう説明されていますが、在籍は増えても現在住人口が増えていないのはゆるやかな衰退ではないのでしょうか。
昨紙掲載したる潮内務参事官の談によれは首里区は年々人口及び戸数減少し月々衰退の状に赴きつつありと云ふことに就いて区当局者なる某氏は語って曰く之れは甚だ迂遠なることにして区の現状を知らざるものなり今試に過去6ヶ年に於ける在籍及現在の戸数人口を調査するに殆ど増減することなく現状を維持しつつある有様なれば衰退しつつありとは云はれざるなり左にこの表(上表/省略あり)を示せば大略判明すべしと。
大正2年8月28日 琉球新報PR