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チンナン(かたつむり)2

チンナン(かたつむり)では那覇市史からクスイムンと常食としての二つのケースを引用しました。
お断りしておきたいのですが、個人的にかたつむりがどうにもダメでしてできれば食べていないと信じたいのです(笑)。しかし過去の食料事情などを考えてみるとアレを食べないということは無かっただろうと思わされています。
本などでみられる証言を引用します。

女の子の大収穫は雨後のかたつむり拾いである。大根の周りを指でほじくるとかたつむりがいくらでもとれた、チリビラ畑もそうである、畑の持ち主がみていても文句はいわなかった。害虫だからであろう。たまには「チリビラを踏み倒すなよ」と言っていたが、子供も心得ていたとみえて一度も追っ払われたことはない。
ざる一杯家に持ち帰り、芋を切っていれ、蓋をして一晩放置すると、汚物を吐く。よだれがなくなる迄洗って、茴香の葉とともに味噌仕立てにする。茴香は、せきの薬としてどこの家でも植えてあった。煙草畑のかたつむりは、苦くて食べられないことになっていた。
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アフリカマイマイがはいって来たのは、いつの頃か私は知らないが、戦中、那覇でも子供たちが飼っているのを見たし、そろそろその害が喧伝されていた。
沖縄戦終了後六ヶ月も喜屋武の山に隠れていたという沖縄出身の兵士を命ぜられて健康診断をしたら、陽に当たってないために蒼白いけども、栄養は衰えてはいない。マイマイがいくらでもとれたし、甘蔗、刈り残された畑のものや芋、焼け残りの部落から必要なものは運んだ、塩と火は持っていたと言っていた。唯一の蛋白源はマイマイであった。
カルテの余白/千原繁子 p72〜75(抜粋と引用)


※チリビラ(ちりびらー)/ニラ
※いーちょーばー/茴香(ういきょう)/フェンネル

アフリカマイマイを食用カタツムリと混同して食べようとした。ゴムをかむようでどうにもならない。レモン水で洗うと食べられると誰かが言ったので試みたが無駄であった。食用の油がないのでモビール油の揚げものを食べたのもそのころであったと思う。
狂った季節/船越義彰 p207


[金城町の家で]「ちんなん」を振る舞われたことがあった。食用にしたのは畑で取った「ちんなん」で、殻ごと塩ゆでしただけの料理であったが、ホカホカと湯気の立つのをつまみ、殻から出した身は、透明な感じの白さ。まったくイヤ味のないサッパリとしたごちそうで、あきることがない。畑には取りつくせないくらい「ちんなん」がいるし、質素に暮らす家がお膳に山盛りして食べられる唯一のごちそうだったのである。
沖縄物語/古波蔵保好 p62(抜粋と編集)


関連:アフリカマイマイ
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水と病気

「火と水はただ」の観念を持ち続けていた人達は、水道をいれても、相変わらず天水や井戸水もジャンジャン使っていたので、そのためか、那覇名物の腸チフス、アメーバー赤痢は、水道敷設後も減ったとは思えなかった。
コンクリート利用がまだまだの時代で、井戸の流しは石畳、その継ぎ目から地中に汚水が染み込むので、井戸水は汚水と直通のようなものであった。東町五丁目、真教寺の裏と右側の地域は、年中、伝染性胃腸疾患の巣窟であった。そこは埋立地で土の濾過作用零地帯、その上、地方から転入した庶民階級が主だったので、水道との縁が薄かったようである。
カルテの余白/千原繁子 p161、162


戦前の新聞記事を読んでいると伝染病発生の記事が結構ありますが千原さんはお医者さんなので原因まで突っ込んで書いています。
明治期にはコレラの集団発生で泊外人墓地近くに台ノ瀬避病院(図の泊病院)ができています。これは伝染病の扱いが政府に決められたことによるようです。


1879(明治12)年、廃藩置県の時にコレラが流行し短日の間に多くの人命を失ったことから、初めて検疫事務取扱規則を制定するほか、翌13年よりは種々の衛生施設を講じた。即ち屠獣場および食料品の販売規定、飲料水販売業者取り締まり、墓地の設置、海港検疫の励行、避病院の設置等である。この他明治13年種痘規則を設けて天然痘を防御し、翌14年には貸座敷規則を設けて、黴毒予防の道を講ずるなどは本政府の本県衛生施設に対する熱意の入れ方は相当なものであった。
那覇市史通史編 p190

壷屋の地主

[日高/高江洲]妙子はその壷屋に1897(明治30)年、高江洲康宣の娘として生まれた。家は屋号を「壷屋与儀小」といい、屋敷の門が二つもあった壷屋の旧家である。往時は現在の神原中学校から平和通り、ダイナハ付近にかけてまで実家の土地であったという。「球陽」に「壷屋与儀小」のことが記載されている。読谷の比謝橋が壊れたとき、銅銭16貫文を寄与し家譜を授与されたとある。いわゆるコーイユカッチュ(新参士族)の出だ。

こういう話も伝わっている。飢えで集落中が苦しんでいたころ、「壷屋与儀小」では家の周辺を囲ってある石垣の上に、竹で編んだカゴの中に芋を入れておいた。腹が減った人は勝手にイモを取って食べなさいという意味からだ(壷屋陶器事業共同組合顧問 小橋川秀義談)。
時代を彩った女たち p109(省略と抜粋)


ガーブー流域一帯が「壷屋与儀小」のものだったということですが土地は下のような感じです。この土地が化けるとこに戦後那覇市の面白さがあるんですけども。

往時の地形をみると壺屋の村は、丘陵の傾斜面を利用して、南に面してつくられ、東西に細長く伸びていた。前面、つまり南に久茂地川の支流になっているガーブ川を見おろし、背後に安里川が流れ、東は真和志間切の丘陵地帯、西北に牧志村をひかえていた。村の前後(ガーブ川流域—今の平和通りから神里原一帯—と安里川流域)は殆んど沼地帯で、人家はなく、別天地の観を呈していた。
http://www.zyyms.net/yakimonotuboya.htm


農村地帯で地主が発生するのはわからんこともないのですが、壷屋がどういう生活をしていたかというのは(調べていないので)よくわかりません。

ボールガニ

ボールという名の練乳は鷲印だった。数年後に人形印も出たが、これもボールといい練乳以外のかん詰めの空きかんも、すべてボールガニと名付けられた。
缶詰は、よほどエリートでなければ使わない時代で、私が18歳で高女を卒業するまでに二回食べた記憶しかない。練乳の空きかんは、近所の人が争ってもらいに来て、柄杓や子供の遊び道具、おはじき入れなどに利用した。
戦争中、ふる金買いに、国場あたりの女が毎日のように来ていうには、ボールガニは一斤3銭、軽るナービ小(アルミ)は5銭、銅は10銭と言っていたがブリキやかん詰めの空きかんを片っ端からボールガニと称していた。食品としてのかん詰めは、めったに使われないが、練乳は明治中期頃から乳不足の乳児に普及したと思われる。
大正6年小児科の授業で、人工栄養についての講義に練乳が出た。「練乳を普通ボールといっているが日本で最初に輸入されたのが、日本で最初に輸入されたのが、オランダのボールデン会社の鷲印だったのでそれから何会社のものであろうがボールで通用するようになった」と小杉先生がいわれた。なるほど、それが沖縄にもそのまま通用することになったのである。
カルテの余白/千原繁子 p24、25(省略と抜粋)


練乳をボールと呼んだのは沖縄だけではなく、千原さんが授業を受けた大正期の東京もそうだったようですから全国的な話のようです。
空きかんをすべて「ボールガニ」と呼んだようで、カニ(カネ/金 ※金属の意)をつけて形容してしまうのは現在からするとおかしな感じですが、古金属買いはフルガニコーヤーですからいいんでしょう。軽るナービ小(カルナービグヮー)も即物的な名前でわかりやすいです。

当間モウシの事業

承前。
グダグダ 当間モウシ
グダグダ 塩田
昭和5年頃の塩田
このころは泊塩田における塩の最盛期である。製塩業者は余暇悪天候を利用し安里川流域、潮渡川流域の泥田を開拓し、塩田の拡張を図った。
祖先親譲りの塩田を持たない次男・三男の人々は「当間モウシ」の小作人となり、赤面原で塩田するものもあった
那覇市史 資料編第2巻中の7 p273


千原繁子さんの「カルテの余白」に塩田のことが書かれています。

昭和4年までは塩田は健在で、安里の女学校に通うのに、近道として塩田を横切って行った。東京に出てから、夫婦岩までの全塩田を払い下げるのに、入札者は一人もなく、当間モウシという東町の材木商の寡婦が二千円で買ったという噂を聞いた。この人は、一部を小市場の地続きに埋立して当間屋敷という貸家を作り、一部を小作人の組織のようにして、塩焼き人に塩田として貸していた。
カルテの余白 p112、113


千原さんは大正4年に東京女子医学専門学校に入学していますのでその後の話なんでしょう。

穴屋の外観

穴屋で紹介した穴屋形式の建物です。写真は海洋博公園のおきなわ郷土村にあるものです。
穴屋の外観
おきなわ郷土村・おもろ植物園 Official Site | 郷土村探検マップ-中央エリア-本部(モトブ)の民家
http://oki-park.jp/kyoudo/jp/k_explore/motobu.html


内部はこんな感じですが台所などはどの家庭でも変わらなかったと思います。竃に置くとシンメーナービの形の合理性がわかります。
穴屋の天井台所
おきなわ郷土村の建物は石柱が使われていますが、那覇近郊ではこの石は牧港などで切り出されました。

イシバーヤ(石柱)
長さ6尺〜9尺5寸、幅1尺、厚さ8〜9寸の規格に切り取った石で茅葺き家の柱に用いたり、馬小屋の柱に用いた。
ヒラガー(壁石)
平板に切り取った石をいう。規格は、長さ6尺、幅2尺、厚さ6寸である。茅葺き家の壁や屋敷囲いなどに、1尺ほどを地中に埋めて、縦に並べて用いた。
浦添市史第4巻資料編3 p162〜164(抜粋省略編集)

参考:グダグダ 浦添の石工

昭和26年のバス


昭和20年代の地図にある国際通り近辺のバス会社です。元図には無いので図には描きませんでしたが、栄町の沖縄バスはこの時期にはあります。
wikipediaでは下記のように書かれています。

戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、50 - 51年には14社(沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バスあらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運)が乱立。

あらかき平尾バスは寄留商人の平尾喜一と県人の新垣義堅のものでした。
「近代沖縄の寄留商人/西里 喜行」の平尾喜一(1893〜1971)の項目によれば、「戦後の2〜3年間、喜一は相互銀行や民間バス会社の経営に参画したが、晩年は事業への意欲を失い、放蕩的な生活によって借金をかさね、1971(昭和46)年死去した」とあります。
平尾喜一氏は戦前琉球新報社長(沿革 琉球新報)、平尾商店社長時代に辻の上江洲フミ(料亭那覇)を身請けしたりもしています。

ふろ

まず浦添市史から引用しますが真和志地区も大差ない状況だったと思われます。

風呂屋のことをユーフルヤーという。戦前は浦添市内には殆どの部落に風呂屋はなく、勢理客の人々などは泊に、前田の人々は首里にある風呂屋まで出かけていた。風呂屋へゆくのはシチグヮチ(お盆)、ソーグヮチ(正月)の特別の日にしかいけなかったようである。
夫人たちは男性よりは多く行っていたようで、特に若い夫人たちは、カタバルグヮーに芋を売りにいっての帰りに泊の風呂屋に入ったりした。ユーフルチン(風呂賃)は当時のお金でグヒャークであった。
浦添市史第4巻資料編3 p343(一部抜粋)
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大正期は風呂屋に行く機会はめったになく、川や泉・井戸で水浴びをし体の汚れをおとしていた。川を利用するのは主に男性や子供達で、婦人達は泉や井戸で洗濯やそのほかの洗いものをしながら水浴びをする。
女の子は10歳の頃より年齢がいくに従って恥ずかしがるようになり、川では水浴びをしなくなる。泉や自分の井戸で洗濯などをしながら婦人のグループで一緒に水浴びをする。幼い子供は男女とも母親と一緒に水浴びをする。婦人達でも野良仕事帰りには近くの川で顔や手足を洗ったり、体についた泥を落としたりする。
各戸も井戸が普及しはじめたのは古老達の生まれた頃のことであり、それ以前の婦人達は川で水浴びをした者も多かったと思われる。
冬の寒い時期は水浴びはできないので、川や泉・井戸の水で顔や手足を洗う程度である。そのため、それぞれの家では貧富の差こそあれ三日から一週間に一回は大鍋に湯をわかし、それで体の汚れを落とした。年寄りや子供はめったに湯を使うことはなく、年頃の女性や若い婦人はよく使っていた。
浦添市史第4巻資料編3 p340、341(省略抜粋)


真和志でも那覇の市場に野菜を売りにいっているわけですから帰りに風呂に入ったりすることもあったでしょう。
明治40年に旧那覇にあった風呂屋は24軒です。

関連:いちゃんだゆーぶる

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