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ブロック作り

面白いサイトがあったのでご紹介。
58号線の裏へ | Web草思

自分が特に興味を持ったのはこの二つ。
第7回 石の箱から家をつくる
第9回 現代のバラック
戦後の復興の中でCB(コンクリートブロック)の生産がどのように担われていたか、また家屋の建築技術はどのように習得されていったかという話とバラックの話です。

50年代後半当時で、沖縄本島におけるCB工場の数はおよそ180社。つくる一方から売れていくし、質など求められていないのだから、安易なひと儲けを目論んで工場が乱立するのも無理はなかった。家内工業なので工場ひとつにつき従業員は4?5名程度、手動による一日の生産数は200個が限界だった。
http://web.soshisha.com/archives/58/2005_1006.php


書いている方は駒沢敏器さんとおっしゃるようです。話を貫いているのは「沖縄の自意識の獲得」の周縁にあると思いますがそこまで読み込まなくても面白い話です。
城趾を削って作った話も出て来ますが崇元寺の石材を持っていこうとした工事人をあわてて止めたという話もありますから戦後しばらくはそれが普通だったのでしょう。なにせ何もない世界になってしまった中で生きねばならなかったのです。

乱立したブロック製造業者も手作業でやる限りは小さな投資で済むのでスタートしやすい業種だったのでしょう。石灰岩だらけの沖縄ではセメントは原料段階から県内で生産できる貴重なものです。
少し前の人達は気軽にブロックを積み上げて家を増設したり小屋を作ったりするのを当たり前のように行っていました。厳密にいえば建築基準法違反なのですが大々的にやらない限りは黙認していたようにも感じます。

戦前の貧農の家の壁は下手をしたら板で作られてさえいませんでした。そこで望まれるものは手間がかからず丈夫ということでしょう。
沖縄の典型的民家が目指したものは台風で壊れないという目的でそれに最適化された形をしていましたが、戦後同じ目的でより良い新材料があらわれた時に建設された家屋がスラブヤーだったのだと思います。

戦後すぐのバラックは限られた材料でとりあえず暮らすための家屋を建設するための最適解でした。厳密にはツーバイフォーで速成された家屋のみをバラックと呼ぶのかもしれませんが、現在も残っている安普請(失礼)の家屋も同じ目的と限られた条件(金銭、材料)で作られたとりあえずの最適解という意味ではバラックと同じではないかと思います。

伝統的沖縄家屋で想像される琉球村にあるような家になど昔は大部分の人間は住むことは出来なかったはずで、あれには大きな木材と高度な大工の技が必要とされますので庶民には縁遠かったはず。
とすれば耐久性もなく技もいらず限定された諸条件で作られる庶民の家はまさにバラック的ではないかなと思います。問題はその一時しのぎの家屋が金銭的条件で住み替えが出来ないということで本当の問題は「貧困」です。
話がずれてしまいましたがブロック造りのスラブヤーは戦後の人間をだいぶ救ったと思います。
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バクヨー

砂糖仲買人や砂糖委託商人たちは、農村の事情を知りつくした情報屋であり、砂糖取引以外にも日用雑貨の手配から人事の往来まで、仲立ちとしての役割は大きく、次第に農村での不動産取引にもかかわっていった。
沖縄では古くから「バクヨー」と呼ばれる家畜売買媒介業者がいた。博労、または畜商のことである。バクヨーは農家の庭先を巡回して牛・馬・豚などの売買のほか、家畜と家畜、家畜と物資との交換を主な仕事としていた。また、家畜の飼育や家畜の見分け方なども指導した。バクヨーは狭い村落内における手慣れた者の世話仕事であったが近代化の中で人と物との交流が広がってゆくにつれてその活動範囲を広げていった。
ついにはシマを越えて島嶼間の交易となり、奄美諸島を含む南西諸島全域におよぶようになった。これにともなって「バクヨー」という言葉も、仲買人・ブローカー・周旋屋などと同義に用いられるようになった。
なは・女のあしあと p126


バクヨーと関連するのは下のリンク。
グダグダ 砂糖取引と宿小
グダグダ カラシヤー(貸家)
グダグダ 砂糖委託屋 2
砂糖相場と委託屋にからんだ馬車ムチャー、那覇の周辺部に出来はじめた宿小、地方人が経営していた周辺部の貸家、などの世の中の動きに関連して、都市農村間の情報と物資を担う人間の扱う事柄が多角化してゆき、単純な博労だけではないバクヨーになっていったという感じでしょうか。

砂糖取引と宿小

砂糖委託屋で触れられていたバシャムチャー(馬車持ち)のことです。
「バシャムチャー」というよりは「バサムチャー」といった方が自分はしっくりきますが。

ヤードゥグヮー(宿小)というのはというのはもともと地方出身者が那覇の旭町や西新町などに「那覇宿」を経営して、郷里のものが那覇へ出て来た場合に宿泊させた施設である、島尻の宿小は旭町に多く、中頭や国頭の宿小は西新町や泊の新屋敷にあった。島尻や中頭の馬車引き(馬車ムチャー)たちは宿小に宿泊して砂糖相場の情報交換をしたという。
林産物をヤンバル船で運んできた人達も、宿小で「出荷と売り時」の検討をした。宮古や八重山の宿小は渡地にあった。
昭和期になると、通堂付近には離島の慶良間・久米島・粟国・伊是名・伊平屋などの宿小が軒を連ねるようになった。
宿小では、地方から馬で砂糖を運んできた馬子たちを宿泊させ、同時にその砂糖の委託販売をも引き受けて、問屋と農民の両方から口銭を取ることもあった。このような事情から砂糖取引の世界では地方の小委託商のことを「ヤードゥグヮー」と呼んだのであろう。
なは・女のあしあと「ヤードゥグヮー(宿小)」 p124、125

砂糖問屋が委託専門の商人に黒糖買い占めを委託するものである。この場合本土から進出した資本力のある委託商もいたが、小資本の地元の委託商が活躍する場面もあった。この地元の小委託商のことを黒糖取引の人達は、ヤードゥグヮーと呼んでいた。那覇方言では「ヤールグヮー」といった。
なは・女のあしあと「砂糖取引」 p124


上記「なは・女のあしあと」では馬車引き(兼小委託商)が宿泊した地方宿の呼び名と同じヤードゥグヮーと呼ばれるようになったことを書いています。
カラシヤー(貸家)では、西新町(農村出身者)・新屋敷(山原)のように貸家を営んでいたと書かれていますが、同じように宿小も旧那覇の中心部をさけて周辺のガタ(西新町)・泊新屋敷・渡地・旭町などの新しい埋立地などに集まって来たというのが興味深いです。

カラシヤー(貸家)

「なは・女のあしあと」からカラシヤー(貸家)についてです。

那覇では数件の「カラシヤー(貸家)」を経営する貸家業者もいた。貸家を経営したのは主として那覇や首里の資産家で、その場所は主に西本町や若狭町であった。このほかにも農村出の資産家がガタ(西新町)に貸家を経営した例も少なくない。
(略)また、泊の船着き場を中心とした新屋敷(現在の泊北岸)などにはヤンバルの人たちが経営した貸家も多かった。
(略)
金融業者(いわゆる高利貸し)が不動産取引に転じていった例もある。那覇などの都市区では、担保流れの土地建物の処分を通して不動産業へ転身していった例が一般的に見られた。農村の「高利貸し」は、農村金融を「業」として営むほか、ほとんど例外無しに「模合」の座元となっていた。
農村の資産家は、貧農に貸し付けた元利の回収の方法として模合を活用した。借財返済に困窮した貧農は強制的に模合に加入させられ、模合の落札金をもって借金の元利返済にあてた。担保流れの土地はウェーキ(資産家)のもとに集積されて小作地となったり他に売却されたりした。ウェーキは農村金融を通して不動産取引に手を広げていった。
なは・女のあしあと p122、123(省略と編集)


富が富を生むという資本主義のサイクルがまわりはじめていますね。略した部分に堂小屋敷について述べられていますが割愛しました。
まとめると那覇の中心部が那覇と首里の資産家、新しい埋立地の西新町が地方の資産家、新しい区域である泊新屋敷は山原出身者です。旧那覇では従来の資産家、そして周辺地域では勃興しはじめた新しい資産家たちの投機対象という感じでしょうか。わかさ民俗地図などには貸家という表示のある建物が見えますが、そこはここで述べられるような貸家だったのかもしれません。
那覇市史の「ブリ屋敷(群屋敷)」の項目も引用しておきます。

ブリ屋敷は都市部、特に那覇に多くあった。ブリは群れの方言で、高倉が群立しているのを「ブリグラ」と呼んでいるのと同義で一ヶ所に集まっている意味である。
そこで「ブリ屋敷」は大きな屋敷に数棟の建物があって、その建物は一部屋と台所付きのものも、現代風に表現すると「1DK」が数戸連なっているいわゆる棟割り長屋であった。こういう棟割り長屋が数棟ある屋敷を指しているが、また一戸建ての建物が数棟建っている大きな屋敷もあった。
群屋敷は屋敷および建物まで大地主の所有のものと、屋敷は大地主のもの、建物は住人のものということもあった。
那覇市史資料編第2巻中の7 p229、230

ブリ屋敷(群屋敷)

那覇人気質 3

那覇市史より那覇の気質について抜粋します。確認すると嘱託で島袋全幸さんのお名前もありますのでこの項目は島袋さんが関わられたのかもしれません。

首里を京都とすれば那覇は大阪で、「首里人は着倒れ、那覇人は食い倒れ、泊人は働き倒れ※」といわれた。首里は外面を重んじたのに対し、那覇人は食道楽が多かったのである。
※シュインチョー チードーリ、ナーファンチョー クェードーリ、トゥマインチョー シードーリ

「首里人のハブ食い(スヤー ハブクェー)」は首里人が外面は派手でも内実は火の車であったので、その粗食を笑った物である。「那覇人の債持っての犬食いハブ食い※」は那覇人が借金してまでいか物食いしたことを笑ったものである。
※ナーファー シーロー インクェー ハブクェー

ものを手に入れた際に、那覇人は「これを○○円で買った」と物そのものより出した金額を自慢するが、首里人は「これを○○円にまけさせて買った」と価値ある物を安く手に入れたことを自慢する。それで「首里人は貧乏臭し、那覇人は金銭臭する※」といわれるわけである。しかしこの言葉は最もは的に首里人と那覇人の気質を表している。
※シュインチョー フィンスーカザッシ ナーファンチョー ジンカザスン

首里人は官禄生活で収入が決まっているので、その範囲内でのやりくり生活であったが、那覇人は存分次第(ジンブンシデー)で収入が増やせるのですべて派手であった。
那覇市史資料編第2巻中の7 p746


商売人と勤め人、下町と城下町の違いですね(笑)。

那覇人気質 2

那覇人の口の悪さは那覇人同士でもかわりません。
島袋全幸さんの「昔の那覇と私」から那覇内での各地域の呼称です。

東ボンボロー、西ハーガー、久米村(クニンダ)ビタタイ、湧田サバカチ、久茂地ヌヰー、若狭町サラグヮー、壺川ホーホー、泊マースー、垣花ヒヨー。
東ボンボローのボンボローはでんでん太鼓のこと。東道には士族くずれ牛皮細工がいて、太鼓などを張っていたからであるが、また東ン人は、シラークサー口なて(前後左右口になって=よく喋る意)ボンナイボンナイしたからでもあろう。
西ハーガーはよくわからない。(略)
久米村ビタタイは、中国渡来の衣服をビラビラと着ていた感じがでているが、唐栄の男子はみんな王朝から俸禄をいただき、パリパリ働かなくても生活ができたからでもある。
湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
久茂地には関帝王などの軸物の絵をかいて生計をたてているのがいた。本格的な掛け絵ではなく田舎向けの安直な色彩画だった。
若狭町は挽物細工の本場で、お椀や皿小や、また木アシジャ(足駄)を作った。だから「若狭町木アシジャー」とも言った。塗り物も盛んだった。
壷川ホーホーと言うのは、南島風土記に「壺川の住民小舟を並べて唐三良(トーサンラー)辺に屯し、水道を遮って船を横たえ、上げ潮に乗って応々のかけ声勇ましく水面を叩きながら船を推して行くに、銀鱗刺々声に応じて船中に躍込む、これを壺川ホウホウと唱えたり」とある。
泊は潟原塩田を前にし、前島当たりには塩焚きの煙がほそぼそと立ちのぼっていた。
垣花は那覇港の対岸で、通堂の仲仕は垣花二才(ニーセー)たちの専売であったから「日用夫」と言ったのである。
昔の那覇と私 p52、53


方言の言語感覚というか語感でことばを重ねてゆくのが結構あります(畳語)。「アマハイ クマハイ」だとか「アリン クリン」だとか「ゴーグチ ヒャーグチ」だとかそういうものです。
しかし「ボンナイ ボンナイ」はどう説明していいかわかりません...

那覇人気質

ひきつづき島袋全幸さんの「昔の那覇と私」から那覇人が他シマをどういうふうに表現していたかという部分です。

那覇を中華だとする思想は幼少の頃からしたたか叩き込まれている。わたくしたちからは、地方人はすべて田舎者(イナカー)で、国頭人は山原(ヤンバラー)、中頭鼠(ウェンチュ)は面曲り(チラタマヤー)、島尻鼠や尻尾なし(ジュームッカー)であった。親国(ウェークニ)と自慢する首里人でさえも、首里ダラーであり、首里ハブ食い(スエーハブクエー)であった。ハブ食いと言ったのは、いくら偉ぶったところで経済的には窮迫して、ハブでも取って食うほかあるまいとする侮りである。
なにも他地方の悪口をたたかなくてもよさそうなものだが、そこが那覇人の肋骨不足(ソーキブニブスク)たるゆえんで、他をくさして痛快がるのである。
首里人が腹の中では舌を出しても、柔和(ヤフワッテーン)して弁巧(ビンクウ)であり、”謀を帷幄の中にめぐらして勝を千里の外に決する”ような深慮遠謀あるに反し、直情短慮で妄動するソーソーバーバーのワッサラゲーであった。
昔の那覇と私 p47


同じ本の中に首里人の笑い話があります。

那覇東京見物かたがた遊学している息子の許へはるばると大人(ターレン)が上ってきた。折しもその下宿に知人が訪ねてきたので、息子、
「イナカから来た親父です」
と紹介した。すると大人は、おもむろにエッヘンとせき払いをしてから息子の袖を引いて言うよう、
「わんねーイナカからやあらん、首里親国からど来(チ)ゃしが!」
昔の那覇と私 p149


首里を小馬鹿にする那覇人の姿がみえるようです。

あだな

島袋全幸さんの「昔の那覇と私」からあだなについての部分を抜粋します。
島袋さんは明治41(1908)年那覇市生まれで垣花育ち、教育関係の仕事をされて、那覇市史編集にも関わられています。島袋全発さんはお兄様です。

イーブーとかトントンミー(いずれもとびはぜのこと)とかいうのは尻軽に飛んで歩く類似から。
チークェーブーナー(ふぐ)は腹がぶざまにふくれている形からばかりではなく、釣り仲間からきらわれている情調がある。
ガサミは一度つかんだら決して放さぬ習性からけちんぼう。
アバサー(おこぜの類)は形が醜悪で毒線のとげをもってあばれるから料亭女のようにおしゃべりなはねっかえり。
ワクビチ(がま蛙)、アタビー(雨蛙)、アンムラサー(ナメクジ)などはどれも形態とそのぬらぬらした感じから。
アーマン(やどかり)はのっそりのっそり歩く人。
イサトウメー(かまきり)はひょろながい身体に似合わず蟷螂の斧をふりあげたりするもの。
アッチャウヮー(種豚)とかヒージャー(山羊)は顔貌や特性の類似からのあだ名だがいかにも土着臭が強い。
昔の那覇と私 p166


アバサーはハリセンボンの意味でつかっていますがオコゼもそう呼ぶのでしょうか。

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