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ムヌクーヤーテーソー

ユーチヌサチ・スーヌサチでバクチャヤーについて触れました。
バクチャヤーは辻海岸にあった洞窟でそこには乞食やハンセン病患者が住み着いていたようです。
ムヌクーヤー /munukuujaa/(名詞) 物乞い
乞食。物乞い。辻町のバクチャヤーに集まって生活していた。中にはその大将であるムヌクーヤーテーソーがおり、乞食たちを取りし切っていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51725

乞食ではなくムヌクーヤー(ものを乞う人)、その大将がムヌクーヤーテーソー(物乞い人の大将)というのが面白いとこです。ムヌクエーともいうかな?
なはわらべ行状記にそのモノクーヤーについて書いてある箇所があるので引用したいと思います。

バクチャヤーといえば(略)頂上は芝生が程よくはえ、三月三日のお重びらきには最適な場所であったが、下はガマで、そのなかには、那覇中の乞食が集まり天露をしのいでいた。翁長松(オナガー・マチュー)という親分がいて、乞食達から家賃ならぬガマ賃を徴収していたという話がある。ぼくは、翁長松の顔は知らないが、彼が死んだ時、新聞に報道されたそうだ。それほど彼は那覇の知名人?であったのか、また、乞食の死も記事になるほど、世の中がおだやかであったのかぼくにはわからない。
(略)
さて、翁長松は結局、ぼくが、ものごころつく前にいなくなったわけだ。ところが、ギラマー、マチノウター、グジュグジュバーチー、あるいはノギタイショウ(この乞食は乃木大将によくにていた)など、名のある乞食とは顔見知りであった。もちろん、こちらが一方的にではあったが...。那覇の乞食たちは、おおかた辻原墓地を根城にしていた。近くに辻という遊郭があり、余り物をもらうには事欠かなかったであろう。
なはわらび行状記 p69、70


義彰さんは大正末年の生まれですから顔見知りであった乞食たちのことも昭和の話でしょう。
オナガマチューの記事も調べてみたいですが明治大正期の新聞を調べるのはさすがに厳しいです...
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チコンキ・蓄音機

船越義彰さんの「なはわらべ行状記」から。
上之蔵通りをおりると右手は、辻の「前の毛」につづく道がひらけ角に交番所があった。そしてなおも正面に突き進むと、つきあたりが新星堂書店。新星堂から右と左に道がひらける。右に行くと、本願寺の前と呼ばれる真教寺の前に道が続き、左手にゆくと三角屋(そば屋)につきあたり、それを境に道がふたつにわかれていた。右手が旭館につづく道、左が石門の商店街への道であった。

石門通りで思い出すのはチクオンキ屋だった。新星堂の右手、真教寺へ向かう道の右側は高台になっており、そこには石屋とよばれているコンクリート建ての新天地(珊瑚座)がそびえていた。(略)
夏-陽がおちて夕風がここちよい時刻になると、那覇四町のおとしよりが、この石門一帯に集まった。チクオンキ屋の周辺の店のぬれ縁はもちろん、道の脇には空き箱を利用して、チクオンキの妙なるしらべのなるのをいまやおそしと待ちかまえていた。なかには下駄を揃えてその上に尻をおろしている方もおられた。なにしろ、チクオンキを持っている家庭は少なかった。だから、石門通りのチクオンキ屋さん、自声堂が一般市民に音楽を提供したのである。
(略)
芝居で歌われ流行歌となっている新しい歌や古典の曲、あるいは組踊や泊阿嘉、奥山の牡丹などの歌劇。そうかとおもうと大和の歌謡曲(そのころは流行歌といった)も流れた。
なはわらべ行状記 p62


まず上之蔵通り。
上之蔵通り
そして引用した部分のあたり。

上之蔵通りのおしまいの辺りは那覇民俗地図では広く描かれており、図でオレンジで示した場所にはクバチカサ、交番、新天地劇場(珊瑚座)があります。オレンジの箇所から海側(図の左)へ行くと西新町に入り真教寺、図の左上は辻です。

上之蔵通り図の出典はは「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」ですが、クローズアップした部分は那覇民俗地図を参照しています。ここでもわずかに道筋の違いがあって描きにくいのですが大きな差はありません。
図で青く示している左下の箇所は那覇民俗地図では海になっています。西新町の三重城は近辺は最初島のような形で埋め立てられ橋で繋がっていました。それが後年間を埋め立てられ地続きになります。参照した図が想定した時期の違いによるものだと思いますが道筋は久米の景観推定図、旧跡は那覇民俗地図、海は前者の道筋をもとに那覇民俗地図にある海の位置をおおまかに描いたものです。
正確さはだいたい程度でしかないことを了解ください。

ホーカー(放下)

「なはわらび行記」からですが、義彰さんは子供の頃見た中国人らしい曲芸師のことを「ホーカー」と呼んでいたと書いています(p42)。
曲芸師の大人の格好は憶えていないが、少年たちは「丸刈りで、額の上に、ひとつかみほどの頭髪を残して」おり、「売られたものであり、訓練の後には必ずアマジャキ(酢)を飲まされる」という噂を聞かされたそうです。

また金城朝永氏による「琉球では軽業の事を今でも放下と言っています」という論文の一節も引用され語源や由来の考察も引用されていますが、最後に義彰さんはホーカーの由来や時代的背景は専門家に任せるがとにかくホーカーを憶えてるんだよといって締めておられます。


自分も由来や語源に関しては考えず、昭和初めの那覇には中国人と称する軽業師がいてホーカーと呼ばれていたということだけを憶えておきたいと思います。

風袋(カジブクル)

船越義彰さんの「なはわらべ行状記」から抜粋します。
1926年、大正15年那覇生まれの義彰少年(と親しげに呼びたい)の見た那覇が愛情を込めて描かれています。数々のエピソードの中で出て来る人達、ヤッチー達が戦争で帰らなかったことを思うと何ともいえない気分になります。

ところが旧家のハンシー(ばあさま)のなかには、この文明の利器たる電気扇をわが家に入れることを拒んでいる方もいた。「電気扇はウカーサヌ(あぶない)」というのである。あのヒコーキのプロペラのようにまわる羽に子供が指をつっこんだらどうなるか。寝ているうちに髪を巻き込まれたらどうなるか(当時の女性はみんな髪が長かった)、という心配もあったろうが、電気というものへの拒否反応が最大の原因であったと思う。電気は通じる(感電)。ハンシたちにとって、電気はやはり紅毛の不可思議国のエレキという感覚でしか受け止められていなかったのだ。
ところが旧家ともなれば、夏への対策は、これはまた贅沢なものであった。まず、敷物は藤のむしろをしきつめてあった。ひんやりとした敷物(むしろ)である。つぎに、扇風機にかわるものとして、風袋(カジブクル)があった。
風袋とは、メリケン袋のようなものを、いくつもつなぎあわせ、それを棹にくくりつけ、鯉のぼりのように高く掲げる。そして末端は座敷の中に入っている。風袋--というより、ぼくは風筒と呼びたいこのしかけは、中天の清らかな風を、そのまま家の中に流し込むのである。扇風機を電気扇と敬遠した当時のお年寄りにはこのように、地上十数メートルを吹き渡る風を、そのまま自分の側に呼び寄せることができたのである。
なはわらべ行状記 p121,122


那覇の石垣に囲まれた旧家から棹につけた吹き流しのような風袋が掲げられているのを想像してみると面白いです。この風習も安い布が出回るようになった後からではないかと推測しますがどうなんでしょうか。
首里では着物の中に籠のようなものをいれて抱いて寝た(竹夫人)らしいです。
竹夫人で検索するとちゃんとありました。

暑中,涼をとるために抱いて寝る円筒状の籠(かご)をいう。長さは150cm程度で,本来は竹編みだがトウなども使用。抱籠,添寝籠とも。中国では古くから用いられ,宋代に俗に〈竹夫人〉と呼ばれた。
http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E5%A4%AB%E4%BA%BA

首里では身分上裸になることが許されなかったので竹夫人が使われていたらしいですが中国由来だったんですね。沖縄らしい話です。

51年の土地評価(割当地 2)

那覇市史には割当地問題も取り上げられてあります。
その資料の中に割当地の土地評価によって賃貸料を決めた経緯が収録されています。この資料から1951年の那覇はどこが高評価されているのか(=商業地として栄えているのか)がわかりますので引用してみたいと思います。
借地料は等級でランク付けされていて一等100円、二等80円、三等65円、四等55円となっています。等級はその下のランクも細かく評価されてゆき十何等まであります。
ですが五等で45円、十等で25円、十三等で17円となっているように1〜4等は別格の高評価をされていることからこの土地が中心的商業地であったことがわかるかと思います。
以下「那覇市史 資料編第3巻の1 p286-287」から一等から四等迄を引用します。

割当土地賃貸料調査票
市場通り入り口(一区十四組友寄商店より沖陶社前までの通りに面せる両側)
---
民衆百貨店より丸国マーケット十字路及西方へ右折し朝日商会付近並に同商店向かい小路に入り安次嶺商店まで通りに面せる両側
栄橋より共和商会までの両側
栄橋より川沿い千歳橋まで通りに面せる両側
1区10組かめや履物店より幸喜商店までの両側
1区14組新垣美装院より栄橋までの両側
---
丸国マーケットよりローズ写真館十字路までの両側
1区鉢嶺時計店より沖縄バスまでの両側
栄橋より西方我部川沿い一区の境までの両側
三共デパート路地三通路(一等地の通りを除く)
果物市場(山城時計店)次より新栄橋までの両側
共和商会次より一品香食堂までの両側
---
神里原ローズ写真館の次より丸金デパートまでの両側
よろづ食堂次より青柳食堂を経て知名薬店前迄の両側
琉銀支店より青バス前十字路までの両側
新田家具店より開南売店迄の両側
我部橋より栄橋へ川沿い10区の境界迄の両側

割当地

戦争後の旧居住地への住民帰還と米軍駐留による土地利用制限があいまって暫定的にスタートした土地割当制度。国場誌から簡単な説明を引用して説明します。

戦後は割当地と称し、松尾、壺川、壷屋等の住民が、自分の地への居住がかなわず一時的な処置として、行政側の一方的な指導のもとに勝良又原に住居を構えた。土地の境界確認もないままに住宅が立ち並び、境界の確認混乱地域になり、現在に至っている(寄宮中の裏門向かい側付近)。
国場誌 p90 

これは国場の勝良又原の説明部分です。近くには寄宮十字路近辺の混乱もあります。
参考:グダグダ 寄増原・洗田原・宮城原 2(寄宮 3)
参考:グダグダ 寄増原・洗田原・宮城原(寄宮 2)
参考:グダグダ 天久の地縁 3(平野区)
参考:グダグダ 大原区(寄宮)

公用地の解放などであればいいのですが土地所有者の意志に関わらず進められたケースは様々な問題を起こしています。根本的な解決はなされず引き延ばすような手続きが行政によっておこなわれました。
この辺は法律上の扱いや那覇市議会での議論等で参照できますが長くなるので割愛(or後日)。
那覇市史からこの問題の厄介さがわかるような部分を引用します。

また戦災によって土地の所有関係を記録した公簿や公図がほとんど消失してしまったため境界も分からない場所がたくさんでてきた。
このような事情からとられた特別措置が「割当土地制度」であった。これは当面の緊急の必要から住宅・農地などの個人所有地や公有地について市町村長や米軍地区隊長の権限で土地を割当てて利用させようというものである。
また土地所有者は割当を受けた人々から地代をとってはならず、立ち退きを要求してはならないとされていた。
那覇市史 資料編第3巻の1 p193(省略と編集)


混乱の原因は、公簿・公図の消失、圧倒的な土地不足、(最初のみ)賃借ではないことなどで、その後も那覇市の土地不足は解消せず仮住居は大部分がそのまま本居住になってしまいました。
これは戦前戦後の生活環境の大変化があり、農村から都会へ、消費社会的ライフスタイルの定着、米軍へ依存した中南部の基地ベルト地帯への人口集中もあげられるかとおもわれます。

那覇市のような住宅地・商業地の場合、「3年を経過」したからといってすぐ立ち退かせるということはできなかった。市街や離島からの大量の住民流入によって那覇市の住宅難は言語に絶するものがあり、間借りの間借りといった状況で借地人、借家人の権利義務関係は複雑であった。
那覇市史 資料編第3巻の1 p195


ある程度の年数経過による制限等で解消しようという意見もあったようですが、立ち退きになったところで次の受け皿になるべき住宅地は用意できず住民流入は続いているのですから割当地の解消は路上に放り出すのと同義です。戦中戦後の経験のなかでお互いの困難な状況を理解している同士ですから無茶なことは出来ないというのもコンセンサスとしてあったのでしょう。
離島や地方からの住民流入の痕跡は新しく開発した土地や公有地の売却等があった場所などに今も残ります。
平和通りの商人は離島出身者が多いですし、若狭周辺のホテル旅館経営者にも離島出身者が多いです。また栄町は出身地域によって店舗の場所が二分されています。
この辺の機微は那覇に古くから住んでいる人なら当たり前のように知っていることなのですがこういうこともわからなくなってゆくのでしょうね...

那覇の細民

那覇の貧しい人々はどのように暮らしていたか。

久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。河原端から新村渠にかけて、また久茂地川にそって美栄橋にかけて絣結職人が多く、美栄橋よりの新村渠には線香、粉挽き職人がいた。葉お香を板にのせマチに売りにゆくのは妻女の仕事で、麦粉売りは小桶を頭にのせ呼び声高く門口をふれてあるいた。湧田先の草履作り、新村渠の木かんざし作りは那覇名物で、つげの木地を手頃に裂いて荒削りのままざるにいれて女客をまっていると先の鋭い切り出しで削り鮫皮で磨きをかけ、旧藩時代一本5、6文で売ったようである。見世の前にはこのかんざしマチがたち客も商人も女ばかりであった。

那覇の細民街といえば松尾山の下にあった堂小屋敷は有名だが、妻女たちは波の上近くの屠殺場を漁って脂身の細切れを拾って夕市に持ち込んだり、夜明けに起きて松尾山、遠くは古波蔵あたりの松の根元を彫って「トボシ」を削り東市場の東角にあるトボシマチに持ち込む。これら細民は平日泥まみれにかけずり回ってやっと7、8銭にしかならない収入で日々の飢えをしのいでいた。
那覇市史 通史2 p180


トボシはトゥブシ(たいまつ)でしょうか。細民街としてあげられているのは以下。
 >久茂地の河原端(カーラバンタ)
 >譜嘉地の新村渠
 >湧田の先
 >若狭町の東より
 >牛マチの西側
 >久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)

ミンダカリ(新村渠)については過去記事参照
新村渠(ミンダカリ)
久茂地の川沿いで、小字河原端(カワラバンタ)から新村渠(ミンダカリ)に至る一円の地域は、長虹堤築造後、上昇した新地である。普門地(フムンジ)潟原ともいい、又は内潟原とも唱えられていた
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。

>妻女たちは波の上近くの屠殺場を漁って脂身の細切れを拾って夕市に持ち込んだり
スーヌサチバクチャヤーの側には屠殺場がありました。

また牛マチはわからなかったのですが西本町と西新町の境目辺りにはウシマチサガイ(牛マチ下がり)という道があります。図ではオレンジ色で示した西新町の角の部分になります。
堂小屋敷は久米村の中に水色で示した水路の右上辺りの一帯のようです。そばに東寿寺(堂小)という寺があります。
久米村市場
ナーファヌマチの隅にトゥブシ市があったようです。
ナーファヌマチ
左下の五つ並んだ小さな売り場の左から砂糖、トゥブシ(松明)、雑貨、果物、たこになっています。

粉挽きは方言でクンパーといいますが、那覇民俗地図では松尾山の側にはクンパー屋敷という名称が見えます。
クンパー /kuNpaa/
意味:製粉業。麦を製粉する。久茂地町内にあった。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50648

製粉の専業のひとが住んでいたのかもしれません。

ムチ/漆喰

最近はシーサー作るのに使う方が多いんじゃないかと思うくらいのムチ。
沖縄ではテーブルサンゴを焼いて生石灰を作ったようです。那覇市史から引用します。

漆喰作り
石灰窯は昔は壷屋にあったので生石灰のことを壷屋の灰(チブヤヌフェー)と石灰(イシベー)という。生石灰(消石灰は用いない)をつみ長さ五寸に切ったわらを重ねて水を掛け高温を出して石灰がくだけた頃漆喰用鍬(ムチチャーグェー)でわらと石灰をかき混ぜて4、5日おいておく。これ漆喰用石臼(ムチチャーウーシ)に入れてつく。中細(アジン)の場合は数人一緒に、打臼(カキジキ)の場合は二人で交互についた。上塗りの時に香粉(コーグ)や唐肉桂(トーシバキ)の葉を水につけた汁を入れるともち味がありつやがでた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p338


手持ちの地図では壷屋で漆喰の表示は確認できません。
泊の海沿いに石灰窯(フェーヤチガマ)があったようです。

漆喰のことをムチというので、左官のことを漆喰細工(ムチゼーク)、漆喰塗細工(ムチヌイゼーク)、漆喰塗屋(ムチヌヤー)という。その仕事は瓦屋根葺、屋根の漆喰塗、欄干の赤緋塗(アカフィー)、墓の白三和土塗(シルサントー)、泉水や土間の赤三和土塗(アカサントー)であった。
瓦屋根は町方(首里・那覇)のみ許された。田舎は番所だけが許され住家はかや葺きであった。欄干の赤緋は城内の御殿や国王が行幸される貴族の家の出御される部屋のみに限られていたし、三輪土を塗るような工事は、町方に限られていたから、左官は田舎にいなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p337


町方は那覇・泊・首里ですから真和志にも瓦葺きの住宅はほぼなかったということです。
また左官は瓦や陶器製造を掌る砂官主取(シャクヮンヌシドゥィ)が支配していたようです。

赤三和土:久米島の赤土に生石灰・食塩・香粉を水でこねたもの。泉水や軒下の土間に塗る。
白三和土:生石灰に食塩と香粉を水でこねたもので墓の表面に塗る。

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