忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

密貿易時代の安謝

住吉海岸での密貿易に関連して。
戦後民間貿易再開までは物資は密貿易に頼るしかなく行政も黙認しているわけですが、那覇港や泊港が使えない中で安謝は那覇の港として繁栄しました。
この時代の密貿易は「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」を参照して頂きたいのですが様々な規模・形態で行われていました。

戦後間もない頃、港原一帯には大宜味村の人が多く寄留(現岡野区)。義理地原には垣花方面の人が多く済んでいた(現住吉区)。その頃は那覇港や泊港が民間に開放されてなく、近辺では安謝港が唯一の貿易港となり、那覇、国頭、大島あたりから大勢の人達が集まり地域は活気づいた。
貿易が盛んになるに伴い、現安謝市営住宅辺りに「琉球中央倉庫」が建設され、多くの安謝区民も働いた。その後、米軍による県道一号線の改修工事が行われ県道は嵩上げされ、地域住民は交通に不便をきたした。
1952(昭和27)年、安里初等学校が当地に移って来た。それに伴い、県道の地下トンネルが開通し、東西間の交通は安全で便利になった。その頃の地内を見ると、学校通り(戦後できた道)のトンネルの東には食堂、飲み屋が立ち並び、校門付近には文具店や一銭マチヤグヮーが。メーミチには病院や旅館が建ち、雑貨店も五軒ほど建った。
当地には那覇、中北部、大島、宮古などからの移住者が多く、人口は年々膨れ上がっていった。
安謝誌 p230、231(省略と抜粋)

関連:グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)

那覇市は戦後離島の人達が移住しはじめ現在に至るのですが、離島の人達が移住した場所には濃淡があります。現在でも宮古姓の人達が多い場所などはある程度の年齢の人ならばいくつか思い当たるでしょう。
古い集落の範囲と新しくできた集落、そして戦後の土地解放時期などを重ね合わせて見ると了解できることは結構あります。
PR

ぶさー

ぶさーというのは武士のことです。

本部サールーの武勇伝をきいたことがありますか。サールーの雷名は琉球の天下に響きわたり、その武術のすごさ、泣く子も黙るほどの威力を発揮したそうです。彼の檜舞台は遊里の辻でした。作用、そのころの辻は絃歌さんざめく紅燈の巷でありながら、反面、有名無名の空手の達人が決戦を挑み、挑まれる戦場でもありました。
たとえば泉崎の仁王が泊のクルーに一撃の下にノック・アオトされた、とか。垣花のガッパイ三郎が、東のヨーゲー太郎に股間をけられて即死したとか、凄惨身の毛もよだつ死闘が、遊里を中心にしてつづけられていたようです。
(略)このおじいさん、空手の心得があるのか、インタビューするために、「サリ!(もし)」と声をかけると、はっと全身を硬直させて身構えるのです。話しているうちに、サールーのような英雄豪傑でなかったことだけはよくわかりましたが、じいさんがサールー時代の雰囲気を身につけて辻の暗がりで闇討ちに会ったようなショックを受けると、本能的にハッと身構えるものだということがわかりました。
どこそこの武士、そのころの空手の達人のことを武士と呼んでいましたが、その武士がどこの武士にやられたというニュースは電光のような速さで、全琉の津々浦々に人の口から口へと伝えられたものだそうです。
続・沖縄千一夜/徳田安週 p1、2(省略抜粋)


この本部サールーは空手の有名人です。
参考:本部朝基 - Wikipedia
「ぶさー松茂良」など高名なぶさーも何人もいます。

ぶさーは荒くれ者の監督者を頼まれたりただの暴れ者とは違う存在だったようです。本部サールーもそういったところの監督を頼まれたりしていたようです。
「続・沖縄千一夜」から垣花落平を仕切るぶさーが書かれてある箇所を引用します。

那覇市の需要を満たすばかりでなく、遠く慶良間、粟国、渡名喜、久米島の離島からも水を買う船がやってきたそうです。そこでこの泉の管理はもっぱら腕力の強い、つまり空手の達人である「武士」たちがにぎっていました。せっかく列を作って順番を待っているのに割り込みをやる無法者が出た場合、「武士」の実力がモノをいい「不埒なむん!」と拳骨を食わされたそうです。
続・沖縄千一夜/徳田安週 p55


「かきだめし/掛け試し」のこともWikipediaの本部朝基の項目にありますが、野試合・ストリートファイトのことです。昔は師匠と弟子の関係が昔の修行に近く、あまり試合などが望めなかった状況で他の人間と手合わせをする機会を狙ったわけです。
内間誌にも力自慢の農夫が闇で試合を挑まれて闘ったあとに「わんや本部サールーやしが」と言われて唖然とした証言があります。しかしサールーは本部御殿の王族であるわけで平民は知らされて唖然としたでしょうね(笑)。これなどもかきだめしの一種でしょう。

久高将正と大城鎌吉の土地購入

大城[鎌吉]に話を持って来たのは、美栄橋で自宅が隣同士だった材木商の久高将正である。土地の所有者は、沖縄電機[ママ]株式会社に勤務するエンジニアの高良嘉永だった。高良[嘉永]は1907(明治40)年牧志で生まれた。国際通りの北側で、沖縄三越、那覇タワー、マキシー、那覇セントラルホテルなどが立ち並ぶ辺りである。高良家は牧志や安里、前島に2町歩(約2万㎡)の土地を所有していた。
---
現在の平和通り付近に土地ブローカーが居たので、その人に交渉を任せた。二人の買い手がついた。それが、久高と大城である。1943(昭和18)年のことだった。
沖縄・国際通り物語 p20〜23(抜粋と編集)


牧志に土地を所有していた高良嘉永さんはブローカーを通して土地を売却、久高将正さんと大城鎌吉さんがその土地を購入したということです。
その土地が三越横の久高材木店と三越の土地だというんですから運命というのはわかりません。
むつみ橋付近図

久高さんは久高材木店社長です。

久高将正
1888(明治21)年、東村生。1922(大正12)年那覇市美栄橋町に薪炭木材店をはじめ、以来木材業一筋に生きる。日支事変、大東亜戦争と相次ぐ戦火を経て1949年には久高木材合資会社を設立し社長に就任する。
現代沖縄三千人より抜粋


高良嘉永さんは興南高校がらみで名前が出て来ました。

学園は昭和37年、終戦後の荒廃した中で、沖縄の将来を憂い、沖縄県の経済的・政治的自立のために沖縄県の将来の担い手の育成が急務であることを痛感し、高邁な理想と見識を持つ同志の高良嘉永氏、高良郎栄氏、高良盛一氏、高良忠一氏、高良真一氏、高良文雄氏、高良徳栄氏、高倉幸次郎氏及び当時文教局諮問委員の山城篤男氏が浄財を提供して創立された。
http://senior.konan-h.ed.jp/detail.jsp?id=6958&menuid=3033&funcid=1


大城鎌吉さんは沖縄経済界の大物ですので省略します。

製瓦業設営隊

復興の為の第一陣は壺屋・牧志でした。


先遣隊の那覇入りから5日後の[1945年]11月15日。今度は瓦製造と住宅を建てる目的で「製瓦業設営隊」が組織されて、総勢136人が那覇に入った。
設営隊の隊長は大城鎌吉だった。大城は1897(明治30)年、大宜味村謝名城産まれ。23歳の時に「大城組」を興し、住宅建築と瓦製造で成功した。
疎開先の故郷大宜味で終戦を迎えた大城に対して、米軍の方から瓦製造の依頼があった。設営隊が那覇入りする5日前、大城は那覇にやって来た。大城組の瓦工場は、現在の沖縄三越、那覇タワー付近にあった。
沖縄・国際通り物語 p10、11(省略と抜粋)


大城鎌吉さんは戦前から牧志で瓦を造るのですが、牧志はこういう風に説明される場所であったようです。

牧志は現在もそうだが、国際通りから十貫瀬に抜ける道は急勾配になっている。当時は、傾斜地を利用した登り窯が数カ所にあり、瓦屋れんが造りが盛んだった。壺屋の日常雑記の窯業に対して、牧志は瓦専門の窯業であった。現在の沖縄三越の場所に土地を買った大城も、そこで瓦工場を始めた。
沖縄・国際通り物語 p18、20(省略と抜粋)


この「急傾斜で登り窯のある道」はグランドオリオンから十貫瀬に抜ける道のことでしょう。那覇民俗地図では牧志には瓦焼釜の記号がいくつかあり、「戦前の牧志町民俗地図」ではレンガ製造場、カワラ製造場、レンガ・瓦焼釜が部落内にいくつかあります。
最初の写真は少なくとも10・10空襲以降の撮影で、ガーブ川沿いの建築物からすると1945年末の那覇入り以降の可能性もあります。

千寿糕(センジュコウ)

少し前の新聞を見ていたら「千寿糕」復活という記事がありました。なんでも小説で使われているそうです。

困った時の那覇市史資料編(笑)ということで見てみます。

麦粉の衣にあんを入れて焼いたもの
円形の光餅(クンペン)、桃型の李桃餅(リトーペン)、小判型で赤色の汀砂餡(ティーサーアン)は法事に用い、球形で色付けした千寿糕(センジュコウ)・橘焼(タチバナヤチ)は祝儀用である。
那覇市史資料編第二巻中の7、p323


これらは専門家の作る菓子という項目に入っています。製造元の新垣ちんすこうのブログはこちら。

材料、製法ともに「李桃餅(りとうぺん)」と同じ。しかし、中のゴマ餡にはキッパン(オレンジピール)が入っており、お口の中で爽やかな香りが広がっていきます。
千寿糕(せんじゅこう):あらかきちんすこうのぶろぐ

http://arakakikasiten.ti-da.net/e3434603.html


なるほど。李桃餅の説明もwebにありました。

小麦粉とラードをこねた皮の中にゴマあんが入った、見た目を桃に似せた饅頭。ゴマあんには、煎りゴマ、橘餅(ミカンの砂糖漬け)、ピーナツバター、砂糖などが使われている。現在は「ももぐゎーし(桃菓子)」とも呼ばれ法事のお供えとして目にする。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9D%8E%E6%A1%83%E9%A4%85


新聞記事から新垣菓子店の記述も抜粋して引用しておきます。

同店を営む新垣家は琉球王国の17代目の王、尚灝から、尚育、尚泰の3代の王に仕えた庖丁人、新垣淑規氏を祖とする。新垣専務の曾祖父にあたる淑規氏は1932(昭和7)年に本家から分かれ、那覇市久米で開業。
今回、淑規氏から直接菓子作りの手ほどきを受けたという菓子職人歴40年の宮城進工場長が千寿糕の再現に腕を振るった。
沖縄タイムス 5/10日付け

CIC(アメリカ陸軍防諜部隊)

米陸軍の諜報部隊であるCIC(Counter Intelligence Corps)です。
参考:Counterintelligence Corps (United States Army) - Wikipedia(英語)

軍事に関してはさっぱりわかりませんね...

参考:Office of Strategic Services - Wikipedia
参考:アメリカ陸軍情報部 - Wikipedia

http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/kokubakotaro.html#kokubakotaro2003
沖縄駐留のCICは、47年当時、米陸軍極東軍司令部(FEC)の下にあるフィリピン・琉球軍司令部のG2に所属していた。それが48年7月、琉球軍司令部(RYCOM)はフィリピンから分離、独立して、極東軍司令部直属となり、沖縄駐留のCICは琉球軍司令部参謀二部(RYCOM・G2)の所属となった。さらに、57年6月、米軍の組織替えによるFECの廃止に伴い、琉球軍司令官は新設された国防長官直属の琉球列島高等弁務官の兼務となりCICはその統括下に入った。正式名称は526th Counter Intelligence Corps Detachment, Ryukyu Command, U.S.Army(米陸軍・琉球軍司令部・第526諜報部隊)である。この526CIC部隊は、沖縄の日本復帰まで、琉球軍司令部の下で沖縄に駐留、諜報活動を続けていた


「ああ!オリオンビール」というオリオンビールの内幕を書いた本があるのですがそこから引用します(基本的にゴシップ本)。この本はワンマン社長だった具志堅宗精(Wikipedia)への部下からの攻撃本です。具志堅宗精は戦前の警察官上がりの元政治家ですね。

当時沖縄までのその情報命令系統は、先ず、合衆国情報委員会(USIB) -> 統合参謀本部第二統合参謀室 -> 国防情報庁(DIA) -> 陸軍情報部(CIC) -> 沖縄玉城在米国陸軍情報部という形であり、その下に那覇やコザなどにCIC事務所があった。
ああ!オリオンビール p72

当時出版物は、民政府府令第144号集成刑法(琉球列島の刑法ならびに訴訟手続き法典)により民政府の許可(窓口は琉球政府)が必要であった。CICは、これらの印刷物にも常に目を光らせていたから民政府に都合の悪いことを書いた出版物は出版停止になり、また、とかく民政府批判の噂の在る人は集成刑法で刑務所行きになる可能性さえあった。
それで具志堅社長は、CICに頼んでAを社会から葬り去ってやると息巻いていたのであった。
ああ!オリオンビール p67


また第二次琉大事件にもCICの名前が見えます。

「琉大文学」発刊停止
http://w1.nirai.ne.jp/nyanko/father2_6.html


もう一度「ああ!オリオンビール」から引用します。

その翌日私の同級生でBOA(バンク・オブ・アメリカ)勤務のH氏から、「花岡、きみのことをCICがいろいろ訊ねていたが、どうやらきみはCICのブラックリストに載っているようだね」と電話があった。
「CIC?」と私は訊き返した。
「そうだCICだよ」
「私は何も悪いことや反米的なことはやってないのに何かの間違いではないか」
「それじゃ花岡、CIC事務所で調べて来てあげよう」
それから2、3日してからそのBOAつとめのH氏から電話があり、ブラックリストに載っていることが確かめられた。
ああ!オリオンビール p82、83


著者の花岡さんは59年に原水爆禁止大会へ琉大からいったのでブラックリストに載っていたようです。第二次琉大事件が56年ですからピリピリしていたのでしょうね。
これらのことからBOAやオリオンビールなど政府と馴染みの深い企業の人間はCICともある程度の関係がとれていたのがわかります。また良好な関係でいられなければ沖縄での企業活動は不可能だったでしょう。

丸国周辺

三共デパート(新生デパート)の続きです。
前に下記アドレスの動画を参考にしました。

沖縄 大晋建設の歩み 中編
http://www.youtube.com/watch?v=6UFxgYzS65g


その動画に写った図から書出してみました。右は元にしたスクリーンショットです。


同じ動画の中から民衆百貨店の景観。


【追記】画像内で読める店舗名をテキストにしておきます。
嘉手川商店/十字屋/宮城商店/民衆百貨店/新生デパート/三共デパート/丸國マーケット(丸国、マルクニ)/那覇果物市場/大衆食堂やよい/アメリカビンゴ/ダイヤ商会/屋嘉比商店/朝日商会/沖縄商会/仲村商店/松堂商店/幸陽商事/那覇商事/びっくりそば/前原商事/照屋商事/みつや呉服店/万田商店/金城商店/信興商事

【追記】画像追加

兎ブーム

このブログの中にもいくつか戦後すぐの兎ブームに触れていますが、「高倉幸次郎追想録」の中にある船越義彰さんの文章の中にも兎に関わった思い出がありましたので抜出してみます。

私は民政府の下っ端役人で、月給が220円だった。「内務書記に任ず」という辞令をもらった。兎が私の前にあらわれたのは、知念半島に住んでいた遠い親戚のばあさまが、「兎」を3匹ほど手みやげにぶら下げて来た時に始まる。そして「近頃はこの兎が高価で売れますよ」と私の祖母に教えた。祖母としては、病弱な私の薬餌として使いたいようだったが、同じ部落に住んでいる土地のじいさまから、「せひ、兎をわけてくれ」と相応のお金を見せられた。いくらだったか、よく憶えていないが、わたしの220円の月給と対比したのであろうか、祖母は即座に兎を売り払った。その後、二回ほど、知念のばあさまのところから取り寄せて売ったが、間もなくブームは去った。那覇の方でも、おそらく、そうであったろう。
高倉幸次郎追想録 p206、207


義彰さんは戦後民政府に勤務、その後民政府と一緒に那覇に戻っていますのでこの話は那覇に戻る前の話でしょう。
兎は民間貿易開始以前の物資不足の一時期のブームだったようです。

参考:グダグダ 民政府職員の移動
参考:グダグダ みなと村資料からの数字など

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]