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消防と防火

那覇市消防本部に明治からの消防の歴史がありました。

消防本部のあゆみ1
http://www.city.naha.okinawa.jp/fire/soumuka/11_1.html


近世の防火体制に関しては「よのつぢ」の四号に「近世琉球王国の防火」というのがあります。
それをみると、余地、消防用水(水蔵・井戸・埋甕)、建物の不燃化などがおこなわれており、総与頭職という職もあって一応消防組織もあったようです。

沖縄県史物語に師範学校生の証言があります。

それが60年後の今日、さまざまな思い出とともに記憶に残っているのは、われわれ首里の師範学校生は直ちに寄宿舎こぞって、消防ポンプを荷車に載せた消防車を引いたり押したりして火事現場に馳せ参じて大活動をしたからでした。
[※大正の大火のこと]
---
師範の寄宿舎で月に一回か二ヶ月に一回くらい真夜中にふいに不時呼集のラッパが鳴り響いて、直ちに整列して那覇間を往復して、不時にそなえて自己訓練をしておりました。いつあるかいつあるかと正月を待つように心待ちして勉強していたことはうそではありません。不時呼集で坂下を夜十二時ごろ降りて、大道の高等女学校の前を通るときなど、女学生よ目を覚まして聞けといわんばかりに、前述の寮歌「見よ城岳の一角に、空をかすめてそそりたつ」の歌声をはりあげたものでした。
沖縄県史物語 p274、275(抜粋と省略)


当時の新聞記事には、那覇の大火事の際に師範学校生が大活躍したことが取り上げられています。
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しょうゆ・酢

さしみで庶民階級にはしょうゆは普及していないと書きました。

しょうゆ
しょうゆは富裕階級は自分で作っていたが、庶民がしょうゆを使うようになったのは明治以降であった。
農村地域や辻町では、みそがふるくなると上に汁が出るので、それをくんでしょうゆの変わりに使った。また、辻町では、大豆をひき、麦をいって麹を作り、水、塩を加えてしょうゆをつくっていた。

明治時代の自家製の酢の作り方は次のようであった、甘蔗の汁または黒糖の煮汁をかめの中に入れて放置して作った。酢のことをアマジャキまたは、シーといった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p195


昭和初期想定の民俗地図をみるとしょうゆ屋もあります。
富裕層と辻で作っていたということは高級料理には使っていたということでしょうか。

辻町では、客相手に高級料理が作られていたせいか、鰹節、ソーキ骨、とりガラ、グーヤーブニなど、ぜいたくに使ってだしをとるにも気を配ったという。また、庶民の間では、かまばこに塩で味付けし、固めに作り陰干しして、鰹節のように削って作った。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p196

参考:ダシカマボコ

那覇市史には調味料として、塩、みそ、しょうゆ、酢、さとう、しょうが、胡椒、唐辛子、ひはつもどき(ヒファチ)、鰹節、干小魚があげられています。

さしみ

方言で酢のことをアマジャキといいます。

アマジャキ /amaZaki/
(名詞) フェーイ hweeiともいうか。
意味:酢。シー Sii ともいう。昔は甘酒をいったものか。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN00656


料亭美栄の「夢の五段料理を味わう/古波蔵保好」という文に刺身のことが出てきますがその刺身は酢を使ったものでした。

沖縄でいう「さしみ」は、酢のものである。ナマの魚をつくりにして食べる習慣が生まれなかったのは、高温多湿のせいだった。(略)ナマを食べるより、酢のものにすれば、衛生的にも危なくないし、味も救われるということで、沖縄的な「さしみ」を思いついたのではないだろうか。「さしみ」に使われたのは、メバル、グルクンといった白身の魚である。薄づくりして酢に浸した。酢の作用で、薄づくりの表面が白くふやけてしまうのだが、これが沖縄の「さしみ」で、コドモだったころのわたしは、酢で半煮えみたいになった切り身に妙なおいしさを感じたのである。
http://ryukyu-mie.com/fivemenu/


沖縄には内地風の醤油が庶民階級には普及していません。なので気候のせいもあって酢づくりにしたのたと思いますが酢で食べるのもなかなか悪くないものです。
年寄りだと今でも酢で食べる人がたまにいます。

もやし

もやしは水を選ぶ。明治から大正にかけ若狭町に、2、3の業者があって、私の伯母もその一人であったが、大市場に出すと泉崎物には負けると、仲買人が語っていた。そして主に場末の小市場に持って行くようだった。
自分の井戸は、水も豊富で、浅くて使い水には何の不自由も欠点もないが、もやしを作る小屋は、50メートルぐらい離れた下茂門という家の井戸の側に造り、毎日20籠ずつ育て、卸していた(明治40年)。
現在の琉球石油本社の右角向かいの岩陰の井戸で、小屋から出して1日3回、夏は4回水をかける。その時間を、近所の主婦たちは見計らって洗濯をしていた。温かく、洗濯には最適だった。夏は3日で仕上がって、冬は5日ぐらいかかるようだった。上っ面は細長く、安売りされ、多人数の家庭向きだった、1籠が卸で40銭、豆は一晩漬けたもの4升入れる。高さ一尺ぐらいの籠に芭蕉の葉を敷いて入れ、やはり葉で蓋をする。
芭蕉葉は、松川あたりの女たちが、50枚くらい束ねて6銭くらいで売りにきた。
カルテの余白/千原繁子 p62、63

旧琉球石油本社
現在の那覇中学校近辺でのお話ですね。
左は73年のゼンリン地図で確認した琉球石油本社と千原小児科、右は昭和初期の若狭です。那覇中学校(戦前那覇商業)の敷地は変わっていませんので、琉球石油本社近くにあったもやしの小屋もそのあたりでしょう。
関連:グダグダ 那覇商業跡

千原繁子さんの小児科医院あたりは73年当時は松山ですが、昭和初期には若狭です。現在の若狭大通りは那覇中学校より海側ですが、戦前の通りは陸側を通っていて住所の境目(若狭・松山)もそこが境になります。
参考:旧那覇の町名(西側)・親見世
もしかしたら千原さんの医院は戦前からの敷地に作られたのかもしれません。

下茂門は屋号かなと思ったら姓であるようです。
——当時、沖縄出身の医者の割合いはどれくらいでした。
古賀[花子] そうですね……医員はぜんぶそうだったですよ。部長では婦人科の饒平名(長田)紀秀さん、眼科部長の下茂門英信さんなんかがいました。
尖閣諸島開拓時代の人々 (2)

シモジョウ 下茂門 沖縄県。下条の琉球形。
シモジョウ 下門 沖縄県、兵庫県、大阪府。沖縄県うるま市での屋号からの明治新姓。ほか。
人名力 : 日本姓氏語源辞典 おおよそシモ~シモソ

聞き慣れない姓だからといって安易に判断してはいけませんね...

かまぼこ

冷凍設備のない時代には、行事があると蒲鉾及び卵入りの、いわゆるカステラ[※カマボコ]を作るのに苦心した。天気が悪いと一匹の魚も市場に見当たらないことがよくあったからである。
日が決まっている行事の十何日も前に、魚を手に入れて、近所の女や縁者が参集し、手伝って蒲鉾を作り、その前にブリキ缶に蓄えてある豚油の中に埋めるようにつけて風通しの良い所に置いておく。
これを逐一見たのは数え14歳になったばかりの新正が済んでまもなくだった[※明治43年]。
---
その2年くらい後から東町五丁目の、糸満人の居留地みたいな一郭で、蒲鉾製造が始まったと思われる。というのは、いつもの魚売りだったモウサーという女が、蒲鉾売り専門になって、一本700グラムぐらいの蒲鉾を40銭で置いて行くようになった。
私は、往診に行って、営業用の蒲鉾製造の現場を見た。グルクン、飛魚が主な原料で、手抜きはなかったが、味は余りよくなかった。扱いやすいように、つなぎの葛を沢山いれるせいか、堅かった。カステラもそうだった。
その頃から魚売りと言えば、垣花から来る近海魚のピチピチしたのが普通になって、グルクン、飛魚の呼び売りが稀になった。
祝い事、法事などでも、たいていの家は、自家製をやめて、出来合いの蒲鉾、カステラを使うのが普通になった。
カルテの余白/千原繁子 p89〜91(省略と抜粋)

東町の糸満部落

千原さんは呼び売り(行商)から魚を買って総出で作る時期と糸満人が作り始める時期の変化を体験しています。最初に引用したように、蒲鉾は保存が効かず作るのに人手を多数必要とするものですから、いつでも金銭で作りたてを購入できるようになるととって変わられてしまったのでしょう。

[カマボコ製造の]場所は、糸満宿小が集中する東町の糸満集落である。昭和初期に数戸であった那覇のカマボコ屋は、数年のうちに20戸位に増えた。昭和16年の沖縄県蒲鉾工業組合の組合は54人なので、その後も増加している。カマボコ製造は、一戸1〜2人で動力機を据えたものは少なく、糸満婦人の生業として営まれた。カマボコ製造の社会的な役割は、一方で消費市場を拡大し、他方で追い込み漁やマグロ漁業の魚価の下支え、過剰漁獲物の処理を通して漁業の発展を促したことである。
近代における地域漁業の形成と展開 p55(省略編集)


漁業者が加工品製造を手がけるようになったこと、漁業の形態が変化・近代化していったこと、都市住民の生活スタイルも変化したこと、等々が同時進行しています。

関連:グダグダ 垣花の水産関連施設
関連:グダグダ ダシカマボコ
関連:グダグダ カマボコヤ

若狭海岸の飲み屋

昭和の初め頃、波之上海岸に数件のバラック飲屋ができた。総称してタコ亭と言われ、大見謝というのが一番繁盛していて、芝居がはねてから役者たちがひいきにしていた、と。これらは親泊興照優の奥さんの話。酢だこが主で長皿一杯10銭。
波の上からずっと先のほう、ユーチヌ崎よりの所に、白波亭というのをみた。(略)
カルテの余白 p252(省略と抜粋)

入社した頃、若狭町に会社の倶楽部があった。玉突台、囲碁、チュンジー等が備えつけられてあり、仕事を終えると、小学校が同期で、営業係の屋良朝詳君と玉突きに度々行った。玉突きの帰りに2、3人の同僚と連れだって、波上護国寺裏にあった飲み屋「大見謝」に出向き、タコサシミを肴に泡盛を酌み交し、社会の出来事をケンケンゴウゴウ弾じ合うこと度々であった。たまにはハッスルして、辻に流れることもあった。
当時電気は花形産業であり、電気会社の社員はエリートとして社会で優遇されていた。とくに技術職である電工はもてはやされ、芝居や映画館に電工席が設けられるほどであった。停電の際、すぐ修理してもらいたいという理由もあり、職員は入場無料であった。辻遊廓でも同様の事情で、下にも置かぬ丁重なもてなしを受けた。
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり p46(抜粋と編集)


若狭の飲み屋で触れた飲み屋のことが書いてあります。
わかさ民俗地図を見ると、若狭病院そばの通りが飲屋街、少し離れた海岸沿いに「タコ亭」「臨海食堂」があり飲み屋とも書かれています。またタコ亭は「タコ亭(大見謝)謝花」(※ママ)と付記されています。またタコ亭周辺へ向かう道はタコーヌスージとなっていますがこれは関係はないようです。
※タコーヌスージに関してはコメントをご覧ください

浦添市史で浦添の漁民が那覇や首里へタコ等の水産物を売りに行った証言がありますが、この海岸沿いの飲み屋にも持っていったそうです。波之上海岸は戦後バラック飲み屋ができますが火事で焼けてあとは再建されませんでした(不法建築物だったため)。

那覇及び久米村図で使った地図?を再掲。

タコは若狭の名物であったとのコメントを頂いたのですが、この図からすると昔の若狭ではタコも採れるような遠浅の海岸であったのがうかがえます。

関連:グダグダ 若狭の飲み屋
関連:グダグダ 浦添から市場へ

別荘(ハルヤー)

別荘をハルヤーという。那覇の名家はほとんど、これを持っていた。
琉銀頭取の崎浜さんのハルヤーは、若狭町原にあって、周囲を竜舌蘭とアダンに囲まれ、15坪ぐらいの瓦葺きに、番人が4人家族で住んでいた。200坪の畑があって、裏に2匹の山羊を飼い、木ジーファーを作り、母親が毎日のように夕方から東市場にそれを売りに行くのを見た。
その別荘の裏は、夫婦岩になって、近所の女たちは、海で洗い物をして、帰りはここの井戸ですすぎをして持ち帰るならわしになっていた。
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城岳の麓に、普久里別荘という、近隣にひときわ目立つのがあった。大正の初め頃は、菅野島尻郡視学が借りていた。
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奥武山にある新嘉喜家の別荘は、那覇の紳士たちが、他県から来る有名人の接待によく使ったそうである、
カルテの余白 p115、116(省略と抜粋)


崎浜さんの別荘は「わかさ民俗地図」でみると那覇商業の横辺りにあります。

関連:新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美
関連:奥武山 2 (奥武山にある別荘)

質屋

才の神にある祖母の家の裏の砂糖樽大工(タルガーゼーク)の娘モウサーに、叔母が風呂敷包みを渡して、何事かを語っていた。私がモウサーについて行った所は、久茂地川のほとり、照屋質屋である。モウサーは私に、屋門でまっておれと言ったが、同級生のムタルーの家であるから、しばらくしてから行ってみた。1円20銭の金が渡されるところであったが、眼鏡のおじさんが、「これはお前の家のものではないだろう。ユカッチュジンだもの」と言うとモウサーは、「ほんとうは、この子の家の着物です」と白状した。カキジャーの絣だった。
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すぐにうけ出せない人は毎月利子を納めるが二割だったという。利子も納めず、期日迄にうけ出せない者の質草は流されて、市場の古着商の女たちが買い取る。これにもお得意があって、三人くらい組を作って質屋へ行き、取り混ぜて三つの山を作りくじ引きで仲良く分け合うことになっていた。
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昭和の初め頃、市役所の裏に、市営質屋ができて繁盛した。主任は琉球新報社の渡口政憑[※ママ]さんの母堂で、以前質屋をやっていて、目利きだというので任命されたのであろう。その頃から旧家の質屋業が一つ一つ消えて行くのがはっきりした。経済情勢の変化か、或は、後継者が学校出で、他の職業につくようになったせいかもしれない。
カルテの余白 p53〜57(省略と抜粋)


文中の渡口政憑は渡久地政憑だと思われます。

古着市ですが、新品が一番良いけども買えないので古着を買うといった感覚だけではなく、すでに仕立てがされていて値段が手頃であるところから身近な存在だったようです。このあたりは既製品で大量生産の布地を当たり前のように着ている現代人にはわかりにくいですね。

質屋は那覇女の商売として営まれました。
高額な物品を換金できるわけではないですし、主に庶民階級の着物を質草として扱っていました。庶民の小額金融として質屋は機能していたのでしょう。

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