「火と水はただ」の観念を持ち続けていた人達は、水道をいれても、相変わらず天水や井戸水もジャンジャン使っていたので、そのためか、那覇名物の腸チフス、アメーバー赤痢は、水道敷設後も減ったとは思えなかった。
コンクリート利用がまだまだの時代で、井戸の流しは石畳、その継ぎ目から地中に汚水が染み込むので、井戸水は汚水と直通のようなものであった。東町五丁目、真教寺の裏と右側の地域は、年中、伝染性胃腸疾患の巣窟であった。そこは埋立地で土の濾過作用零地帯、その上、地方から転入した庶民階級が主だったので、水道との縁が薄かったようである。
カルテの余白/千原繁子 p161、162戦前の新聞記事を読んでいると伝染病発生の記事が結構ありますが千原さんはお医者さんなので原因まで突っ込んで書いています。
明治期にはコレラの集団発生で泊外人墓地近くに台ノ瀬避病院(図の泊病院)ができています。これは伝染病の扱いが政府に決められたことによるようです。
1879(明治12)年、廃藩置県の時にコレラが流行し短日の間に多くの人命を失ったことから、初めて検疫事務取扱規則を制定するほか、翌13年よりは種々の衛生施設を講じた。即ち屠獣場および食料品の販売規定、飲料水販売業者取り締まり、墓地の設置、海港検疫の励行、避病院の設置等である。この他明治13年種痘規則を設けて天然痘を防御し、翌14年には貸座敷規則を設けて、黴毒予防の道を講ずるなどは本政府の本県衛生施設に対する熱意の入れ方は相当なものであった。
那覇市史通史編 p190PR