[日高/高江洲]妙子はその壷屋に1897(明治30)年、高江洲康宣の娘として生まれた。家は屋号を「壷屋与儀小」といい、屋敷の門が二つもあった壷屋の旧家である。往時は現在の神原中学校から平和通り、ダイナハ付近にかけてまで実家の土地であったという。「球陽」に「壷屋与儀小」のことが記載されている。読谷の比謝橋が壊れたとき、銅銭16貫文を寄与し家譜を授与されたとある。いわゆるコーイユカッチュ(新参士族)の出だ。
こういう話も伝わっている。飢えで集落中が苦しんでいたころ、「壷屋与儀小」では家の周辺を囲ってある石垣の上に、竹で編んだカゴの中に芋を入れておいた。腹が減った人は勝手にイモを取って食べなさいという意味からだ(壷屋陶器事業共同組合顧問 小橋川秀義談)。
時代を彩った女たち p109(省略と抜粋)ガーブー流域一帯が「壷屋与儀小」のものだったということですが土地は下のような感じです。この土地が化けるとこに戦後那覇市の面白さがあるんですけども。
往時の地形をみると壺屋の村は、丘陵の傾斜面を利用して、南に面してつくられ、東西に細長く伸びていた。前面、つまり南に久茂地川の支流になっているガーブ川を見おろし、背後に安里川が流れ、東は真和志間切の丘陵地帯、西北に牧志村をひかえていた。村の前後(ガーブ川流域—今の平和通りから神里原一帯—と安里川流域)は殆んど沼地帯で、人家はなく、別天地の観を呈していた。
http://www.zyyms.net/yakimonotuboya.htm農村地帯で地主が発生するのはわからんこともないのですが、壷屋がどういう生活をしていたかというのは(調べていないので)よくわかりません。
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