ボールという名の練乳は鷲印だった。数年後に人形印も出たが、これもボールといい練乳以外のかん詰めの空きかんも、すべてボールガニと名付けられた。
缶詰は、よほどエリートでなければ使わない時代で、私が18歳で高女を卒業するまでに二回食べた記憶しかない。練乳の空きかんは、近所の人が争ってもらいに来て、柄杓や子供の遊び道具、おはじき入れなどに利用した。
戦争中、ふる金買いに、国場あたりの女が毎日のように来ていうには、ボールガニは一斤3銭、軽るナービ小(アルミ)は5銭、銅は10銭と言っていたがブリキやかん詰めの空きかんを片っ端からボールガニと称していた。食品としてのかん詰めは、めったに使われないが、練乳は明治中期頃から乳不足の乳児に普及したと思われる。
大正6年小児科の授業で、人工栄養についての講義に練乳が出た。「練乳を普通ボールといっているが日本で最初に輸入されたのが、日本で最初に輸入されたのが、オランダのボールデン会社の鷲印だったのでそれから何会社のものであろうがボールで通用するようになった」と小杉先生がいわれた。なるほど、それが沖縄にもそのまま通用することになったのである。
カルテの余白/千原繁子 p24、25(省略と抜粋)練乳をボールと呼んだのは沖縄だけではなく、千原さんが授業を受けた大正期の東京もそうだったようですから全国的な話のようです。
空きかんをすべて「ボールガニ」と呼んだようで、カニ(カネ/金 ※金属の意)をつけて形容してしまうのは現在からするとおかしな感じですが、古金属買いはフルガニコーヤーですからいいんでしょう。軽るナービ小(カルナービグヮー)も即物的な名前でわかりやすいです。
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