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フクミン・天ぷら

まず「天ぷら」という言葉の語源。

天ぷらの語源については諸説あるが、いずれも南蛮渡来の語としている。 おもに語形からの類推によって、
* ポルトガル語の temperar (略)
* ポルトガル語 temporas (略)
* ポルトガル語またはスペイン語の templo (略)
などから転じたとする。
てんぷらの語源は、キリスト教の宗教用語で四旬節のことを「クアトロ・テンプラシ」と言い、(略)転じて魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったこと、とも言われている。
天ぷら - Wikipedia


Wikipediaの天ぷらの項目は結構長くて、ルーツと思われる物についても多数述べられています。
ならウチナーグチで「フクミン」と呼ばれるものはなんなのか。

フクミン /hukumiN/
(名詞)意味:料理名。てんぷらのこと。ヤーシェーフクミン 'jaaseehukumiN (野菜てんぷら)、イユフクミン ijuhukumiN (魚てんぷら)などがある。戦前はてんぷらのことを、フクミンといっていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51526


フクミンはどうも「含むもの」のようです(書いてませんが)。天ぷらの呼び名であると同時に天ぷらの中身を指す言葉でもあったようです。

フクミン /hukumiN/
(名詞)意味:てんぷらの中身。てんぷらのたね具。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN31444


この項目の素晴らしいのは、
「今日の てんぷらの 具は 何だ」という文の方言での発音があり、
「チューヌ ティンプラヌ フクミノー ヌーヤガ」という発音が聴けるとこです。
「フクミノー」は「含むものは」なんだろうなと愚考しますが外れてもないんじゃないかと。
是非発音を聴いて頂きたい。
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劇場の初め

1947(昭和22)年には劇場ができはじめます。

住宅復興を優先する民政府は、劇場建築を認めなかった。が、四囲の要望が強く、しぶしぶ認めた。3月に露天の中央劇場(松尾)ができ、7月に露天の大洋劇場(神里原)、屋根付きの沖縄劇場(栄町)が開業。テント張りのアニーパイル国際劇場(牧志)は12月6日、初の楽団・南の星が開演。バンド付き歌謡曲は若者に好評だった。
戦後の沖縄世相史 p28


中央劇場は現在の開南分岐点から浮島通りへ出る途中にあった。経営者は仲井眞元楷氏であった。露天劇場であることは当時の常だが観客席が変わっていた。丘のスロープを利用した観客席で舞台を見下す格好になっていた。闘牛場のような劇場であった。
狂った季節/船越義彰 p222


神里原の大洋劇場はここを。そのほか沖縄劇場は栄町のバイパス沿い、アニーパイル劇場は元国際ショッピングセンター(現在のテンブス)です。
※各劇場については上の検索窓から調べて下さい

関連:グダグダ 新栄通りのなりたち

ブクブク皿

ブクブク茶の復活に助力された新嘉喜貴美さんのブクブク皿を巡る話です。

戦前、[東恩納寛惇は]東南アジア旅行のお帰りに私の家に4、5日泊まられた。(略)東京へお帰りのお土産に、黄色ハチマキ(位によって色分けされた冠物)とブクブク皿と茶せんを差し上げた。
戦後の昭和33年(1958)夏、上京して[東恩納寛惇]先生のお宅へ伺ったら、玄関の飾り棚にハチマキとブクブク皿が飾られてあった。なつかしい思い出の品であった。
無一物になった当時である。先生は「ブクブク皿は返すから、沖縄へ持ってゆきなさい」とおっしゃった。私は「ありがとうございます」とお礼を言って、その品をうれしく頂いた。「お礼にブクブク作ってごちそうします」と申し上げ、高嶺夫人の経営する花風という、新宿の料理店へお客をお招きした。
客人は伊江朝助さん、東恩名夫妻、瀬長義直夫妻、高嶺明達夫妻、金城清松夫妻、国場幸太郎夫人であった。水道水を使用したので心配したが、思いがけないほど上等の泡のブクブクに、皆様よろこんでいただき楽しい思い出となった。
持ち帰ったブクブク皿で、友人12、3名集まり、家の庭でブクブクを飲んで月夜に遊んだ。久方ぶりのブクブクとのごちそうはアギソーミンと揚豆腐であった。
かざぐるま/新嘉喜貴美 p79〜81(省略と抜粋)


東京の東恩納寛惇宅に避難したおかげでブクブク皿が無事だったということですね。
しかし凄いメンツが集まるもんです。

第一世代の女子遊学組

金城芳子さんと外間守善さん(1924生)の対談から引用します。
先輩にお伺いを立ててる感じがなんともいえません(笑)。

芳子 そのグループは、組合教会以前の女子遊学生の集まりですよ。
外間 伊波先生のところで勉強する非常に熱心な女性として、近代に目覚めていた女性たちが集まったわけですね。
芳子 いいえ、この人たちは遊学生で、遊学生の仲間として伊波先生のところに来たわけ。
外間 集まった理由は、大正8年に伊波先生が『沖縄女性史』をお書きになるでしょう。あれの影響でしょうか。
芳子 そうじゃないと思う。沖縄の女性をヤマトゥに遊学させるのは、あの時代が始めてなんですよ。比嘉初子先生も、初子先生は女子大か。それから八重さんも女子大ですよ。それから瀬長良直夫人の与儀佳奈、東恩納寛惇夫人屋加マカーウクサンなどだな。あの人たちは、沖縄の女性として女学校までじゃなくて、遊学するんですよ。その始まりなんです。だから、それと伊波先生が東京で勉強していらっしゃるのと、遊学というところで結ばれているので、彼女たちが『沖縄女性史』を呼んで影響されたのではありませんね。
外間 なるほど、本土で近代的な教養をうけて返って来た人たちが、当時のときめく文学士伊波先生のところへ集まって来たということなんですね。
芳子 そう、そう。比嘉初子は伊波先生のことを「ウフーチ」(大兄さん)と言っていましたよ。そしてその女子遊学生たちが、一高女・女子師範に赴任して私たちの先生になったの。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p19、20


年齢を整理してみます。
富原[旧姓比嘉]初子(1888-1974)明治21年生まれ
真栄田冬子(1897-1975)明治30年生まれ
玉城オト(1897-1993)明治30年生まれ
金城芳子(1901-1991)明治34年生まれ
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ

話題になっている人達が明治の初め頃の人間で、伊波普猷が1876(明治9)年生まれで沖縄からの最初の留学組。金城芳子さんたちは大正期に学生だった人達で、外間守善さんは大正の終わり頃に生まれた人です。
話にのぼっている遊学組は大正期には卒業して帰ってきていた女子の第一世代で、学校の先生などの職に就いています。

伊波普猷周辺の人達の年齢差、そしてどういう関係だったのかということがこの対談では良くまとまっていて面白いです。

漬け物

沖縄では内地と同じ形での漬け物はあまり発達しませんでした。

浅漬けよりも長期保存のきく漬け物が発達した。中でも特産のさとう漬けは地漬(ジジキ)といわれ、戦前は大抵の家で作られ、ウチャワキ[お茶うけ]にも出された。食事中に漬け物を食べる習慣はないが、島菜や大根葉などの塩揉み程度のものは、おかずの一つとして出された。
地漬 大根、ゴーヤー、モーウイなどを塩で下漬けして脱水したあと、黒砂糖でつけ込む。漬け込んでいるうちに、黒砂糖が発酵して奈良漬けのように美味になる。
梅酢漬 下漬けをしたゴーヤーや瓜などを、氷砂糖と梅干しで漬けたもの。今でいうピクルスである。
アジケーナンムン ナンムンとは酒の肴とでもいうような意味。アジケー(シャコ貝)を下漬けしたあと、氷砂糖と唐辛子で漬けたもの。
らっきょう漬け、ニンニク漬け(甘酢漬) 氷砂糖と酢に漬けて長期保存用の漬け物にし、ウチャワキにも出された。
粕漬 酒造所の多かった首里では粕漬も作られた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p200


黒糖漬の味に親しめれば家庭菜園で馬鹿みたいにゴーヤーができても大丈夫です(笑)。ゴーヤーはピクルスも意外といけます。

沖縄の漬け物といえば、大根、キウリなどを、土地の産物である黒砂糖で漬けたものが多い。いつしか黒砂糖は発酵してアルコールに変わり、南国的な漬け物になる。といって、もともと沖縄には、食事の時に漬け物を食べる習慣はなく、お茶菓子のかわりだった。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p163


年寄りは冷めたお茶も飲みませんし、冷えた飲みものもあまり口にしない人がいます。昔は夏でも熱いお茶を飲んだはずなのでそういうときのお茶うけに漬け物など口にしていたのでしょう。

食紅と麹

明治〜大正期の食品説明で、赤く染めるのに紅麹を使ったという記述と食紅を使ったという記述が両方現れます。

二色カマボコは赤、青に染め、赤は「紅コージ」、青は島菜や大根の葉の青汁を利用した。
那覇市史資料編第二巻中の7 p198


島菜(シマナー)はカラシナーです。カラシナーに塩をふると水が緑に染まりますからね。
あと葉野菜の絞り汁を飲む風習もあったそうですから青汁も身近だったのかもしれません。

千原繁子さんは戦後も紅麹を自宅で保存していたようです。戦前の家庭では味噌類自作していたところも多いはずなので麹類の扱いも慣れてたんでしょう。

タバコ

明治36年頃、那覇の才の神近くの小湾のアンマーという人がタバコを売っていた。4尺長さの台の上に刻みタバコをのせ、客がくるとリンゴ大にまるめて、茶紙に包んで2銭で売っていた。タバコは男女を問わずのまれていたが、ほとんどきざみタバコをタバコ盆の引き出しに保存し、使う分はフージョー(布袋)に入れた。客が来ると、きせるを袖口で吹いて廻しのみをした。また東町にタバクチリ伊良波という人がいたが、タバコの葉を切る仕事をしていたのであろう。若狭町の百姓は自作のタバコ葉を密かにきざんでのんでいた。葉タバコを吸うのは表つきの下駄をはく富裕階級の人たちであった。巻きたばこは敷島が有名であった。
首里の御殿内では、婦人の喫煙は一種のたしなみとされ、嫁入り道具にタバコ盆を持参したという。
那覇市史資料編第二巻中の7 p198


紙巻きたばこ以前はどこでもそうだったはずですがキセルでの喫煙ですね。
個人的には紙巻きでの喫煙はどれだけ吸うかという区切りが長過ぎるためキセルのように2、3口で終わらない分下品な感じがします。
関連:グダグダ 自家製たばこ

あと関係ないのですが今帰仁方言の発音に(今更)驚きました。音声も聞けるのできいてみて欲しいですがここまで違ったら意思疎通も難しいですよ。

パータバーク /paatabaau/
(名詞)意味:葉たばこ。刻んで包まれてないたばこ。乾燥したたばこの葉。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/details.php?ID=NK37117

大茎種

いずれにしても、サトウキビの畑を見るたび、わたしが思い出すのは、その汁がとても甘かったことである。
わたしがコドモだったころに栽培されていたのは、今の品種とは異なっていて、大茎種といわれていた。今は白い穂の出るのが成熟したしるしだそうだが、あのころは白い穂が出たら、茎は水気を失っていたのである。したがって白い穂の波を見ることはなかった。
---
昔の大茎種はやわらかくておいしかったけど、いまの白い穂が出る品種はどうだろう?と郷里にいる友人に尋ねると、堅いのなんの、あれは機械で絞るほかないっという答えが返ってきた。
糖度はきわめて高いそうだのに、キビを噛む楽しみは、思い出の中へ去ったのである。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p40〜44 (抜粋と省略)


都市部では盆の時期に飾るくらいしかサトウキビにも触れませんね。
しかし昔の人間がサトウキビをかじっていたという謎がやっと解けました(笑)。今の品種では無理なんですね。
製糖は冬がシーズンなのでお盆用に大茎種を作って売ったらいいのに。

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