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保存食としての「らふてえ」

市場の肉売り場に出ている豚の皮付き肉は、もう黒い毛のほとんどを除かれて、表皮がきれいになっているものの、やはり毛根が残っている。皮を火で焙るのは。毛根を除くためで、母は皮が軽く焦げると、井戸端に持っていき、包丁で表皮をけずった。毛根がすっかり除かれるまでの念入りな仕事だったのである。
あと丁寧に洗ってから、角切りにして、鍋に入れ、かまどの火にかけた。火は強くしないで時間をかける。そのうちに、皮と肉の間にあるあぶら身からあぶらが溶け出して、やがてあぶらのなかで肉が煮られているという状態になった。
ころあいをみて、石ころのように堅い氷砂糖を入れる。氷砂糖がだんだん溶けるにつれて、甘みが肉に浸透していく。ふつうの粉砂糖だと、いっぺんに溶けるので、甘みが肉にしみていかない、と母は語っていた。さらにゆっくりと煮て醤油で味付けする。
---
夕飯のおかずにする分だけ、できたての「らふてえ」を取ったあと、鍋は薪棚の下にぶらさげておかれたのだが、だんだん冷えてくると、鍋いっぱい真白くなる。
真白いあぶらの中に閉じこめられた「らふてえ」は腐るということがなかった。使うときは、あぶらの中から掘り出すのである。つまみ出したのを暖めておかずにすることもあったし、薄く切って、ほうれん草とともに炒める等、「らふてえ」があるうちの食事はたいへん楽しいものだった。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p113、114 (省略と抜粋)


ラフテー(以下らふてえ)の保存食的側面が現れています。
料理沖縄物語のこの項目の後半には妹である古波蔵登美さん経営の料亭美栄での「らふてえ」が母親の作り方ではなくオリジナルの側面があることを述べており、最後は「妹の『らふてえ』がいつしかひろまって、近頃は「美栄」風を昔ながらの『らふてえ』と思っている人が多い」と締められています。

古波蔵さんたちの母親の作り方も氷砂糖をつかうとこから察すれば個人の工夫によるものだと思われます。この辺伝統と現在の形などには注意をはらっておきたいもんです。
ですが伝統製法が記録・保存されていればあとはおいしい方の勝ちです(笑)。
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ぶくぶくー周辺

ぶくぶく茶(以下ぶくぶくー)の復活にも那覇の暮らしが見えます。

ブクブク茶は,かつて日本各地に分布していた振茶の一種である。振茶とは,茶碗・桶・木鉢などに番茶等を汲みいれ,茶筅を振ることによって,茶を泡立てて飲む習俗である 。琉球における振茶の習俗については,1757年土佐に漂着した琉球船からの聞き書きである『大島筆記』に「年配の婦人は煎茶を振りて飲む事,日本田舎の如し。」(『大島筆記』人物風俗)とみえる 。また明治前半の首里方言を収める『南島八重垣』には,「ブクブクーヂャー」として,「泡茶也。昔は盛んに行はれたるよしなれども,今は稀也。とある 。」
このことから,近世後半期にはブクブク茶が飲まれていたと考えられる。伊波普猷,東恩納寛惇によると,ブクブク茶は那覇の習俗と記すが ,『南島八重垣』の記述から首里においても広く行われていた可能性が高い。さらに,伊計島や宮城島において見送りの歌として「ぶくぶくの御茶や旅の嘉利吉なむん 立てて廻らしばにおけるブクブク茶やそれに連なる振茶の習俗は,首里・那覇にとどまらない範囲にも広まっていたことが推測される。
CiNii 論文 - 沖縄における茶文化調査の概要と今後の課題


ぶくぶくーの由来は不明ですがかつては各地にあったものということでしょうか。

ブクブク茶は,第二次世界大戦後に習俗としては一度途絶えた。昭和30年代,復元に着手したのが新島正子氏である。その後,安次富順子氏とともに研究を重ね,明治,大正,昭和初期に那覇で飲まれていたブクブク茶が昭和50年代に復元された。1992(平成 4 )年には,新島・安次富両氏の関わる沖縄伝統ブクブクー茶保存会が発足している。

ブクブク茶は那覇以外で確かに飲んでいた話を聞かなかったという。首里でも飲んでいた話もあることにはあるが,首里では飲んではいなかったという話も収集され,事実は定かではないとする。伊計島,宮城島には先述の歌が残るのみであった。また,ブクブク茶は戦後もわずかに那覇の布市場で行商人(ぶくぶくたちぃやー)が売り歩き,予約制で販売されていたという。日常生活のなかでは比較的贅沢品との認識があり,野菜市場では売らず,布市場などの売買単価の高い市場で売られていたとのことである。家庭でもブクブク茶を点てて飲んでいたのは,那覇の名家と言われるところであった。
これらの聞き取り調査の内容からは,ブクブク茶は生活に余裕のある層の人々が主に飲んでいたことがうかがえる。

また,ブクブク茶を点てる道具であるブクブクー皿と茶筅も,安次富氏らにブクブク茶について助言していた新嘉喜貴美氏のもとに残っていたものから復元された。
CiNii 論文 - 沖縄における茶文化調査の概要と今後の課題


最後に金城芳子さんと新島正子さんの対談から抜粋します。

芳子 伊波普猷先生のところなどが、いわゆる本当のナーファ料理であったんです。私は、あとから伊波先生の所に出入りするでしょ。ほれ、あんたがたいへん苦労して再現した“ブクブク茶”ね、あれも伊波先生のところのカーの水が一番適しているということで、毎日のように飲んでいましたよ。近所の人も伊波の水をもらいに来ていました。あんたのこの間のブクブクは完全にあのときのままでした。
新島 私は首里の生まれでしてね。ブクブク茶のことをよく知らないままに大人になってしまって、料理の仕事をやるようになってから、ああこれではいけない、今のうちに昔通りのブクブク茶を再現しなくては、ということで、手探りの状態でいろいろ試みてきたわけです。この間、一番よくご存知の芳子先生に見て頂いて、本当に安心致しました。
芳子 辻ではブクブクはやらなかったですよ、あれは、西の名門の新嘉喜の奥さんなどがやってましたね。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p127、128


ぶくぶく売りでは首里生まれで安里育ちの古波蔵保好さんの証言をとりあげましたが、首里生まれの新島正子さんにも馴染みのない風習であったようですので、これは那覇人のみの風習といっていいんではないでしょうか。
まぁ作り方見ると悠長なものなので「えーきんちゅ」しかできなかっただろうなとは思います。

ぶくぶく売り

料理沖縄物語に東町市場でぶくぶくを売るようすがあったので引用します。

このおかみさんたちが、お茶を欲しくなるころ、物売りの娘が現れる。手にさげているおかもちに入っているのは、ご飯茶碗くらいの器に高々と盛りあげた白い泡であった。あれはなんだろう、と那覇人でないわたしが見たこともない売り物に興味を感じ、市場を通り抜けようとしていた足を、しばらく止めて、様子を眺めていると、おかみさんの一人が、一碗を買い求め、おもむろに泡をなめだしたのである。
つづいて、あっちでもこっちでも、おかみさんたちが娘を呼び寄せ、たちまちおかもちはカラになった。
泡が売り物になるとは面白いと思い、知合いの那覇人に訪ねると、「ぶくぶく」というものだ、と教えられた。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p225、226


この本は1983年発行で、この項目の最後は「今は、昔の名手から習った婦人の2、3人がいるだけで、このお手前の風習は泡と消えた」と締められていますが復活しています。
このぶくぶくは硬水を必要とし、西町でも一部の井戸が適しているだけだったのでその井戸にはぶくぶく用の水を求める人が訪れました。その適した井戸の一つが伊波普猷の実家であったそうです。
参考:グダグダ 伊波普猷生家跡・クバチカサ

ちなみに新嘉喜家は伊波家の隣近所(西本町4丁目)だったそうです。
参考:グダグダ 新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美

山羊刺

獣の生肉食というタイムリー(?)な話です。ひーじゃーの刺身があらわれたのは戦後である、というのを人から聞いたことがあったのですが証拠となるような文献は読んだことがありませんでした。

そして昔は話に聞いたこともなかった山羊肉の刺身まで、いつの間にか現れ、一方山羊のキンタマを山羊料理の高級品として食べさせる店もあるとか。食べた人にきくと、ナマのまま薄切りにしてあり、ケッコウな風味だというのである。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p211


これが証拠になるわけではありませんが、少なくとも古波蔵さんの世代ではポピュラーなものではなかったということですね。
考えてみれば冷凍して流通することが可能になったのと衛生的に解体できるようになったのはさほど昔ではないはずで、戦前に刺身として流通するのは難しかったでしょう。それと戦後の内地での焼き肉文化の流入というか、肉の生食文化の流入も関係あるのかもしれません。

年寄りに言わせると飼料で育てたものより草で育てたひーじゃーのほうがおいしいそうです。

みき・あまがし・げんまい

それぞれ違うものではあります。

みき
水を含んだうるち米を砕き、煮て麦芽を加え、冷まして濾す。
http://www.mikiya-okinawa.com/dekirumade.html
鹿児島県、沖縄県には「みき」と呼ばれる米を原料とした独特の飲料が伝えられており、清涼飲料としても市販されている。これは砕いた米に砂糖を加えて自然発酵させたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92#.E3.81.9D.E3.81.AE.E4.BB.96


あまがし
押し麦は一晩、緑豆は2時間くらい水につけておき、鍋で20分ほど煮込む。好みによって白玉を入れてもよい。また、古くは麦の粥に米麹を入れて二、三日発酵させるやり方であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%8C%E3%81%97


げんまい
玄米を臼で挽き黒糖や生姜で風味付けして作っていた飲み物
http://www.ryukyuyakuzen.com/shopping/html/product2.html


水に浸した穀物を砕いて味を整えた飲み物というのが共通してますね。
古波蔵保好さんの本にあまがしについて触れている部分がありますので引用します。

首里の旧家で育った人の話によると、「あまがし」とは大麦を臼でついて割り、水タップリの粥に炊いてから青こうじをいれて、一晩発酵させたもののことだったそうである。
いわば大麦の粥で、酸味のある飲み物だ。碗にとって、すする前に、少しの砂糖を加えて、味を整えたらしい。(略)
いつのころからか、そういう「あまがし」は忘れられて、わたしの家でつくったのは、もやしの材料にも使われる青い豆「ささげ」といわれる豆と大豆を煮て、黒砂糖の甘さを加えたものであった。
現在、「あまがし」といわれているのは、すべてこの大麦と青豆による甘い汁である。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p92(一部編集)


手作り可能であると思うんですが、今の家庭で発酵を伴う食物の手作りはできないでしょうね。痛み豆腐の「るくじゅう」もそうなんですが、発酵による酸味を“危ない味・危険信号”としてしか現代の家庭は捉えられないでしょう。
オチはありません。

三越ハイカラー

金城芳子 ウンジュナーは三字の新嘉喜で、美登子の新垣とはちがって、お家柄がいいそうですよ。また“三越ハイカラー”ともいわれていましたね。いつも美しくて私たちのあこがれ。山脇短大もお出になったし、いまでも何不足ないですものね。
新嘉喜貴美 私はね、ジンブンがないから優しいだけが取り柄。うちの父は税官長だったから、ヤマトゥからいろんなものがきたよ。税官は支那や台湾から船が入るときだけいそがしい。本部が長崎にあって、年に2、3回は出張していた。久場の実家は男の児がいないので、妹のカナーと二人はとてもかわいがられて、ぜいたくさせてくれた。瀬長とも親戚だから三越とは仲良し。だから沖縄にも三越ができたんでしょう。
芳子 瀬長の佳奈先生は私の女学校のときの先生で、東京の県人会やら、在東京沖縄婦人の会(曙会)の会長。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p112


新嘉喜貴美さんは前にとりあげました。
関連:新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美
1895(明治28)年〜1995(平成7)年。
西本町生まれ、菓子屋(屋号スーヤーデーク)、父景述(税官長)母マカメ。1915(大正4)年結婚、旧姓久場。

関連:グダグダ 新しい女たち
富原初子(1888-1974)明治21年生まれ
真栄田冬子(1897-1975)明治30年生まれ
玉城オト(1897-1993)明治30年生まれ
金城芳子(1901-1991)明治34年生まれ
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ


三越には瀬長さんというお偉いさんがいました。

瀬長良直
1892(明治25)年〜1977(昭和52)年 
実業家。那覇市首里汀良町生まれ。三越百貨店常務、二幸専務を経て相談役。沖縄協会理事、沖縄振興開発審議会委員などを務める。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41880-storytopic-121.html


オチはないですが人のつながりは見えてくるかと。

豚血

漆器に使われていた豚血について面白かったのでメモしておきます。

表面の傷や亀裂をニービ(小禄砂岩)と生漆を混ぜたニービ下地で埋めます。「刻素(こくそ)」という作業です。ニービは砂より粒が細かく土よりは粗いので、デイゴなど目の粗い木に塗るのに丁度よいのです。
そのあとクチャ(島尻泥岩)粉と生漆を混ぜたクチャ下地を塗ります。昔は豚の血と桐油、ニービ、クチャを混ぜた豚血下地が使われていました。塗り終ったら乾燥させます。
http://kougeihin.jp/crafts/introduction/lacquer/2889?m=pd

琉球王朝時代に製作された漆器は漆下地が主である。豚血下地は廃藩置県以降、民間工房で全般的に漆器製作を行うようになり、盛んに用いられるようになったといわれている。ただし、王朝時代の作品であっても、19世紀以降の遺品については豚血下地の例が見られることが指摘されている。
沖縄の豚血下地について/伊禮綾乃


時期的には19世紀から復帰あたりまで豚血下地は使われていたようです。
工芸については範囲外なので触れませんが、文中にある生活との関わりにおもしろいものがありますので抜粋してみます。また技法については1956〜70年代に紅房で勤務していた下地職人とA社の職人の証言だそうです。
下の引用すべて「よのつぢ」に掲載された「沖縄の豚血下地について/伊禮綾乃」からの抜粋です。参考文献などを含めて全文読まないとわからないとこがあるかと思いますので興味のある方は是非原文にあたって頂きたい。

また、戦前に若狭町で手作りのクチャが1個1銭で販売されていたことや、子供達が毎朝豚血をバケツを持って買いに行く風景が見られた、という技術分析以外の記述が見られる。 p48(31)

クチャ
工房近くの工事現場や沖縄本島南部方面の山から採取する。採取したクチャは天日で干す。それを砕いて水を張ったバケツに入れ、暫く置いて沈殿させ、上澄み液は捨てる。下に沈降したクチャを布で濾す。布濾しを4〜5回繰り返す。最後にクチャを布袋にいれておもしをかけ、多少堅くなったら、適量ずつ饅頭のような形に整え、乾かす。出来上がったものはジーグと呼んでいた。出来上がったジーグを購入していた時期もある。 p49(30)

豚血
毎朝8時頃安謝の屠殺場で豚血を購入した。洗面器の八分程度の分量の豚血の塊を15個程度購入する。入りたての見習い職人の役目であった。
購入した豚血は豆腐のように固まった状態である。それをワラで30分ほど揉んでサラサラの状態にする。一度藁でもむと凝固することはなかった。そして布で濾す。濾した豚血はビンなどに移す。この作業は下地調合を担当する職人が行ったが、担当者が休みの場合は若手の下地職人が行った。豚血をもんだ後のワラは、工房敷地内の地中に埋めた。
また、A社では、毎朝7時頃から作業前の準備を始め、9時頃なると那覇公設市場の肉屋に豚血を取りに行った。豚血を取りに行くのは見習い職人の役目だった。豚血の購入先は特定の肉屋で、会社が契約をしていた。料理に使用する販売用豚血は塩を混ぜるため、塩を混ぜない豚血を取り置きしてもらっていた。 p49、50(30、29)
沖縄の豚血下地について/伊禮綾乃 (省略と抜粋)


戦前クチャは洗髪につかっていたらしいですし、豚血は食べていますから身近ではありますね。

のーまんじゅう

那覇市史にも項目がありますがWikipediaに書かれている製法と同じです。

材料は小麦粉を発酵させ(イースト菌を用いる)、粒あんを入れ月桃(サンニン)の葉で約一時間蒸す。仕上げに食紅で「の」の字を書く。
のー饅頭 - Wikipedia


那覇市史にはまんじゅうの項目にこう書かれています。

白のままや黒胡麻をちらしたものは法事用で、他は祝儀用である。葬式には白を使い、十三年忌以下の法事には、上流では表面に黒胡麻を散らした。また二十五年忌以上の法事は精進料理以外は祝儀同様にするのでまんじゅうも三ヶ所に芥子の実を円形に付けたものや、衣の材料に赤色をつけ花形に抜き表面に貼付けた花饅頭を用いた。 下流は赤の輪形(の字に書く)を表面に書いた。後世の“の饅頭”と呼ばれ祝儀には必ず用い、入学祝い、進学祝いには親戚知人近隣にもくばられた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p324


のーまんじゅうの“の”はもともと略式の祝儀用だったということですね。
菓子類の製造も廃藩置県以前は首里・那覇の町方のみのようです。大和菓子も同じように廃藩置県後にメリケン粉や白糖が豊富に入ってくるようになってから作られました。
※コメントで熨斗の「の」、めでたいの「め」が繁忙期の作業で「の」になってしまったという説もあることを教えていただきました。ありがとうございます。

琉球には営業としての食品加工業は、酒造以外になく自家製造が主であった。ただし王府御用の職人はいた。廃藩置県後、彼らは職を失ったので、営業したのが最初である。
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昔、菓子があったのは首里・那覇の町方のみで、田舎では餅と揚げ物以外に菓子らしいものはなく、納税して余った黒砂糖を食べる程度であった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p321 (省略と抜粋)


新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美でとりあげた新嘉喜貴美(旧姓久場)さんが西本町出身で、もともと御用達の菓子屋だったとうろおぼえをしています。

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