「インジャ/福地曠昭」の前文を安仁屋政昭さんが書いています。そこから抜粋して引用します。
太平洋戦争の頃まで、沖縄の農村では借財のために身売りをすることが、一般におこなわれてきた。それは、貧農が豪農に従属して農作業に従事することが最も多く、地域によってその形態は多様である。
富農はウェーキ(ウヤキ)とかブギンシャ(分限者)などと呼ばれ、土地や家畜を多く所有していた。開墾地(仕明-セーキ)を広げて資産家になったという意味で仕明持(セーキムチ)ともいった。ウェーキは、みずから農業経営者であり、土地の一部を小作に出したり、模合を主催して農村の高利貸しとしても村落共同体を経済的に支配してきた。
貧農は、このウェーキのもとで小作人となり、さらに借財がかさむとウェーキの家内労働力として使役された。この従属的性格の強いものを、ンジャ(インザ・インジャ)とかンジャックヮと呼んでいた。ところによっては、ヤンチュ(家人)ともヤトゥイ(雇)ともいった。
(略)
一代で元利返済ができない場合には世代をこえて子や孫に引き継がれることもあった。貧農の身売りといわれている最も一般的な形態がこれであった。労働力移動の範囲が狭い地域に限られていた時代には、母村と近隣の農村に身売りをするのが普通であった。移民や県外で稼ぎが一般的になる1920年代(大正末期)以降はシカマ・イリチリの形態は割合としては少なくなったと言えよう。県史別巻では「シカマ(イリチリ)」の項目にこう書かれています。
ドシル、イリチリは従属的性格が強く、住み込んで次男下男として働き、シカマはそれが軽く、ふつう通いで労務を提供することをいう。これらが明治の土地整理以降も残存し、所によっては第二次大戦前までもあったということは、沖縄農村の後進性を特徴的に示すものの一つであるが、くわしい研究は今後に残されている。なお、ンザ(奴)、あるいはンザックヮ、ンジャックヮ(奴の子)というのは、イリチリやシカマにたいする蔑称である。
沖縄県史別巻「シカマ」 p289出稼ぎや移民は貧困を救った面もありますね。この豪農による支配は徴兵などでもダメージをうけました。
また地域によって様々な形態があったようですから簡単に一般化することも難しそうです。
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