大正4年の琉球新報に葬儀社開業の記事があります。
従来本県の葬儀というと肝煎人といって近隣の人や知合の人が寄り添って香花を造るやら人夫を指揮するやらして万事に不便がちであり、また繁鎖でもあることは多くの人々の経験したことであるが、其間にも時々人夫共が酒など強請って飲むやら賃銭に文句をつけて望外に得んとするなど種々てこずったものだが、此度の欠点を補ひ喪家に不便を感じせしめない目的で下泉町1の12水張小路に沖縄葬儀請負事務所なるものが出来たれば、喪家の依頼に応じて葬式一切のことを請負のださうで、一等が30円で僧侶5人に造生花4対、2等は20円で僧侶3人に造生花2対、3等は僧侶一人ださうだ。このほか墳墓を開くことだけは除いて墓口を閉することから左官の費用龕持人夫念仏に至るまですべて引き受けるそうであるから至極便利なものである。
大正4年8月21日 琉球新報(一部編集)龕や念仏の手配までするようなので従来の形式の葬式なのでしょう。
那覇民俗地図では下泉町の松田橋そばに「ミジハイ」という文字がみえますから水張小路もその辺だったと思われます。
首里では龕は平民が担ぎ士族は不浄として触りもしないものだったらしいですが那覇ではどうだったのかは(自分は)わかりません。
参考:
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