戦後暫くしてから那覇の海岸一帯の墓地は整理されました。
1951年から行われた那覇市若狭町、辻原の墓地整理事業をあげることができる。那覇の若狭、辻原の各墓地群は沖縄を代表する墓地として戦前から有名であったが、1951年に米軍の軍命をうけて、那覇市都市計画課がその撤去事業を開始したのである。米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである。
戦後沖縄の火葬 : 那覇若狭町、辻原の墓地整理をめぐって/加藤正春■
若狭町と辻原と述べられています。
那覇の海岸線沿いの石灰岩地帯、辻原の山、波上宮のそば、雪の崎など辻から若狭町の海岸線には多数の墓地地帯がありました。加藤正春さんの本、「奄美沖縄の火葬と葬墓制」に新聞に掲載された告知がありましたので引用したいと思います(少し改めました)。ちなみに「ウイノモー」は上ノ毛で、旭が丘は「セーコージ山/済広寺山」とも呼ばれます。
急告
軍命に依り那覇市辻(ツジ原)ワカサ町(ウイノモー、ユキノサキ、アサヒガオカ)一帯に有る墓地所有者は右記に依り御参集ください。
記
一、日時 1951年1月31日(火)午後1時
一、場所 那覇市役所
1951年1月25日
那覇市役所
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