那覇市史にも項目がありますがWikipediaに書かれている製法と同じです。
材料は小麦粉を発酵させ(イースト菌を用いる)、粒あんを入れ月桃(サンニン)の葉で約一時間蒸す。仕上げに食紅で「の」の字を書く。
のー饅頭 - Wikipedia
那覇市史にはまんじゅうの項目にこう書かれています。
白のままや黒胡麻をちらしたものは法事用で、他は祝儀用である。葬式には白を使い、十三年忌以下の法事には、上流では表面に黒胡麻を散らした。また二十五年忌以上の法事は精進料理以外は祝儀同様にするのでまんじゅうも三ヶ所に芥子の実を円形に付けたものや、衣の材料に赤色をつけ花形に抜き表面に貼付けた花饅頭を用いた。 下流は赤の輪形(の字に書く)を表面に書いた。後世の“の饅頭”と呼ばれ祝儀には必ず用い、入学祝い、進学祝いには親戚知人近隣にもくばられた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p324のーまんじゅうの“の”はもともと略式の祝儀用だったということですね。
菓子類の製造も廃藩置県以前は首里・那覇の町方のみのようです。大和菓子も同じように廃藩置県後にメリケン粉や白糖が豊富に入ってくるようになってから作られました。
※コメントで熨斗の「の」、めでたいの「め」が繁忙期の作業で「の」になってしまったという説もあることを教えていただきました。ありがとうございます。
琉球には営業としての食品加工業は、酒造以外になく自家製造が主であった。ただし王府御用の職人はいた。廃藩置県後、彼らは職を失ったので、営業したのが最初である。
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昔、菓子があったのは首里・那覇の町方のみで、田舎では餅と揚げ物以外に菓子らしいものはなく、納税して余った黒砂糖を食べる程度であった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p321 (省略と抜粋)新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美でとりあげた新嘉喜貴美(旧姓久場)さんが西本町出身で、もともと御用達の菓子屋だったとうろおぼえをしています。
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