ぶくぶく茶(以下ぶくぶくー)の復活にも那覇の暮らしが見えます。
ブクブク茶は,かつて日本各地に分布していた振茶の一種である。振茶とは,茶碗・桶・木鉢などに番茶等を汲みいれ,茶筅を振ることによって,茶を泡立てて飲む習俗である 。琉球における振茶の習俗については,1757年土佐に漂着した琉球船からの聞き書きである『大島筆記』に「年配の婦人は煎茶を振りて飲む事,日本田舎の如し。」(『大島筆記』人物風俗)とみえる 。また明治前半の首里方言を収める『南島八重垣』には,「ブクブクーヂャー」として,「泡茶也。昔は盛んに行はれたるよしなれども,今は稀也。とある 。」
このことから,近世後半期にはブクブク茶が飲まれていたと考えられる。伊波普猷,東恩納寛惇によると,ブクブク茶は那覇の習俗と記すが ,『南島八重垣』の記述から首里においても広く行われていた可能性が高い。さらに,伊計島や宮城島において見送りの歌として「ぶくぶくの御茶や旅の嘉利吉なむん 立てて廻らしばにおけるブクブク茶やそれに連なる振茶の習俗は,首里・那覇にとどまらない範囲にも広まっていたことが推測される。
CiNii 論文 - 沖縄における茶文化調査の概要と今後の課題ぶくぶくーの由来は不明ですがかつては各地にあったものということでしょうか。
ブクブク茶は,第二次世界大戦後に習俗としては一度途絶えた。昭和30年代,復元に着手したのが新島正子氏である。その後,安次富順子氏とともに研究を重ね,明治,大正,昭和初期に那覇で飲まれていたブクブク茶が昭和50年代に復元された。1992(平成 4 )年には,新島・安次富両氏の関わる沖縄伝統ブクブクー茶保存会が発足している。
ブクブク茶は那覇以外で確かに飲んでいた話を聞かなかったという。首里でも飲んでいた話もあることにはあるが,首里では飲んではいなかったという話も収集され,事実は定かではないとする。伊計島,宮城島には先述の歌が残るのみであった。また,ブクブク茶は戦後もわずかに那覇の布市場で行商人(ぶくぶくたちぃやー)が売り歩き,予約制で販売されていたという。日常生活のなかでは比較的贅沢品との認識があり,野菜市場では売らず,布市場などの売買単価の高い市場で売られていたとのことである。家庭でもブクブク茶を点てて飲んでいたのは,那覇の名家と言われるところであった。
これらの聞き取り調査の内容からは,ブクブク茶は生活に余裕のある層の人々が主に飲んでいたことがうかがえる。
また,ブクブク茶を点てる道具であるブクブクー皿と茶筅も,安次富氏らにブクブク茶について助言していた新嘉喜貴美氏のもとに残っていたものから復元された。
CiNii 論文 - 沖縄における茶文化調査の概要と今後の課題最後に金城芳子さんと新島正子さんの対談から抜粋します。
芳子 伊波普猷先生のところなどが、いわゆる本当のナーファ料理であったんです。私は、あとから伊波先生の所に出入りするでしょ。ほれ、あんたがたいへん苦労して再現した“ブクブク茶”ね、あれも伊波先生のところのカーの水が一番適しているということで、毎日のように飲んでいましたよ。近所の人も伊波の水をもらいに来ていました。あんたのこの間のブクブクは完全にあのときのままでした。
新島 私は首里の生まれでしてね。ブクブク茶のことをよく知らないままに大人になってしまって、料理の仕事をやるようになってから、ああこれではいけない、今のうちに昔通りのブクブク茶を再現しなくては、ということで、手探りの状態でいろいろ試みてきたわけです。この間、一番よくご存知の芳子先生に見て頂いて、本当に安心致しました。
芳子 辻ではブクブクはやらなかったですよ、あれは、西の名門の新嘉喜の奥さんなどがやってましたね。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p127、128ぶくぶく売りでは首里生まれで安里育ちの古波蔵保好さんの証言をとりあげましたが、首里生まれの新島正子さんにも馴染みのない風習であったようですので、これは那覇人のみの風習といっていいんではないでしょうか。
まぁ作り方見ると悠長なものなので「えーきんちゅ」しかできなかっただろうなとは思います。
PR