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氷冷蔵庫

現在の冷蔵庫の前に氷の塊をいれて冷やす氷冷蔵庫というのがありましたが、昭和3年の沖縄昭和新聞には氷冷蔵庫の広告があります。
その広告は「天妃町電車通り 岩田銅工場」となっています。氷冷蔵庫(以下冷蔵庫)に関してはイラストと大中小の説明があるのみでとくに書くことはないのですがいちおう戦前那覇にも冷蔵庫の販売があったということを記録しておきたいと思います。

その冷蔵庫の姿は検索して見てもらいたいのですが(氷冷蔵庫 - Google 検索)、扉が二つあって上段に氷を入れて内側はブリキ張りになっています
銅工場なのでブリキの加工もお手の物だったのでしょうし、久米大通りは家具屋がたくさんありますのでそこに木材加工を任せたことも考えられます。

氷冷蔵庫は配達される氷を毎日入れるものだったようです。昭和の那覇には氷の製造工場がありますが庶民が毎日購入できたとは考えにくくあくまで一部の人間の物だったでしょう。
ですが氷が作れなければ冷蔵庫の存在すら無意味になってしまいますので、冷蔵庫の出現は氷の存在が普通のものになって来た証左ではないかなとも考えます。
まとまりませんがメモとして書いておきます。
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辻の家主

「沖縄の遊郭」から大正2年の辻の家主を抜粋します。抜粋にあたって場所別に並べ直してあります。

5棟所有
若狭町/安次嶺栄長、西/慶田オミト
4棟所有
東/崎浜秀主、西/新里加那、東/與那嶺カマ
3棟所有
西/島袋嘉辰、西/玉城ウシ、西/根路銘恵孝、西/国吉カマド
2棟所有
西/宮城ツル、西/大嶺朝源、西/グシ宮城マカト※、西/久場景述
西/大城貞吉、西/玉城カマト、西/島袋松、西/古波蔵恵任
東/伊差川マヅル、東/山里永昌、東/具志堅カメ、東/当間マウシ
泉崎/原国マウシ、泉崎/屋嘉マウシ、泉崎/宮城カマト、泉崎/渡名喜良樹、泉崎/大原泰蔵
若狭/山城正逹、若狭/安次嶺カマト
久米/大城カマ
豊見城村字良長/宮城ウト
大正2年12月25日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p118、119 (一部編集)


ほとんどが那覇人で西町が多いです。以前取り上げた当間マウシ(モウシ)の名も見えます。ちなみにえーきんちゅの投資先として辻の貸家業は定番でした。1棟所有者は数が多くなり地方の人間が増えます。
関連:グダグダ 当間モウシ
関連:グダグダ 当間モウシの事業
4棟所有の崎浜秀主さんはこんな感じのプロフィール。伊波普猷と同年代ですね。

崎浜秀主
1876(明治9)年〜1962(昭和37)年 教育者、銀行家。那覇生まれ。早稲田大学卒。県人初の沖縄県師範学校教諭。のち市立那覇商業学校校長。戦後は沖縄中央銀行頭取、農林漁業中央金庫理事長を歴任。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41473-storytopic-121.html


※のグシ宮城のグシは双に牛と表記。文字画像はglyphwiki.orgより。

また、沖縄県にある名字として「宮城」(ぐしみやぎ、ぐしなーぐすく)というのがあり、この「」(ぐし:=犁−利+双)はこの他に用例がなく方言字と思われる。
参考:日本語用の方言字 - Wikipedia

内地料理屋

内地料理屋に捜索が入った新聞記事です。

那覇署では一昨夜午後12時、非番巡査召集をなし、25名を6組に分ち、同刻より今朝午前5時迄娼妓屋以外の料理屋、貸座敷、飲食店の密淫売狩を決行した。島内警察部長、松原保安課長も丹署長と共に一行に加わり、先ず区内の内地料理屋を片っ端より襲撃すべしと、風月、玉月、花月、いろは、酔月、一味亭、と捜海作業を行った。(略)
それより更に泊、崇元寺辺に潜伏したる廃娼妓の密淫売を偵察したるに、雇人を無断宿泊せしめたる者一件あり。
大正3年9月14日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p726 (一部のみ抜粋)


内地の料理屋と同じように営業していたなら芸者・酌婦も存在していたはずなので、今更ながら取り締まりしてみたというところでしょうか。

バクチャヤーの住人

辻近辺の洞窟、バクチャヤー(辻)の住人の話です。

近頃、辻バクチャ屋の岩窟内に咳が聞えたり、話し声が聞えたりするので、気をつけて見ると、同所には2組の夫婦の乞食が共棲しており、昼は物貰いに夫婦がかわるがわる碗と袋をさげて街に出る。晩になるとノコノコ帰ってくる。たまには亭主がコモの上に大あぐらをかいて女房のお酌で一盃を傾け、とろんとした眼で有るか無きかの郷を望みながら歌などを唄い出すこともある。
「お隣の旦那や奥様もいらっしゃい、この頃はめっぽうに暑いじゃありませんか」などと近所づきあいで挨拶すると、「こっちも、いま、飲んでいる所です。それではご一緒にやりましょう」とたがいに呼びつ、差しつ、差されつしているところは太平楽なものである。
家の造作は、天然の石屋を2家族が古看板などで仕切り、間取りして住み、雨の降る日は、横飛沫で困ると古墓にはいりこむ。もとより、素性は双方ともわからないが、1組の方は、亭主が泊の者で60歳ぐらいの翁、妻はまだ若い、20歳くらいの女ということだけはたしかである。
他の家族は、年齢も素性も皆目わからぬ男女、月夜など夕涼みの遊客などはあると、乞食の女房が穢らしい装いで、納涼客の前を会釈して通る。たまには「みなさま、お涼みでございますか」などと愛想をいう時もあり、どこへ行くか、ときくと、ハイ、酒を買いに、ちょっと、などすましたものであある。辻遊廓の裏の海辺に墓地があるが、その一風景。
沖縄毎日 大正2年8月11日 (一部省略編集)
沖縄の遊郭 -新聞資料集成-より

バクチャヤー /bakucajaa/
那覇若狭にあった貧民窟。こじきやハンセン死病患者。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30120


説教されたりもしています。

帰りに臨んで周囲の貧窟を訪うてそこにいる連中に一場の説教を試みた。
「オイ親爺ども、お隣のカメこと、今般世の女の手本に仰がれ、巡査さんがタント住んでいらっしゃる警察よりも関心な女とほめて下さった。(親爺どもいっせいにヲーヲーと感嘆の声をもらす)、そこで今後はカメの身にわずかでも無理など仕向けるものは、それこそ警察のおとがめをこむらねばなりませぬぞ」
云々とやったら、親爺どもは、なるほどなるほどと言っていた、星村は、
「カメに向って無理などする奴は許さんぞ」
と付け加えた。”素月生”
明治44年9月16日 (省略と抜粋)
沖縄の遊郭 -新聞資料集成-より


少々見下されているニュアンスはありますが昨今のように徹底無視といった感じはありませんね。
関連:グダグダ ムヌクーヤーテーソー

ジュリとバイオリン

まず日本本土でのバイオリン。

明治になると、鈴木政吉によって日本で最初のバイオリン工場(鈴木バイオリン製造)が設立され、1900年(明治33年)には大量生産されるようになった。
ヴァイオリン - Wikipedia


「演歌」は、「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称の始まりといわれる。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。
大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。
演歌 - Wikipedia


また演歌・はやり歌でバイオリンを使う人がいました。クラシック以外にはほぼ使われなくなった現代とはすこし違います。
演歌 バイオリン - Google 検索
添田唖蝉坊 - Google 検索

沖縄ではどうだったのか。大正期の沖縄タイムスにはバイオリン教授の広告があります。

バイオリン 琴 教授
1、時刻 毎日午後8時まで
2、会場 久米電車通り 元天理教会跡
3、親泊玉声氏外2名
沖縄タイムス 大正12年11月15日


辻にもバイオリンを弾くジュリが何人かいたようです。

上の角の「松の下」のツルは、いつもほかの娼妓に先んじて奇抜なことをやる。(略)室内に約4尺4角の硝子池を設け、その透明な水中に金魚や他の川魚を浮かせて、夏向けの風情をつくり、酒を飲む客の目をたのしませ、それに得意のバイオリンで、大正ぶしに磯ぶし、その他、琉歌の流行ぶしまで弾いてサービスする。
沖縄毎日 大正3年3月5日
---
わけても気の毒なのは、粋人仲間で「バイオリン女郎」と謳われた後道はグーヤーノチビの兼久楼内、松の下のカメという若い貸座敷。
沖縄毎日 大正3年6月2日
---
当世遊女夏姿(2) 強いバイオリンかめ小
女優オト小にも劣らぬ美しいアダ名である。バイオリンを得意とする妓は多いが、特にこの美名を得たのはこの妓の幸せといわねばなるまい。
大正5年8月9日
引用すべて「沖縄の遊郭 -新聞資料集成-」


Ciniiにある「山内盛彬による戦前期の音楽活動/三島わかな」の5ページ表にバイオリンと見え、続いての6ページ目で沖縄の曲を洋楽器で弾いていたことなどが解説されています。

とりあえずここでの結論はジュリがバイオリンで流行歌などを弾いていたということと新聞広告があったということです。

安謝港の復興

戦後すぐの安謝港です。

松岡政保氏を会長に安謝港復興期成会が結成され那覇市や琉球政府に新港建設促進の陳情を繰り返す。当時、極端に物資の乏しい時期であったが大島航路が開設され、沖縄から貿易庁売り出しの洋服類、布団カバー、毛布、反物等アメリカ製品が、大島からは米や木材が主で、牛、ビール等が輸出入され、交易が盛んに行われた。安謝港が商業基地として俄然脚光を浴びる。

安里賢勇を長として仲仕組合が結成され、安謝の若者が総出で働くようになる。組合員の賃金も高く五日毎の勘定で2000円(B円)から3000円を得ていた。当時の役場職員の平均給与が4000円前後で如何に安謝区に潤いを与えたかはかりしれない。港は盛況を極め、酒場や料亭、旅館が繁盛し大島・沖縄間の旅客の往来も繁く、旅行会社も看板やサンドイッチマン等を立て宣伝に力を入れた。船の出入麹には、人、人で港をうめるほど賑わったものである。
安謝誌 p228(一部省略)

岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。

住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275
グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)


1946年に松岡政保により復興計画がたてられ、大規模に工作隊の移住が行われています。ここで考えておきたいのは那覇中心部は未解放、那覇の港である那覇・泊の両港が民間使用できなかったという事情です。
川沿いの寿屋の元工場敷地は大規模な平地であり港のそばでもあることから物資集積所に最適だったのでしょう。安謝誌の記述には「貿易庁」の名前が出てきてるので大体の時期、そして貿易品目もわかります。

「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」では大きな船から伝馬船によって物資を陸揚げする様子も書かれています。大きな船がつけられるほどの港ではなくまだ伝馬船に頼ることが多かったわけです。
上で引用した安謝誌の記述の横には、安謝港仲仕組合の前での記念撮影と伝馬船に乗った人たちの二つの写真が掲載されていて、ブロック造りのしっかりした「安謝港仲仕組合」の前に30人以上の男達が写っています。

安謝のその後で引用した記事では1万人以上がこの周辺に居住し、密貿易を含めたさまざまな物資関係の仕事に就いていたわけです。つかの間の繁栄でしたが復興に大きく寄与したことは間違いありません。

神里原での三角屋

神里原通りが衰微し始めたのは53年始め。丸金デパートが経営難で人手に渡り、52年12月、リウボウが2階を借りたが54年4月国際通りに移転した。通りの路地裏にある7軒の食堂に客はさっぱり。半年の寿命で経営者が替わってゆく。戦前、石門通りにあった三角屋はここで四苦八苦。客は新しい桜坂通りにさらわれた。
戦後の沖縄世相史 p47、48(省略と抜粋)
グダグダ 神里原通り 2


ちなみに三角屋は三越横で現在も健在です。
同じく戦前からの老舗であった井筒屋は1948(昭和23)年に開南で営業を開始しますがこちらはさっさと翌年暮には国際劇場隣(現三越向かい)に移ってしまいます(出典:沖縄・国際通り物語)。

参考:グダグダ チコンキ・蓄音機
参考:グダグダ(β) 神里原大通り(52年) 3(52年の地図に三角屋の名前がある)

この項は当初三角屋の看板が写っているこの写真を神里原ではないかと推測していましたが写真は浮島通りそばでした。検証は千歳橋周辺で行っています。

安謝のその後

密貿易時代の安謝の続きです。
安謝誌に掲載されている沖縄タイムス記事から。

安謝港は市の北部海岸にあり、近世和歌文学の白眉とされた才人、平敷屋朝敏及びその一派が奇禍により処刑されたところとして名高いが戦後は那覇、泊の使用が自由にならなかったころ、沖縄本島中心地と全琉の離島を結ぶ列島内の門戸として重要な役割を果たして来た。その人口も50年1200余名が52年には2100余名に増えた。しかし全琉各地からの無籍者が多数ここに留まって生計を営んでいたから実際人口は常に1万人近く保っていたようだ。
52年末、奄美大島の日本復帰が実現して、多くの奄美人が郷里へ引き揚げて行き、さらに泊港の築港がすすみ、離島航路の小型木造船も泊港に入出するようになったため、その後の安謝は日に日に寂れるばかり。港がはなやかに栄えていた当時は料亭、旅館の数も多く旅行者相手の商店も軒を並べ、沖縄でも最も大きな劇場に数えられた安謝劇場なども建ち、いん賑を誇っていた。
いまでは街も昔の活況がみられず、商業地域というよりはむしろ住宅地域に変貌してしまった。街の人達は昔の夢がもう一度かえってくることを望んでいるようだが、その淡い望みは港の浚渫、桟橋の改修等を要請しつづけているが今後とも泊港のサブ・ポートの役割を果たす程度で大した発展も期待は出来ないと見る向きもある。
沖縄タイムス 1956年7月24日[引用元は安謝誌 p366](一部省略)


那覇の中心部には劇場があったようにここ安謝にも劇場がありました。
新聞記事は57年ですが、すでに民間貿易も始まってしばらく経ち、神里原も寂れ始めて国際通りへシフトしている時期です。

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