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密貿易時代の安謝

住吉海岸での密貿易に関連して。
戦後民間貿易再開までは物資は密貿易に頼るしかなく行政も黙認しているわけですが、那覇港や泊港が使えない中で安謝は那覇の港として繁栄しました。
この時代の密貿易は「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」を参照して頂きたいのですが様々な規模・形態で行われていました。

戦後間もない頃、港原一帯には大宜味村の人が多く寄留(現岡野区)。義理地原には垣花方面の人が多く済んでいた(現住吉区)。その頃は那覇港や泊港が民間に開放されてなく、近辺では安謝港が唯一の貿易港となり、那覇、国頭、大島あたりから大勢の人達が集まり地域は活気づいた。
貿易が盛んになるに伴い、現安謝市営住宅辺りに「琉球中央倉庫」が建設され、多くの安謝区民も働いた。その後、米軍による県道一号線の改修工事が行われ県道は嵩上げされ、地域住民は交通に不便をきたした。
1952(昭和27)年、安里初等学校が当地に移って来た。それに伴い、県道の地下トンネルが開通し、東西間の交通は安全で便利になった。その頃の地内を見ると、学校通り(戦後できた道)のトンネルの東には食堂、飲み屋が立ち並び、校門付近には文具店や一銭マチヤグヮーが。メーミチには病院や旅館が建ち、雑貨店も五軒ほど建った。
当地には那覇、中北部、大島、宮古などからの移住者が多く、人口は年々膨れ上がっていった。
安謝誌 p230、231(省略と抜粋)

関連:グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)

那覇市は戦後離島の人達が移住しはじめ現在に至るのですが、離島の人達が移住した場所には濃淡があります。現在でも宮古姓の人達が多い場所などはある程度の年齢の人ならばいくつか思い当たるでしょう。
古い集落の範囲と新しくできた集落、そして戦後の土地解放時期などを重ね合わせて見ると了解できることは結構あります。
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