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那覇はどう変わったか(63年) 3

1963年の市民の友の座談会の冒頭部分から抜粋します。

財政豊かな区時代
職員は封建的、物は安かった
[古堅]那覇市は、5月20日に市制施行42周年を迎えることになっていますが、きょうは過去の那覇を御存じのみなさんに集まっていただき、いろいろお話をお伺いしようと思っております。どうぞ、おくつろぎになってお話しください。
[徳田]きょうは“市政の移り変わりを語る座談会”ということですが、いろいろみなさんが御存じの過去の出来ごとなどをお話してもらいたいと思います。それでは82歳になられる島袋和楽さんもおみえになられておられますので明治24年に那覇区長を島尻郡役所長が兼任していたという、その当時のもようを、島袋さんお願いします。
[島袋]私は最初小学校の代用教員をしておりましたが、山城正剛さんが助役になられた時、書記として役所に入りました。当時島尻郡役所長は斉藤用之助さんで、助役は、東町の仲本政世さんでしたが、助役になって一年足らずで亡くなりました。山城さんはその後任でした。
[徳田]当時は郡長とかみんなヤマトンチューですね。
[島袋]そうです。
[徳田]役所はどこにありましたか。
[島袋]塔のあった場所ですよ。建物は一つだったが、右側が島尻郡役所、左側が那覇の役所でした。
[儀武]われわれの頃は、首里ですよ。電話も尚家が一番で、二番は役所(笑)でした。首里は財政の面で大分困っていました。当時、家禄というものがありましてね。ウドン、トンチ(御殿・殿内)は、それが一時に半年分だとか一年分とそういうふうに入ってくる。その公債が売買出来るものだから、ジンコー山城なんかそれで儲けた(笑)という話もありました。帽子業とか、商売人はそれで倒産した者が多く、首里の衰退した原因になったんですね。
[徳田]家賃二千貫、染屋小のカミちゃん身請け(笑)といわれたのもその頃ですね。
[儀武]今でいう一括払いですよ。家禄の一括払い(笑)。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


戦前の制度をまとめます。
1879年(明治12年) 沖縄県庁を設置。以降沖縄の行政の中心に。また、それまで那覇四町と呼ばれていた西・東・若狭・泉崎へ、新たに泊・久米・久茂地を編入。
1896(明治29)年 沖縄県区制の施行により、那覇区となる。
1896(明治29)年4月1日 郡制施行に伴い、島尻方(真和志間切・小禄間切(略)17間切7島
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制施行に伴い、島尻郡に糸満町(兼城村から分立)と真和志村・小禄村(略)1町22村2島
1921年(大正10年)5月20日 特別区制を廃止し、市制を施行して那覇市となる。
1953(昭和28)年10月1日 真和志村が市制施行し、真和志市となり郡より離脱(同市は1957(昭和32)年12月17日に那覇市に編入)

http://ja.wikipedia.org/wiki/島尻郡http://ja.wikipedia.org/wiki/那覇市より抜粋。

銀行山城はそういうこともやってたんですね。
※ジンコー山城 ---> 山城高興(ギンコウヤマグシク)
話の中で一括払いが揶揄されているのは、1956(昭和31)年のプライス勧告(軍用地土地代一括払い)の記憶も新しかったからだと思われます。
63年当時の那覇市役所は天妃小学校敷地、65年に久茂地へ新庁舎が出来て移動します。戦前の那覇市役所は見世の前近くにあり塔がありました。しかし63年時点で未だ建築されていない那覇市役所は2011年現在では老朽化で取り壊しというのも時代の経過を感じますね。
そして後半。

[真栄田]区役所時代の面白い話をきいたことがありますよ。当時のつとめ人はみんなサムレーなんですね。庶民はいない。それが退庁時間になると、煙草盆をポンポンたたいている。そういう所へ用事でいこうものなら“テンヤ、ンーチヨーミ” つまりもう時間だというんですね。そうして“用事があったら家にこい”という。仕方なく家にいくと“無学のムン(者)や役所にこい”(笑)
というふうに追い返されたというんですね。
[徳田]島袋さん当時の給料は?
[島袋]私が12円、いい方でした。雇いが9円で…
[徳田]当時の米一升はいくらかおぼえておられませんか。
[島袋]よくおぼえていないが、弁当をつくるのに3銭分の牛肉を買えば十分でした。
[徳田]明治27、8年の日露戦争後に土地の整理が行われたようですが。
[島袋]首里城内に整理局があって測量は立会いでやったが、出張旅費が相当あった。後の市長当間重慎さん兄弟もやっていた。当時、那覇市の財産は裕福でした。部落の土地は市がとり、泉崎の仲島グムイとか、垣花の学校前の馬場とか、ユマチ(那覇四町)の財産はみんな那覇にひきつかれたものです。
[長嶺]私が役所入りしたのは昭和の始め頃で、1円も出せば酒がたらふくのめた時代ですよ。今の5ドル以上ですよ(笑)
[古堅]いやそれ以上でしょう。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


当間重慎(1876-1923)は初代那覇市長で当間重剛・重民兄弟の父ですから整理局のあれこれは重剛・重民兄弟のことでしょう。
最後に役所の写真。右が戦前の市役所です。左の市役所庁舎もまだ記憶に新しいんですがもう歴史になってしまいました。
那覇市役所

【追記】
対談中で出た尚家の電話番号ですが沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)での尚家で、「尚典」の電話番号が1番になっているのが確認できます(画像の左下)。
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那覇はどう変わったか(63年) 2

1963年の市民の友の座談会から抜粋します。

もたついた合併問題
面積は全国でビリだった
[徳田]小学校の鉄筋-那覇尋常や泊はいつごろ出来ましたか。
[島袋]最初に出来たのは泊でした。
[徳田]当時、洋風建築をつくれと熱心な市長がいたとか-
[古堅]昭和2、3年で、あれは小嶺[幸慶/S3~S6]市長ですか。
[島袋]小嶺市長は熱心な方でした。プールもあの人が作った。スポーツに理解のある人でした。
[徳田]那覇の近代化-水道が出来たとか、道路が改修されたとかどのように変化があったか、また区画整理は大変だったでしょうね。大門前通りとか、ヤージョー(屋門)があって…。今の久場川町問題みたいに…。
[真栄田]昭和16年頃、合併問題で調査したことがありますよ。都市は道路の占める率が30%から40%でなければならない。それが那覇の場合、たったの8%ですよ。当時の面積は5平方キロありました。面白いことには昭和15年、市は全国で204あったが、面積では首里が203番目で那覇は204番目でした。いかに市として小さかったかがわかる。人口では那覇が75位で密度は2位でした。それで当間(重剛)市長時代[S14~S17]に合併が叫ばれたのです。
[古堅]沖縄市ですね。
[儀武]首里は偉い人が反対した。
[長嶺]小禄も絶対反対(笑)。
[真栄田]15年(※昭和)ですよ。丸山芳樹さんが合併問題で来たのは。
[古堅]真和志は賛成でしたか。
[翁長]反対でした。合併できなかったのは、小禄、真和志、それにスイウエーグニという風にセクショナリズムが濃厚だったからですね。地域根性が強く、“ナーフワンチュニ、クソビラリーネーデージ”(笑)
-那覇人の下敷きにされては大変-そういう気持ちがあったんですね。それが戦後はのびのびした。
[儀武]首里は最後まで反対だった。
[長嶺]戦後合併を進めたのは私ですよ。
[儀武]首里は心配しましたよ。
[翁長]取り残されると大変だから(笑)
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


丸山芳樹は都市計画の専門家、久場川町問題は団地建設をめぐるあれこれだと思われます。
那覇は小禄・真和志・首里と合併しても小さな市であることは今も変わりがありません。

歴代市長は下記アドレス参照。
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm

まぁ、戦前の首里は首里ウェークニですし(笑)、小禄や真和志は農村地帯で文化が全く違います。

那覇はどう変わったか(63年)

市民の友1963年6月15日(第154号)に「那覇はどう変わったか」という座談会があります。
その中から一部を抜粋します。

夢のあとに歓楽街
吊るしあげられた翁長さん
[徳田]戦後、ゼロから出発して復興するまでの苦労はたいへんだったと思いますが、市政の方向といいますか、結論的に—。
[新垣]道路が拡張された。だが国際大通り、あれだけでは間に合わない。現在の、楚辺の道路を舗装して、半分はあれに回すべきだ、開南大通りをご覧なさいよ。もう国際通り以上になっている。平和橋通りから神里原の道路やバス道路をもっと大きくしてもらいたいですね。
[徳田]翁長さん、真和志の思い出といいますか…。
[翁長]今だからいいますが、一高女のあとですね。あそこに琉大をつくるつもりで、2万坪ほど確保して文教学校も、外語も。真和志、大道小学校を付属にしようと、山城篤男さんなんかに相談したが、今の琉大の位置がいいということになりましてね。
[徳田]一高女のあと、今は栄町で歓楽街になっていますが最初からそのおつもりでしたか(笑)。
[翁長]いいえ。実はその件で、ひめゆり同窓会の新嘉喜貴美さんや千原繁子さんらから吊るしあげられましてね(笑)。ひめゆり同窓生の夢の跡に歓楽街をつくるとはなにごとだ(笑)というわけなんですよ。
市民の友1963年6月15日 第154号


登場人物は以下。
徳田安周 司会、ラジオ沖縄編成部長
新垣松助 元那覇市議員
翁長助静 元真和志村長
真栄田世勲 元那覇市議員、沖縄生命社長
島袋和楽 元那覇市役所職員
儀武息睦 元首里市議員
長嶺良松 元小禄村長、三和相銀総務部長 (1908-1971)
源武雄 那覇市史編集委員会副委員長
古堅宗徳 那覇市助役
新里博一 那覇市企画部長
外間政彦 那覇市企画部庶務課長


千原さんも新嘉喜さんも怖いですね(笑)。
ちなみに63年当時は琉大は首里城の位置にありました。

参考:グダグダ(β) 千原繁子
参考:グダグダ(β) 新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美

山川カラヤー

首里山川町と与那覇堂村にあったらしい山川カラヤーの話です。
参考:松川の原名
松川の原名
[山川カラヤーは]いわゆる「首里カラヤー」として鳥小堀カラヤーと共にその一翼を担ってきた。俗に観音堂カラヤーとも言っている。
瓦は明治40年頃までは焼いた。石灰も崇元寺の前の船着き場から珊瑚礁の石灰岩を運んできて白フェーに焼いて藁を切り込んで漆喰にした。
(略)
瓦を焼かなくなったのでよそから買うことになったがそれでもムチヌヤー(ムチ=漆喰塗る者)の左官は17名はいた。現在も10名程もいて結構仕事はあるが、瓦屋根が地方にも建つようになったせいかここから分散していってしまった。(後略)
那覇市史資料編第二巻中の7、p342


やはり瓦焼きと漆喰はワンセットのようです。安里川の水運も今となってはなかなか想像しにくいのですが往時は伝馬船が薪や珊瑚を運んでいたのでしょうか。
文中の「現在も10名程もいて結構仕事はあるが」というのはこの巻が発行された昭和54年より前の話になります。

1955(昭和30)年の割当土地

那覇市の市民の友に割当土地についての議会でのやりとりが掲載されていました。
当時の様子の参考になるかと思いますので抜粋します。

[上原永盛議員質問]
那覇市全体の割当土地の区域又借地人の戸数、地主の戸数を答弁願いたい。(略)
---
[税務課長回答]
那覇の割当土地91818坪、首里15461坪、小禄5620坪、計212899坪以上割当土地。
地主の戸数は那覇2230、首里3500、小禄600、計6330戸。
借地人の場合那覇2600、首里3770、小禄781、計7151であり、これは55年4月22日現在の状態である。
市民の友 1955年7月25日 第49号(抜粋と編集)


市民の友の第50号(55年8月)には人口も掲載されています。

那覇市総計/111984人/男53733/女58251/戸数23322
本庁管内/73389/35272/38177/15074
首里支所/23806/11408/12398/5400
小禄支所/14789/7053/7736/2858
市民の友 1955年8月10日 第50号(抜粋と編集)

ビンゴハウス

1952(昭和27)年の那覇市広報の市民の友から抜粋します。ガリ版刷りのため不明文字が多いですがご容赦。

名物風景
那覇市新商売往来 異色戦後版
“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”ほとんど怒号にひとしい怒鳴り声が街路に溢れてバクハツする。これが戦後派び王座に君臨するビンゴハウスだ。ご繁盛の程度からいって不思議にこのビンゴが断然戦後新商売のトップを切るのだから凡そ愉快である。
ところで戦前は余りまだ目立たなかったものが、戦後特に異常な進出ぶりを見せている新商売は何か。那覇市の税務課では弁護士、司法書士、特別法人を二種として、他は凡て第一種に区分し、営業税を賦課しているのでハッキリ色分けすることは難しいが、同じ喧噪の度合いから見ても、次位はさしづめ街頭の卸売叩き売りの気勢の賑やかさに来よう。
電気化学に物をいわせて、那覇宣伝●●協会もまた戦後派新商売の一ツではある。ビンゴに負けをとらない繁盛ぶりを見せて近頃めきめき活気を帯びてきたのがロータリー、ルーレトと呼ばれる遊戯で、これまた日毎にファンを獲得しているのだから侮り難い勢力。
●じマイクの闘いでは遊園地●新世界●も一異色で那覇市内は八劇場に劣らない強豪であり、これらの逆コースを●って音無く、黙って儲る新商売が麻雀、囲碁、将棋、撞球の各クラブに珠算教授。
尤も鼻持ちならないと云って置きながら、案外手固い基盤に据って運営されているのが何々衛生●、実際的にはこの衛生●群が再建那覇市美化運動の縁の下の力持ちかも知らない。
●日中から人垣つくって何のご繁盛ぞと頭越しの●●風景は●●●さんだが、●●、心中、懐中ともに無一文と見えて実質は立見の数の約一割というところ。
※●は不明文字
市民の友 第1号 1952(昭和27)年1月28日発行(抜粋と編集)


戦後の繁華街でビンゴ屋というのがあるのですがどういう物であったのかは自分はわかりません。いわゆるパーティー等でのビンゴゲームと同じなのでしょうか?

後半に出てくる「衛生●」となっている箇所もよくわからず、●に入る不明文字は「舎」か「会」だと思うのですが入れてみてもよくわかりません。汲み取り?

鉄屑漁り

琉球新報八十年史という本の中に新聞記事の抜粋があります。そこから大正7年の新聞記事を引用します。

生活苦の反映 内兼久山の屑鉄拾ひ
此頃の物価は天井知らずの暴騰、本県などでは戦前に比して肉類が10割、米が7、8割騰貴して居る有様それに芋も不作で食料欠乏かてて加えて帽子が不景気といふので中流以下の生活の惨めさ、泣顔に蜂といふのは全く此の事をいふのであらう。それでどこの利口者が考へ出したのか此頃屑や鉄葉屑や破鍋の破片とかを拾って金に替へて居るのがある。この穴勝今に始ったことでもなく1ヶ年ほど前から、1、2人はあったそうだが此頃の様に殖えたことはないそうだ。区内で鉄屑のある所は内兼久山やバクチャ屋の塵芥場、久茂地川等であるが内兼久山の如きは昨日から一昨日にかけて7、8歳の子供から5、60の老婆さんもザルやカゴを手にして盛に地中の鉄屑を掘出し、中には25、6の働き盛りの青年も鍬を手にして諸肌抜で芋でも掘るように働いている。又中には17、8の白粉をベテベタつけた帽子女工等もカゴを手にして来てゐる。「いやこれは俺のだ」「いや此所は俺の領分だ」等とぶっ奪り、引っ奪合で全で喧嘩腰、此所にも現代社会の反映が映し出されて居る。この拾った屑は区内東町の是枝商店や伊良波商店やその他3、4ヶ所買い手があって1斤1銭から4銭くらいまでで買い取るとのことで一昨日の如きは内兼久山辺の者で一家5人総出で拾ひ1日7円余の鉄屑を売ったそうだ。7、8歳の小娘でも1日に3、40銭の屑は拾ふとのことである。気の早い者になると久茂地川の泥の中を漁って居るものもあるそうだ。然してこの買ひ受けた鉄屑はどうするのかといふと大阪に移出して彼地の鉄工場で溶解させて鍋なり釜なりその他器具類を鋳造するそうだ。この鉄屑利用は先には八幡や枝光鉄工所の様な大規模な工場でなくては製作し得なかったものがこの頃になって個人経営の小会社でも製作し得るようになったので俄に需要が増したとのことで科学が進歩する世の中に不自由なものといふのは無くなるであらう。
琉球新報 大正7年3月9日
琉球新報八十年史 p177


久米の内兼久山になんでそんなに鉄屑があったのか不思議な気がします。その他にあげられているバクチャ屋のゴミ捨て場や久茂地川はゴミの中に鉄屑があったのでしょう。
しかし食料品の倍近い値上がりはキツいですね。

那覇市内の多額納税者(S25)

那覇市内の多額納税者
51年度事業所得税はすでに各税務署で完了、第一期内納税告知書を各市町村を通じて配布中であるが、那覇市内における高額納税者は次の16氏。沖縄における商工業の中心都市だけあって劇場、土建、マーケット、商業、料亭と、戦後5年にして、逸早くも頭角を現した(単位円)。
(1)324000/高良一/劇場
(2)183500/真栄田義郎/劇場
(3)174000/金城真行/土建
(4)171500/仲井眞元楷/劇場
(5)152000/仲村忠信/商業
(6)138000/山城思太郎/土建
(7)132250/国場真一/商業
(8)118250/山田義認/劇場
(9)106500/比嘉賀信/商業
(10)74000/呉屋良行/商業
(11)69000/城間恒篤/商業
(12)61250/松本思明/料亭
(13)56200/大城鎌吉/製瓦
(14)51250/仲本昌達
(15)50250/久松キク/食堂
(15)50250/砂川恵姿/食堂
※1950(昭和25)年7月26日付記事
琉球新報八十年史 p211(抜粋と編集)


新報の本に掲載されている記事から引用しました。
松本思明さんは戦前からの料亭(花咲)の経営者、砂川恵姿(砂川惠姿)さんは大黒屋の経営者です。劇場はまだまだ儲ってますね。

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