復興の為の第一陣は壺屋・牧志でした。
先遣隊の那覇入りから5日後の[1945年]11月15日。今度は瓦製造と住宅を建てる目的で「製瓦業設営隊」が組織されて、総勢136人が那覇に入った。
設営隊の隊長は大城鎌吉だった。大城は1897(明治30)年、大宜味村謝名城産まれ。23歳の時に「大城組」を興し、住宅建築と瓦製造で成功した。
疎開先の故郷大宜味で終戦を迎えた大城に対して、米軍の方から瓦製造の依頼があった。設営隊が那覇入りする5日前、大城は那覇にやって来た。大城組の瓦工場は、現在の沖縄三越、那覇タワー付近にあった。
沖縄・国際通り物語 p10、11(省略と抜粋)大城鎌吉さんは戦前から牧志で瓦を造るのですが、牧志はこういう風に説明される場所であったようです。
牧志は現在もそうだが、国際通りから十貫瀬に抜ける道は急勾配になっている。当時は、傾斜地を利用した登り窯が数カ所にあり、瓦屋れんが造りが盛んだった。壺屋の日常雑記の窯業に対して、牧志は瓦専門の窯業であった。現在の沖縄三越の場所に土地を買った大城も、そこで瓦工場を始めた。
沖縄・国際通り物語 p18、20(省略と抜粋)この「急傾斜で登り窯のある道」はグランドオリオンから十貫瀬に抜ける道のことでしょう。那覇民俗地図では牧志には瓦焼釜の記号がいくつかあり、「戦前の牧志町民俗地図」ではレンガ製造場、カワラ製造場、レンガ・瓦焼釜が部落内にいくつかあります。
最初の写真は少なくとも10・10空襲以降の撮影で、ガーブ川沿いの建築物からすると1945年末の那覇入り以降の可能性もあります。
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