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郷友会と職種

長期出稼ぎの形で離村して来たひとたちの多くは、先発者を頼っていくので自然にその職種も同じ傾向がみられる。つまり、各郷友会には、その会員の職種に特徴が見られるのである。
それはまず大宜味一心会でいえば、戦前から大工職という定評があった。それは現在では大宜味出身の建設業関係者が多く、大宜味出身の建設業協会を結成してお互いの発展につながっている。その特徴を一部列記してゆく。
粟国郷友会-はつり・コック
西辺郷友会-警察官
竹富郷友会-警察官
沖縄市在本部郷友会の伊野波-雑貨商
(*沖縄市在本部郷友会の)健堅-衣料品(沖縄市一番街、銀天街中心)
(*沖縄市在本部郷友会の)辺名地-金物関係
伊良部の佐和田-衣料品(那覇市平和通り)
奥郷友会-建設業関係
下地・上野郷友会-ホテル業
城辺町新城郷友会-ホテル業
砂川学区 友利-タイル業
黒島郷友会-建設業・家具販売関係
久松郷友会-衣料品(那覇市平和通り、エビス通り、市場通り)
などが際立った特徴としてあげられる。
しかし、それは出稼ぎ移住当初にそのような同種の職業が多かったということであり、会員数の増加とともに職種も多種多様化してゆき、統計的にみてゆくとその特徴とされていた職種の実際の数字は相対的に減少している。
※(*--)のカッコ内は自分が追加したものです
郷友会社会-都市の中のムラ-/石原昌家 (抜粋と編集)


2世、3世ともなると郷友会などとも疎遠になりがちなようです。
宮古出身者のホテル業や平和通り周辺の商業も書かれていますね。このへんは昔の人間だったらあたりまえのように知っていたことですが書籍でまとめられているとは思いませんでした。
あとは警官や教員などが多い島もありますし、ある地域の水商売で特定地方出身者が集まってるとこもありました。

あまりおおっぴらにはなりませんが宗教での団結もありますね。
おばさんたちはユタや宗教にけっこう馴染みやすいのです...
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旧那覇の機能

入江の両側に長大な石積みの防波堤が懐中に突き出しているが、これらは水路の両側に広がる珊瑚礁の浅瀬を縁取る恰好になっており、延長500mを超える北堤の途中に「沖之寺(臨海寺)」「中三重城」、終端には「三重城」が築かれていて、入港船舶を監視する望楼の役割を兼ねていた。また南堤の終端は「屋良座森城」であった。この入江に侵入してきた冊封使の船は渓流スペースの「唐船小堀」に寄せられ、「通堂」という埠頭から上陸し、「迎恩亭」で休憩した。さらに陸地を進めば「市場」、那覇の行政を司る「親見世」、特産輸出品の管理にあたる「砂糖座」、宿泊滞在施設の「天使館」が並んでいて、近代的な国際貿易港にも通じる空間構成を持っていた。天使館の背後には、海上安全を司る中国媽祖信仰である「上天妃宮」「下天妃宮」が排され、「孔廟」も置かれるなど、首位は中国的な空気に満たされていた。つまり、久茂地川によって出島的に孤立した空間は、琉球と中国が入り交じった、政治的文化的緩衝地帯として作用していたとするのである。しかし、これらの歴史的景観や雰囲気は、もはや存在しない。
CiNii 論文 - 琉球唐栄久米村の景観とその構造


那覇は歴史的変遷を重ねて来ながらも基本的な構造は戦災までは変わっていなかったのですが、戦後の都市計画によって徹底的に変わってしまいました。現在はわずかに残る史跡とあまりかわらない久米大通りがあるくらいでしょうか。
天妃小学校にある上天妃宮跡が昔のままですね。

媽祖(まそ)は航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。
媽祖 - Wikipedia


沖縄での道教はどんなもんであったのか自分はいまいちわかっていません。中国文化が漠然と移入されたのか、それなりに根を持ったのか、間接的に影響されていたのかなど考えてみますがよくわかりません。><
久茂地の安物絵描きたちは関帝の掛け軸などを書いていたようですが。
あと仏教施設は多いです。

上記引用に出てきた当時の施設などは下記リンクなどで確認して下さい。
参考:グダグダ 明治初年の久米大通り
参考:グダグダ 那覇及び久米村図
参考:グダグダ 唐栄久米村と天妃宮

奄美出身者と郷友会

1980(昭和55)年発行の「郷友会/琉球新報社編」から抜粋します。これは1979(昭和54)年から一年間の新聞連載をまとめたもののようです。
下記抜粋は奄美の瀬戸内町関係から抜粋しました。このブログの範囲である<旧那覇・真和志>とは直接の関連はありませんが、那覇市内では奄美出身者が戦後すぐから商売していますので戦後の歴史をたぐる一環として読んでもらえれば。

瀬戸内町は奄美本島南部に位置する人口約15200人の町。山や海に囲まれた景観の美しい町で、人口は名瀬市(約46800人)についで多い。沖縄本島在住の瀬戸内会は、同町出身者役3000人で組織されている。結成されたのは15年ほど前の昭和39年。琉球政府初代主席、立法院初代議長などを歴任した故泉有平氏らの尽力で誕生した。
「会員の大部分が本籍を沖縄に移し、骨を埋める覚悟で一貫して経済界など各分野でがんばってきた」
会長によると、主戦後に出稼ぎで沖縄にやってきた会員が多いが、なかには中途でくじけたり、家庭の事情で郷里に帰った者も少なくなく、現在残っている会員は“沖縄県人”だけという。
(p307、308)
在沖奄美出身者の郷友会組織のうち、もっとも大きいのが瀬戸内会。現在の会員数は700世帯、約3000人というから、かなりのもの。例えば、名瀬市における奄美群島内の各郷友会と比べても、この数は飛び抜けている。これが奄美分離期間中の出身者となると、現在の比ではなかった。「おそらく、今の10倍はいたでしょう」とは瀬戸内会事務局長の折平男氏の弁。昭和28年12月25日、奄美が復帰すると、出身者の大半がごっそりと引き揚げていった。現会員のほとんどは当時からの残留組である。
(p310)
郷友会/琉球新報社編 (省略と抜粋)


奄美出身者は本島を中心に住んでいるとのことでほぼ沖縄本島で700世帯・3000人なのでしょう。戦後は奄美から先に復帰したせいで沖縄県内では「外人」のような立場になってしまった事情があります(引用中の昭和28年)。
復帰前の沖縄での外国籍のあつかいはそのうち取り上げます。

沖縄人の自分からすれば見慣れない奄美の姓(川畑、鎮西など)は一般的な内地姓と区別がつきません(知識不足でもあるのですが)。一字姓だとなんとなく奄美の人かなと思うのですが。

戦前の女店員

デパートの女店員に戦前の様に魅力がなくなったのは、どういうことでしょう。山形屋なんかはお嫁入り候補の最上の登竜門でした。緑色の事務服を着て、売り場に立つ姿は、那覇のモダンボーイのあこがれの的でした。
ネクタイ売り場にいた娘を見染めたある県庁員が、なけなしの月給袋から無理してネクタイを買いに来てはそッとため息をついては変える姿を、わたしは一再ならず目撃しました。
山形屋に右へならいして、マーケットでも、明視堂でも、円山号でも、この事務服スタイルの女店員が、モンペに変わるまで、ハバをきかせました。ことにレコード売り場にいたお姉さん店員なんか、優雅この上もなく、思春期の中学生のわたしたちをうっとりとさせたものです。
巡査はサーベルをつり、機関夫はアゴヒモを締め、市電の車掌は霜降りの制服を端然と着こなしていました。また自動車の運転手は雨靴をはき、女学生はセーラー服、中学生は白い海軍ゲートルとそれぞれ制服のきびしい世界がありました。制服の好きな日本帝国主義の影響だったかもしれません。
沖縄・千夜一夜/徳田安周 p32、33


戦前の新聞を見ていると広告が結構目立つのですが、広告にはコートやらシャツやら靴やらが載っていて、意外ととハイカラだったんだなと思わされます。もっとも全員がそれらを手に出来たわけではないはずですが政治・商業の中心地である那覇ではそれらの姿も珍しくはなかったはず。

船越義彰さんがデパート店員にドキドキしていたという思い出を書いていたのを読んだ覚えがあります。義彰さんの話はたしか円山号だったと思うのですが、引用文を参考にすると円山号だけではなくマーケット(たぶんマルメマーケット)や明視堂などの中心部の店舗も制服姿の売り子がいて華やかだったんでしょう。

那覇長者番付(S12) 6

昭和12年の長者番付記事続きです。
表は 「所得/資産/(職業)名前」 になっています。続き物ですので注意。

若狭町
12205/148724/(酒造業)新里康信
62402/598406/(酒造業)新里康昌

松山町
1073●/82786/(自動車業)新垣義堅
10361/63476/(酒造業)新里康毅
7458/74861/(貸家)国吉善積

高橋町
22270/102076/(酒造)石川逢篤

垣花町
4258/50092/(貸家)宮里松

※●は不明文字
沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日(編集)


酒造は強いです。
関連:グダグダ 新里康信 2
関連:グダグダ 新里康昌
関連:グダグダ 新里康毅

松山町の「新垣義堅」はあらかきバスの主です。
若狭町の「岸本」の名前が見えませんね。あと垣花には当間重民の当間酒造があったはずですが昭和12年時点ではまだそれほどの売り上げにはなってなかったのでしょうか。

那覇長者番付(S12) 5

昭和12年の長者番付記事続きです。
表は 「所得/資産/(職業)名前」 になっています。続き物ですので注意。

久茂地町
11828/119648/(貸家)喜久山●仁
10104/88005/(酒造)大城昌貞

久米町
18084/138376/(貸家)糸嶺マカト
8●01/90413/(貸家)し堅原良起[ママ]
5941/61789/(貸金)上間マウシ

天妃町
7384/102420/(雑貨商)●出好平
32482/3●7693/(呉服商)平尾喜三郎
15957/160095/(無尽業)大城兼義
6157/88807/(貸家)上岡作太郎

※●は不明文字
沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日(編集)


久米町の「し堅原良起」は志堅原?

那覇長者番付(S12) 4

昭和12年の長者番付記事続きです。
表は 「所得/資産/(職業)名前」 になっています。続き物ですので注意。

上泉町
2894/84822/(酒造)神元繁宜
4741/61806/(貸家)渡名喜良夫

下泉町
1605/62417/(材木店)仲 孝とく[ママ]
8911/71150/(貸家)原國政栄
13●75/145281/(貸家)川畑黙し[ママ]
5280/55173/(貸家)金城順忠
4004/5●●58/(貸家)福地フヂ
5181/58790/(酒造)城間安起

旭町
16603/99643/(砂糖商)屋宜●忠
※●は不明文字
沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日(編集)


寄留商人の中心地からはずれると沖縄人がぐっと増えます。
下泉は旧家が多かったので原国さんなどの金持ちの那覇人の収入源である貸家業が目立ちます。「(材木店)仲 孝とく」は美栄橋にあった中材木店でしょうか。「(貸家)川畑黙し」は鋳物業ののち那覇市会議員になった鹿児島出身寄留商人の川畑黙志でしょうね。
参考:グダグダ 川畑黙志

那覇長者番付(S12) 3

昭和12年の長者番付記事です。
表は 「所得/資産/(職業)名前」 になっています。続き物ですので注意。

上蔵町
5382/55539/(呉服商)中西惣吉
13971/169146/(貸金)山●盛常
1775/53470/(商船支店●)久留島貞次
8428/70195/(貸家)安元詠●

東町
3556/61896/(印刷業)南 嘉次郎
2918●/318886/(金物屋)並川亀次郎
11686/50044/(文具商)青山壮吉
60987/766353/(貸金)山城高興
10103/78706/(茶商)儀間正忠
9368/76650/(百貨店)尾花仲次

通堂町
29361/227490/(米商)喜屋武元持
6244/57301/(物品販売)石川太郎

※●は不明文字
沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日(編集)


上泉町の「山●盛常」は山田のように見えますが不鮮明なためわかりません。
ここでも寄留商人と沖縄人は半々ってとこですね。

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