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寄宮の区画整理計画

長田原からの陳情で1962年の市民の友に掲載された陳情を取り上げたのですがその後の進展が伺える記事があったので取り上げてみたいと思います。
1964年4月の市民の友には寄宮地区の区画整理計画が掲載されています。

寄宮の区画整理始まる
4月17日起工式開く 四万三千坪の宅地造成
市建設部は、1964年から67年度までの四ヶ年計画で、市内寄宮地区の土地区画整理事業を実施することにしているが、4月17日区画整理地域内の広場で、起工式を開き、本格的に事業をはじめた。
寄宮地区の区画整理は、およそ四万四千坪で、事業費総額265000ドル。政府と市が20万ドルを負担、賛費地処分益65000ドルで1967年までの四ヶ年間に、寄宮地区を住宅地に造成し、こどもの遊び場や道路、排水など、公共施設を整備する。
市区画整理課はすでに寄宮中学校近く(ガーブ川上流)の排水路工事を12000ドルで市内大嶺組の請負により着工し、65年8月から区画整理をはじめることとし、地主との調整を急いでいる。
なお四ヶ年計画のあらましはつぎのとおり。
▽1964年度/整理前後の土地の評価決定、換地総合計画、排水路工事の実施完了、建物移転
▽1965年度/換地の各筆割込実施終了、換地予定地の指定、仮決算金の聴衆交付準備、宅地造成、道路・排水路工事の実施、支障物件の移転実施(106000ドル)。
▽1966年度/賛費値処分の実施(27000ドル)、区画整理陶器の代位登記甲請実施、、宅地造成、道路排水路工事の実施、支障物件の移転実施(57000ドル)
▽1967年度/換地処分認可甲請、確定測量実施完了、請算金の決定、徴収・交付実施、区画整理登記の実施、賛費処分地へ(37000ドル)、残工事の実施完了、事業完了報告
市民の友 1964年4月15日 第164号(抜粋と編集)


>市区画整理課はすでに寄宮中学校近く(ガーブ川上流)の排水路工事を12000ドルで市内大嶺組の請負により着工し、

1964年にはすでに工事は始まっているようです。
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大和だび(日本式葬式)

他府県人の葬式は、1882(明治15)年ごろ古賀辰四郎の先妻(善次氏母)が死亡した際日本式葬式(大和だび)が行われた。
当時他府県人の墓地は若狭町(西武門前山城産婦人科医院裏側)洪済寺境内に定められ、1885(明治18)年真和志村楚辺原の丘に寄留人の墓地として新たに制定されるまで、この若狭町の直堀り墓地に埋葬されたが、楚辺原(県立二中、現那覇高校の北側丘)に墓地が移され、俗に大和人墓と呼ばれた。
明治の終わりごろ、那覇の東町に葬儀会社が操業し、造花の蓮花や造花の花輪が葬列に並ぶようになり、他府県人の葬列は華やかであり「大和だび(日本式葬式)」といった。
那覇市史 通史編2 p236


若狭の山城医院は西武門のところです。

那覇・真和志民俗地図のどちらにも二中後方に大和人墓(地)はあります。
この大和墓は戦争中の写真が残っています。

城岳攻撃(35高地) (那覇市松尾2丁目)
http://www.okinawa-senjoh.com/hill35.htm


大和荼毘の話に戻ると那覇市史には沖縄県人の変化にも触れられています。日本葬式に変わっていったというのは念仏者(ニンブチャー)が消えていったということでしょうね。

葬儀社が那覇で店開きをしてからは沖縄県人の過程でも駐留以上は身分相応に葬儀会社に依頼して和沖折衷の葬儀をおこなうようになり、大正の初期からは殆ど葬儀会社に依頼した。
---
大正中期までは先頭に芭蕉布の四流旗一対像かの蓮花一対、その後に僧侶、白木位牌を捧侍する喪主、親戚の男、一般会葬者、男の列のつぎに天蓋(龍頭)旗持ち、龕(棺を乗せる輿)を四人の人夫が担ぐ。旧藩時代は村の平民の若者が担いだが、大正以降は葬儀会社から人夫が派遣された。
---
大正初期から、首里・那覇に葬儀会社が増えたので次第に日本葬式に変わっていった。
那覇市史 通史編2 p236(省略と抜粋)


参考:グダグダ(β) 大和葬儀社(内地式葬儀)
参考:グダグダ(β) 葬儀社

栄町内公衆便所

1961(昭和36)年の市民の友に栄町内に公衆便所建造の記事がありました。
以前からあった木造の建物を取り壊しているので全くの新設ではなかったことがわかります。

栄町に 
十五番目の公衆便所
このたび、市内栄町市場の中に新しくスマートな公衆便所がお目見えしました。
栄町市場は、付近住民が数多く利用するところで、人の出入りもはげしく、公衆便所の設置は以前から強く要望されていた。
市当局としては、従来使用されていた、古い木造の便所を解体、このほど新しく、ブロック建て、5坪の建物を1,390ドルの工費でたてたわけですが、これも、市場の人たちの努力があったからこそといえます。
現在那覇市内には、14棟の公衆便所が会って、多くの市民が利用しておりますが、こんどできた栄町のは15番目ということになります。
(略)
公衆便所の設置場所はつぎのとおり、
波之上、西武門、若松市場、泊北岸、美栄橋町、御成橋際、子供博物館入口、牧志ウガン入口、公設市場二カ所、安里交番前市内停留所、鳥堀停留所、小禄市場裏、栄町市場内。
市民の友 1961年8月1日 第133号(抜粋)

公設市場建設の経緯

小松かおりさんの「沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌」という本に戦後の第一と第二の二つの公設市場をめぐる経緯がまとまっていたので引用してみたいと思います。

戦前の東町市場は1944(昭和19)年の大空襲であとかたもなくなってしまう。戦後、那覇を基地に使用しようとした米軍に対して、焼け残った壷屋の陶業関係者が、陶業の再建のためという理由で那覇への那覇への入域を認めさせたのは有名な話である。その後、壷屋の関係者をかたってなし崩し的に入域者が増え、陳情によって正式に開南、楚辺に住むものも現れた。1947(昭和22)年には開南から松尾にかけて、およそ50名の露天商による闇市が形成された。ここはウィーヌマチグヮー(上の市場)と呼ばれ、米軍からの配給物資や本土や香港、台湾からの密貿易品が並んだという。禁制品の闇市を放置するわけにいかず、島産品を扱うことを条件に、1948(昭和23)年にガーブ川沿いの現在の那覇市松尾2丁目に公設市場として移転したのが、牧志公設市場である。この頃は、奄美、沖縄、宮古、八重山にそれぞれ政府があり、自由貿易は禁止されていたので、牧志公設市場は沖縄本島の産品を中心に扱うことになった。しかし、密輸品を扱う闇市としての正確は、遅くまで残ったようである。公設市場とはいえ、最初は、店舗も業者任せで各々がバラックを建てていた。湿地帯のため。雨が続くとガーブ川が氾濫して、毎年のように周囲一帯が泥だらけになったという。
1950(昭和25)年には食料品市場、1951(昭和26)年には雑貨市場と衣料市場の建物も完成した。食料品市場は、約1300平方メートルのセメント瓦葺きの平屋の建物であった。1964(昭和39)年に衛生状態の悪化などから市の改築案が出されたがうまくゆかず、以降、1972(昭和47)年に改築が成るまで10年近くにわたって牧志市場の改築問題が続く。
沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 小松かおり p21、22(省略と抜粋)


壺屋への入域については自分はこの話を知りません。
開南から中央劇場の一帯のウィーヌマチグヮー、新天地市場の経緯については過去に触れました。

最初の案では、旧市場の跡地に市場を再建する計画だったのだが、市場敷地の90%以上を所有する地主が土地の返還を求めて反対。また食料品売り場を地下にする案に、業者も反対した。
1966年に、当時の西銘[順治]市長が別の場所に市場を移築して完成の一ヶ月後には敷地を明け渡す、との覚え書きを地主と交わして新市場建設[※第二]にふみきった。地主は覚え書きを根拠に土地の返却を求め続けこれが市場問題の中心的な課題となる。1967(昭和42)年には、市場の西側に購入した土地代を含め120万ドルの予算で新市場[※第二]が着工した。[※69年完成]

この頃保守の西銘市長から、市場の強制着工に反対して当選した革新の平良[良松]市長に変わったことが事態をややこしくした。
移転の反対業者は、公約の実行を求めて、土地の明け渡しの覚え書きを破棄するように市長に迫り、
平良市長は巨額の予算をつぎこんだ新市場の処遇をめぐって攻撃する野党と、
[西銘]前市長の覚え書きをたてに跡地の明け渡しを迫る地主、
公約の実行を迫る業者の間で右往左往した。

その後保守が惨敗した市議選などを挟んで、新市場は旧市場[※第一]と競合しない業種で開設することになった。これが第二牧志公設市場である。
第二牧志公設市場は、新たに移転を希望した水上店舗の花屋通り会や、旧市場から移転に同意した業者が半分を占め(略)客足が伸びなかった。この市場は不採算のまま業者が減り続け、2001年にとうとう閉鎖された。

新市場の開設で市と議会が一致した直後、旧市場が不審火で焼失し、半数の業者が焼けだされる事件があった。その直後に地主が土地への新たな建設を禁止する仮処分を申し立て、土地問題がこじれる中で開南へ急造された仮店舗への移転を拒む業者が現れ、また市と契約を結んでいる名義人と、実際に商売している業者のずれから、仮店舗のコマ数が足りないという事態が起こる。市場の管理を実質上業者に任せていたので市も市場利用の実態を把握しきれずにいたのである。
1970(昭和45)年12月には、土地の賃借や譲渡に応じない地主に市が土地収用を決めて改築工事が始まったが、裁判所が土地の帰属が決定していないとして建築を止める事態となり、それが解決すると、建築予定地の柱を立てる場所に立ち退きを拒否する業者が数ヶ月にわたって占拠する問題が起こり、議会は工事の手続きをめぐって粉糾した。
このような問題を経て、地主との土地譲渡交渉が決着し、1972(昭和47)年の9月に第一牧志公設市場がオープンしたのである。現在の第一牧志公設市場は、1972年建築の建物と設備で現在まで営業している。
沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 小松かおり p23、24(省略と抜粋/注約)


戦後那覇の都市形成は失敗と成功の両面があり、失敗面はもちろんなし崩しに出来た市場に都市計画が引きずられてしまったことです。
生活を守るという業者の言い分に引きずられて行政が追認を与え、結果的に第二牧志公設市場の不振や道路計画が実行不可能になっていることを忘れてはいけません。

下水道

1965年9月10日の市民の友(第182号)には「下水道いよいよ着工」という記事があります。
下図はそこにあった敷設計画の図を模写したものです。

 

沖縄県土木建築部下水道課のページには年表がありました。そこから工事開始時前後を抜粋します。

昭和38(1963)年 那覇市が「那覇市下水道事業基本計画」を策定する。
昭和39(1964)年12月 米国民政府によって「沖縄中南部統合下水道計画」策定される。
昭和40(1965)年 6月 琉球政府は「沖縄中南部統合下水道計画」により事業推進を決める
昭和40(1965)年 7月 那覇市が米国民政府の援助金を受けて若狭町と辻町で下水道工事を始める。
昭和41(1966)年 6月 那覇市都市計画下水道計画が、都市計画法により事業認可される。
昭和41(1966)年 7月 米国民政府が統合下水道の那覇下水処理場の建設工事に着手する。
下水道関係年表(抜粋と編集)

http://www.pref.okinawa.jp/gesuidou/gesuidoukankeinenpyou.files/gesuidoukankeinenpyou.htm


【追記】国土交通省のページで水についての調査図が閲覧できます(「沖縄本島(中南部)」の「利水現況図」)。
最初にあげた図とくらべるとわかりやすいんではないでしょうか。

http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/water/w_national_map_pref.html

公衆便所の設置

市民の友第103号(1959年)には公衆便所の設置希望に対しての回答が載っています。その回答から抜粋します。

現在、那覇市の公衆便所は泊港北岸入り口、若松通り市場、西武門交番隣り、波之上護国神社裏、美栄橋市民会館側、子供博物館前、牧志うがん入口、那覇公設市場内、首里鳥堀バス停留所前、一区野菜市場内、小禄高良市場側に各々一ヶ所ずつ設けてあり、59年度中に御成橋側と与儀派出所付近に設置すべく都計課と設置場所を検討中であります。
60年度予算では那覇港付近ペリー入口、久茂地、前島町1丁目にそれぞれ増設する計画であり(後略)
市民の友 1959年5月10日 第103号(抜粋と編集)


今も残っているところもあれば消えてしまったところもありますね。今思い出せるところはこの二つ。
与儀派出所は公園側以前はどこにあったのか思い出せない...
与儀派出所付近 - http://g.co/maps/zajw
西武門交番隣り - http://g.co/maps/xbnf

御成橋側は憶えていますが再開発の道路拡張時に消えてしまいました。前島1丁目は仲良橋を牧志から渡った右手(通称三角公園)にあったかな?
栄町の中は公衆便所だったかな... きっと他にもあるでしょうね。

【追記】御成橋の写真に写っていました。
那覇まちのたね通信 | 御成橋
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3408

那覇はどう変わったか(63年) 5

1963年の市民の友の座談会の最後の部分から抜粋します。
連続して取り上げて来たんですが、一般的な話に終始しているので取り上げなかった部分もあります。

復興の基礎は都計
埋立で頑張った重民さん
[真栄田]都市計画の裏付けをやったのは当間重民さんですよね。
[一同]そう。
[真栄田]辻原の墓地整理や泊の埋立てを思い切ってやった。それが那覇市の発展を約束したようなものでした。シーツ長官の時でしたが、当時の軍政府に交渉して政府は埋立地をとろうとした。それで重民さんは社大党から脱党して頑張った。
[新垣]当時は、みんな社大党で、市職員も殆どそうでした。
[真栄田]埋立地や港湾も政府がとりあげるということだったがやがて市に譲渡するということになり、みんな万歳を叫んだが重民さんは涙で声も出ないほどでした。
[新垣]那覇市の復興は重民、康和、重剛の三代で基礎ができたようなものだ。
[長嶺]小禄は戦後、高良に閉じ込められていた。多くの土地が軍用地にとられましたね。
保存したかった首里城
[儀武]首里は地域的にも遊園地が適当だと考えて、観音堂付近の岩を割るのをやめさせたことありましたよね。
[徳田]首里城がなくなったのはなんとしても痛恨ごとですね。
[儀武]首里城の保存ということでほんとに惜しい。末吉は風景がいいので遊園地にしようと思ったんですが…。 今のうちなんとかしたいもんですね。
[古堅]地主がはっきりしませんね。
[儀武]那覇市は沖縄の首都として、今後の問題は市庁舎の建築ですね。
[古堅]来る議会に提案します。
[儀武]バージヤ長官の時でしたか市庁舎をつくってやろうかということでしたが。
[真栄田]市役所は戦後今の市場にカバ屋で出発、元開南小学校跡から4区のグランド・オリオン通り、それから今の天妃校あと、五回目には立派な、大きな庁舎をつくるべきですね。那覇は戦争で灰燼に帰したんだから、造ってやろうといっていた。アメリカの援助をあおいだらよい。
[新垣]バージャー長官もシーツ長官もそういっていたんだから。今でも変わりないと思う。
[徳田]有意義なお話をお伺いしました。それではこれで終わります。ありがとうございました。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


那覇市の復興は重民、康和、重剛の三代で基礎ができたようなものだ」は昭和24(1949)年から31(1956)年までの期間ですね。
当間 重民 S24.12 - S27.2
又吉 康和 S27.3 - S28.9
当間 重剛 S28.11 - S31.11
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm


>市役所は戦後今の市場にカバ屋で出発、元開南小学校跡から4区のグランド・オリオン通り、それから今の天妃校あと、五回目には立派な、大きな庁舎をつくるべきですね。

カバ屋はテント小屋です。

那覇はどう変わったか(63年) 4

1963年の市民の友の座談会から抜粋します。

那覇の犠牲になった真和志
[真栄田]ウルクン、ニッポンガヤー(小禄も日本ですか)という言葉(笑)はいつ頃からですか。
[長嶺]小禄に電灯がついたのは私が小学校の頃で、小禄に、真つ先についたものだから、それから先でしょう。
[徳田]では翁長さん、古い時代の真和志について…。
[翁長]私が役所にタッチするようになったのは最近ですが、若い頃の記憶からすると、純粋のマージンチュは安謝、安里、松川、与儀、古波蔵、上間、識名、国場ですね。中央部は全部寄留民でした。
[徳田]なにか真和志の特徴といったものは?
[翁長]首里でもない、那覇でもない。両方あわせて二で割ったようなもの、しいていえば真和志の特徴- そういうことがいえますよ。那覇の発展は、真和志の衰亡史であると、つまり那覇の発展を語ることは、真和志の衰亡を語るようなものですよ。首里には誇りがあるが、真和志にはない。性格的には中性無煙みたいなものですよ(笑)。
[徳田]ケムリもたたなかったんじゃないですか(笑)。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


座談会ででてきたた真和志の部落をマッピングしました。
真和志地区の部落
これまでグダグダと書いてきたようなことはこれくらいの年代の方にはあたりまえのことなんですよね。「安謝、安里、松川、与儀、古波蔵、上間、識名、国場」が古い集落でその近辺に屋取などができていったわけです。真嘉比が抜けてますけどもどうなんでしょうか。
図にしてみると「真和志」という統一性がないのは必然であっただろうなと思われます。
それぞれの部落から那覇へ商売にゆくというなら真和志北部と南部の間の交通はさほど必要とされないわけです。

部落をそれぞれ書いてみると城岳周辺の楚辺には那覇からの寄留民、壺川には地方や那覇の人達、繁多川には首里系屋取、銘苅は安謝から分かれていて首里系の屋取、古島は真嘉比から分かれていて首里系屋取、大道は安里から分かれていて首里系屋取等々です。
道路ができて人が集まって来たのは上之屋、壺川、大道周辺、開南近辺(学校が出来た)です。
明治から沖縄戦まではけっこう長い期間なわけで、簡単にざっと言い尽くせるもんではないですが、ゆっくり追っかけてゆきたいと思います。

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