忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

玉陵問題 2

玉陵問題の続きです。
新聞記事を引用したのですが経過等がわかる文がありましたので抜き出してみます。

1959年12月、キリスト教団体の沖縄聖公会が玉陵の一部に学生センターを設立すると発表した。当時の琉球新報は(略)意外なほど手放しの歓迎記事を掲載した。
「学生センター生れる/来春霊御殿前に/沖縄聖公会の手で/総工費13万ドルの豪華版
図書館、レクリエーションホール、ロムトリー、礼拝堂等からなり全部鉄筋コンクリート建て。尚家河の要望も入れて外観は琉球格調ゆたかな強いデザインで仕上げ内観は近代的な明るい感覚の設計を取り入れ、裏側になる尚家の霊御殿も十分生かした総合的な立派な設計だ。
琉球新報 1959年12月13日」

新聞報道の時点では学生センターの建築は文化財保護委員会に届けられていなかった。委員たちは報道でこのことを知り非常に驚いたようだ。新聞報道から三日後、玉陵の管理者である護得久朝章は文保委に対し玉陵の敷地の一部を聖公会に売却させてもらいたいという現状変更願を出した。聖公会も同じ日に文保委に対し、学生センター建築許可申請所を提出した。
(中略)
そのあと少し時間をおいた1962年7月に、事態が動き始めた。いつまでたっても作業が進められないことに業を煮やした聖公会が整地作業に入ったのだ。実は那覇市は聖公会に対して1962年3月15日付で建築確認通知を出していた。
郷土の文化を守る会の理事名度山愛壙が、現地視察に着ていた聖公会のハイオ司祭と小競り合いになり周囲の人に引き離されるなど状況が緊迫化した。ハイオ司祭は現場に立ててあった那覇市職労首里市部の旗を持ち帰ろうとしそれを名度山が奪い返そうとした。名度山は司祭の車に挟まれて数メートルひきずられ全治一週間のけがを負った。興奮した司祭は奪った旗を持ってUSCARの公安局に局長を訪ねた。
(略)
ハイオ司祭は那覇署に告訴した。反対派もハイオ司祭が赤旗を無断で持ち去り、さらに名度山を車でひきずり負傷させたことで司祭を告訴した。双方からの告訴により警官隊が出動する騒動となり、両者間の緊張状態は極限に達した。
しかしこの一件が両者が面と向かって話し合う場を作った。現場では那覇署長のとりなしで名度山の父、名度山愛順とハイオ司祭が話し合った。司祭は「琉球政府か尚家がこの土地を買いたいというなら筋が通るので18000ドルで売ってもいい」としたのに対し、名度山愛順は「それならばわれわれがその方向に全力を尽くし返事をしよう」とこたえ、この場は円満に収まった。結局、琉球政府が博物館の建物用地としてこの土地を買い上げたことで問題は決着した。
玉陵問題/源河葉子「戦後をたどる|那覇市歴史博物館編」 p86、87(抜粋と編集)


この本は「那覇市史 通史編」の三巻です。
護得久朝章、名度山愛順、名度山愛壙が登場してますね。護得久朝章は尚家の土地管理をしていたので玉陵の土地売却は尚家の了承があったと思われますが、一部とはいえ先祖の墓所売るか? 一応琉大(現首里城公園)は手狭で不便をかこってましたから教育のために協力して欲しいという要請に応じた可能性もあるかとは思います。
上記引用では省略した箇所が多くてなんか司祭が悪者みたいですが、「反対を押し切ってまで設置する意志はないので他の場所を世話して欲しい」と反対派と対話を求めたりしています。建築許可も出て土地売買も終了しているので聖公会側に手続き上の不備は無いのですが、結局は文化人等の反対派が運動により建築中止の方向に押し切りました。

契約金額は27000ドルで、政府は尚詮氏らから寄付金3000ドル、博物館敷地買い入れ資金6000ドルのほか、工業高校拡張費からもふりわけることになっている。
沖縄タイムス 1962年9月26日


最後は尚家の売った土地を行政があわてて買い戻したという形になり、尚家は差額分の収入があったわけです。

参考:尚詮 とは - コトバンク
参考:グダグダ(β) 玉陵問題
PR

硫黄鳥島の石臼

泊前島誌の「泊・前島と硫黄鳥島について」から抜粋します。

戦前、前島町の中央四叉路西角に豊里友堅が石臼を精製加工する作業所があった、この石臼の原材料は硫黄鳥島から産出され、ポンポン船で泊港経由運ばれて来た。石臼の原材料は山形といって硫黄鳥島の住民が旧噴火口の火山岩から切り出した荒削りの雌、雄一対で、船が入るたびに10〜20対運ばれて来たのを豊里友堅の弟友賢が久茂地の作業所に、友睦が糸満に二男友信の作業所が県庁通りの突き当たり、名度山愛順の家門にあってそれぞれ精製加工されて沖縄本島のみならず、宮古や八重山及び離島の山間僻地に至る迄石臼が販売供給された。
石臼は全世帯の必需品であった。これらの石臼は長い間使用していると山が擦り減って空振りするので補修する必要があった。豊里系統の方々が金槌を持って各市町村を巡回していた。
このように豊里家と硫黄鳥島の関係は深く、真喜志駿の母カナは明治22年に硫黄鳥島で生まれ、弟友信が2歳の時に父母共々泊前島に引き揚げて来たのである。処で硫黄鳥島住民の国吉、仲宗根、糸数、東江、仲村姓は豊里家と姻戚関係があり真喜志駿の幼い時、硫黄鳥島からこれらの方々が鳥島言葉丸出しで豊里家によく出入りしていたのを思い出す。
泊前島誌 p399、400(抜粋と編集)


引用箇所の前では硫黄屋(ユーワーヤ)やそれらに関わった人達について触れられています。ユーワーヤのあった場所は那覇民俗地図によると中の橋から泊小学校に行く道(ユーワーヤースージ)の右手になります。
新屋敷周辺で使った図を再掲。

右手から伸びてくる緑色が丘のようになっていて、本文中では「赤平丘陵地」と呼んでいます。この丘陵は戦後米軍が削り取って埋立に使ってしまいました。
ユーワーヤの硫黄は硫黄鳥島からのものですがWikipediaの硫黄鳥島には明治期の説明がないので本文中に引用されている「鳥島移住六拾年のあゆみ」(S38)から抜き出します。

一、硫黄鳥島の概況
(略)又硫黄に次いで挽き臼の産地として世人に良く知られた島である。島は良港なく交通に不便であった。明治38年小学校設立せしも36年の移住とともに具志川小学校へ校舎を移す。
昭和拾四〜五年頃より硫黄鉱業復活し鉱山へ出稼ぎ者増加し児童も増え戦後に鳥島小中学校設立す。昭和34年異変発生で又総引き揚げをなす。現在硫黄鳥島は無人島となり、噴火口の煙が依然として天空に吹き続いている。
二、経過(六拾年のあゆみ)
1、移住の起因
明治36年4月鳥島硫黄坑が大爆発をなし、その惨状は真に筆舌に著す事の出来ないものであった。
3、調査の報告
これ以上の惨状は無いが数年毎に又大爆発は免れないと予告す。当時の人口増加や生産の状況からおしても永住の見込みなき事で強行に移住を進めた。
6、久米島へ出発
明治36年12月20日に仁寿丸で久米島へ第一着(略)明治37年2月11日版第二回船で旧鳥島と最後の別れの出発
8、その後の状況
大正年間硫黄鉱業盛んになるや久米島より硫黄鉱山へ出稼ぎにゆくもの、又戦後硫黄採掘会社が設立された事や石臼原材料の山形を採掘する為に人口も増えつつあったが時代の波は硫黄を採掘しても採算が取れずに失敗に終わり、石臼採掘も一時期好況であったが石臼に変わる電動機械化による簡易な絞り機に取って代わり絶滅の危機に陥ったのである。
折しも昭和34年7月硫黄坑口の突然の異変が発生し爆発の危険に晒されたのでこれを機会に琉球政府の援助によって総引き揚げを断行したのである。7月30日晩、旧鳥島と別れ31日午前9時満潮丸にて泊港着。引き揚げ完了する。世帯数37戸、人口129名以降硫黄鳥島は無人の島となる。
泊前島誌 p400〜403(抜粋と編集)


まとまりがありませんが泊・前島が硫黄と縁の深いことと、硫黄鳥島でとれる石臼原料を加工して販売する泊前島の人達がいたということです。
余談として文中に少し出てくる真喜志駿さんのプロフィールを本の中から抜粋。

大正7年生、本籍前島1丁目
昭和13年近衛歩兵第三聯隊入隊
昭和21年シンガポールより復員(大尉)。広島県の南方復員本部で復員事務官。
ブリジストンタイヤ沖縄販売会社代表取締役会長。


参考:近衛歩兵第3連隊 - Wikipedia

壺屋通り(50年代?)

以前丸国周辺で動画に写っていた地図を図に起こしました。
次図は左が起こした図で右が画面キャプチャ、番号は後述する写真検証で使うために振ってあります。

この図と同時期であろう写真がありました。撮影者位置は新栄通り側、左が浮島通りで右が丸国マーケットです。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/新栄通り、丸国マーケット前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1893


その写真から丸国マーケット向いを切りとって番号を振りました。

最初の図と写真から店舗名を読み取って推定してみました。
(1)すずらん美容院、(2)○○本店、(3)那覇商会、(4)、赤嶺商店、(5)四星呉服、(6)十字屋、(7)○○、(8)○○○帽子店、(9)日本堂時計店、(10)不明、(11)嘉手川商店、(12)不明

60年代中期の地図には新生デパート向かい(中間あたり)に南陽相互銀行(赤)があります。まちのたね通信では三階建てくらいあるビルの全景が見え、ビルの看板には「楽器 レコード」と書いてあります(この時点では銀行ではない?)。

ちなみに60年代中期の店の並びは角から、だるま、国吉ミシン、赤嶺、ヲナハ(ヨナハ?)、南陽相互、ナハ商会、仲間、ヨギとなっています。

関連:グダグダ(β) 丸国周辺
関連:グダグダ(β) 三共デパート(新生デパート)

自動車運転免許

戦後の運転免許について沖縄県警察史より抜粋します。

運転免許事務については、1946年4月の沖縄民政府設立後から、工務部陸運課において試験を実施し、有効期限5ヶ年の免許証を交付していた。一報米軍車両を運転する沖縄人に対しては、ライカム交通規約に基づき米軍が運転免許証を発行していた。そのため、当時は民間免許証と米軍免許証の二本立てとなっていた。ところが陸運課の免許試験は、身体検査、学科試験、実技試験の三段階にわたり厳格に審査していたのに比べ、米軍の免許はかなり簡略化された試験であった。しばらくすると、米軍免許で民間車両を運転する者がかなり増え、それに伴って米軍免許所持者の事故率が高くなり問題となった。そのため、1953年以降は民間人が米軍車両、民間車両のいずれを運転しようとも、警察局(1951年に陸運課から事務移管)交付の免許証を受けなければならなくなった。またそれに合わせて米軍人以外の一般外国人(シビリアン)についても、警察局で運転免事務の取り扱いをするようになった。
1956年に道路交通取締法が施行されたのに伴い、免許事務も充実強化を図る必要から、那覇市西新町埋立地に運転免許試験場が設置された。
原動機付自転車は、当初、許可制であったため。各地区警察署で審査及び許可事務を取り扱っていたが、原付車の急激な増加と、その性能が自動二輪車と遜色がないほどに発達したため、原付車の事故が各地で頻発した。そのため、1961年6月27日に法改正がなされ、30日経過後に免許制が施行された。
沖縄県警察史第3巻 p459、460(省略と抜粋)


以前取り上げた手記に(Link)は「私はジープで基地内を30分ほどぐるぐる回って運転したら、「OK!」とすぐその場で運転免許証を手に入れ」とあるんですが、これがおそらく米軍の発行した米軍免許証の試験の様子です。そのあと那覇市に教習所ができ「本物の免許証を手にした時飛び上がるほど嬉しかった」と続きますがこれが上記引用での民間免許証だと思われます。
沖縄大百科事典の自動車教習所の項には1953年に那覇市安謝と首里坂下に教習所ができたとあるのですが、「1953年以降は民間人が米軍車両、民間車両のいずれを運転しようとも、警察局交付の免許証を受けなければならなくなった」ということから安謝と坂下の教習所はこれに対応したものだったと思われます。

また沖縄県警察史のp452には、1950年ごろから貿易開始に伴い車両が増え、やがてバスやトラック事業が営まれるようになっていったとあります。
自動車教習所関連では沖縄県警察史の表から免許保有者数と車両台数を抜き出してあり、免許保有者数が激増したのは52年の2744人から53年の9817人で7000人余りの増加、そのあとも毎年2000〜4000人づつ増え、59年には26194人になっています。ちなみに車両台数は50年の1128台から12067台と変化しています。
50年代の免許保有者数は、55年(16083)と56年(16365)だけ282人の増加となってますが、56年の道路交通取締法施行と那覇市西新町埋立地に運転免許試験場が設置されたことが影響しているんでしょうか。試験が厳しくなった?

自動車教習所関連

戦後の自動車教習所についてです。

通称 自練、自動車学校
戦後は53年頃那覇市安謝に沖縄自動車教習所、ついで首里に首里自動車学校が設立された。68年公安委員会による指定制度が確立するまではすべて非指定の教習所であった。
沖縄大百科事典 (省略と抜粋)


沖縄自動車教習所は安謝岡野区5班、首里自動車学校は坂下にあったようです。
また運転免許に関する施設、自動車台数と免許保有者数は次の通り。

運転免許に関する事務は、1949年12月20日に沖縄民政府工務交通部から警察部(保安課)に移管され、1951年1月1日に交通課が新設され同事務を担当することとなった。また、1956年1月1日から道路交通取締法が施行され、翌年の1957年6月20日には、交通課の附置機関として自動車運転免許試験場が発足した。また、同年10月4日には、那覇市西新町3丁目79番地(現在那覇市西3丁目10番地の17)に、鉄筋コンクリート平屋の事務室と基本コースが竣工した。
沖縄県警察史第3巻 p264、265(省略と抜粋)


自動車台数
50〜59年
1128、2297、2780、3774、4448、5688、7820、8841、10986、12067
60〜69年
14412、17559、22558、28843、32521、41427、54296、70290、84428、96368
70〜71年
13389、137949
---
免許保有者数
51〜59年
2744、9817、12365、13870、16083、16365、20245、22377、26194
60〜69年
33566、42559、49925、64500、78082、92143、112459、128284、145431、162443
70〜71年
181303、200989
沖縄県警察史第3巻 p455/表より数字のみ抜粋(省略と抜粋)


そのほか昭和41年度以降の教習所数の推移など。

年度 |指定教習所数(新規指定)/非指定教習所数 [教習所総数]
昭和40、41年 |指定0/非指定26 [総数26]
昭和42年 |指定0/非指定24 [総数24]
昭和43年 |指定2(普天間、奥武山)/非指定22 [総数24]
昭和44年 |指定8(壺川、宜野湾、安ヶ名、カデナ、糸満、天久)/非指定16 [総数24]
昭和45年 |指定8/非指定16 [総数24]
昭和46年 |指定9(川畑)/非指定15 [総数24]
昭和47年 |指定11(コザ、浦添)/非指定13 [総数24]
昭和48年 |指定12(美池)/非指定12 [総数24]
昭和49年 |指定12/非指定12 [総数24]
昭和50年 |指定13(津嘉山)/非指定11 [総数24]
昭和51年 |指定13/非指定11 [総数24]
昭和52年 |指定16(那覇、馬天、名護)/非指定8 [総数24]
昭和53年 |指定17(第二天久)/非指定7 [総数24]
昭和54年 |指定17/非指定7 [総数24]
昭和55年 |指定18(八重山)/非指定6 [総数24]
昭和56年 |指定20(三和、宮古)/非指定4 [総数24]
昭和57、58、59年 |指定20/非指定4 [総数24]
昭和60年 |指定19(奥武山廃校)/非指定4 [総数23]
[沖縄県自動車教習所協会]創立20周年記念誌 p21「会員(指定教習所)年度別推移」より省略して抜粋


指定教習所は昭和43(1968)年からなのでそれ以前は練習して一発試験という感じだったんでしょうか。
昭和47年頃までの新規指定は全部自動車練習所だったのですがその後自動車学校への改名があります(そのままのところや新しく指定されても講習所というところもあります)。自動車学校という名称で新規指定されたのは48年の美池自動車学校が最初、改名は47年の壺川自動車学校が最初です。
昭和48年以降指定されたのは9校でそのうち自動車学校が6校、練習所が3校ですがこのうち2校は自動車学校に改名しています。
沖縄では教習所のことを自練と呼ぶことがあるのですが、これはおそらく非指定教習所全盛時代の自動車練習所の通称が根強く記憶にあるのかもしれません(本当にそう呼んでいたかどうかははっきりしません)。

天妃ヤマトゥグチ

「沖縄戦後生活史」から渡慶次ハルさんの証言を引用します。

1938[昭和13]年7月、上京以来5年ぶりに帰郷した。那覇市立天妃尋常高等小学校付属幼稚園へ就職したためだった。
当時の那覇市長故当間重剛氏にあいさつに行くと、市長は開口一番「郷に入れば郷に従えというが、言葉は別だ。君の切れ味のよい歯切れよさ、洗練された言葉が気に入って採用した。これを失わずにずっと続けてほしい」と念をおされた。
偶然の一致だと思うが、当時、那覇の標準語は「天妃ヤマトゥグチ」という妙な訛りのヤマトゥグチが、当然のように使用されていた。
幸か不幸か、それが原因で私はこれを守り通し、職場ではもちろん、結婚したときも家庭で標準語で話すことを許してもらい、それを生活語としていたので方言は不得手である。
友達や周りの人たちが、時と場、相手によって巧みに両方を使い分けて話している様子を見て、うらやましいやらくやしいやらで、今さらながら自分の不器用さ、要領の悪さに腹が立つ。 (那覇市)
沖縄戦後生活史 p170


昭和10年東京都竹旱町教員養成所卒。13年那覇市立天妃幼稚園勤務。22年文教学校付属幼稚園勤務。26年那覇市立開南幼稚園勤務。29年那覇幼稚園協会初代会長。38年沖縄幼稚園協会副会長。47年沖縄女子短期大学非常勤講師。
http://library.main.jp/index/jst19786.htm


昭和13年の那覇中心部では天妃ヤマトゥグチというのが使われていたのは面白いです。「天妃」とわざわざつけられているのは寄留商人の中心地であったせいもあるんでしょう。

大同火災本社の土地


現在那覇市久茂地で工事中の大同火災新本社ビルは平成4年(1992)10月に着工、平成6年6月に完成する。
新本社ビルの敷地には昭和32(1957)年頃3階建ての沖縄火災ビルが建った。沖縄火災、南西火災が合併、のちに球陽自動車保険を加えて共和火災となり、同社の本社となった。その頃の同ビルはアメックス(アメリカ系銀行)や沖縄テレビ開設準備室など数社が入っている雑居ビルだったが、共和火災が全部使用する事になり、全入居者引き移ってもらった。そうするとビル敷地の地主代表のM氏は「お前が来たら、全部追い出してしまうのか?」と冗談を言っていた。三階屋上にプレハブを増設したが手狭になっていた。現在のようなコンクリートパイルなどなく地下に松杭を打込んであったため、これ以上、上に伸ばすのことはできない。辛抱のしどころとなった。
この土地を購入するために私はM氏と交渉に入った。提示された額があまりにも高額で、わが社の資産総額の不動産枠をはみ出してしまうので見送った。
ところが大同火災になってあと、今度は地主側から買ってくれといってきた。隣地も合わせ200坪に少し足りなかったが、交渉の末全額現金で支払い、社有地とした。この土地は久米門中の共有地で、別に代替地を購入、剰余金で門中打ち揃って旅行に行ったと言って門中代表から大へん喜ばれもした。
大同火災と私の人生 p175〜178(抜粋と編集)


現在の大同火災本社は「那覇市久茂地1丁目12-1」(http://g.co/maps/fzhh5)、この場所は移転前の沖縄タイムス本社ビル向かいになります。
大同火災は復帰に備え1971年に琉球火災海上保険と共和火災海上保険が合併したもので、下の写真では共和火災海上保険となっています。
那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=604



松杭は旧沖縄タイムス本社ビルでも使われていたようで、取り壊し時にニュースになりました。当時は一般的だったようです。
参考:グダグダ(β) リュウキュウマツの杭

引用文ではこの土地が久米門中のものだったことがわかります。

左図は現在の地図に「那覇市旧跡・歴史的地名地図」に示されている戦前の道をかいたもの、右図は昭和初期の地図と推定した大同火災の位置(ポインタ)です。
戦前の町名はこんな感じ。
旧那覇市街西側
旧い時代には久米人は久米と久茂地あたりにいたそうですから門中の土地があったとしても不思議ではありません。
参考:グダグダ(β) 久米村人(クニンダ)の宗家

親子ラジオ

庶民がつづる沖縄戦後生活史」、「戦後の沖縄世相史」から引用します。

テレビが各家庭に普及する前、ラジオは唯一ともいえる娯楽だった。1952年ごろから、ラジオ放送の共同聴取施設として「親子ラジオ」が普及した。米軍は49年、住民向けの日本語放送を開始(略)受信機の普及が十分でないなどの理由で中止した。50年1月から本格的な放送を始め、53年にはKSARにコールサインを改めた。
電力事情は悪く、ラジオも高価だったため、受信機とて少なかった。米軍政府はがガオリア援助資金で各市町村に共同施設をつくり、各家庭には有線で流した。 
庶民がつづる沖縄戦後生活史 p137(省略と抜粋)

親子ラジオは20センチ四方の板箱にスピーカーを入れ、線をつないで放送局から発信する有線放送である。このころ、民間の有線放送社が2、3設立され、親子ラジオが普及した。
戦後の沖縄世相史 p43(省略と抜粋)


小さな放送局がたくさんあったのか?それとも配信だけの小さな会社があった?

高校卒業(1955)年直後である。仕事を探していた時、地人の商会でアルバイトをしたのが親子ラジオの配線工事だった。親子ラジオそのものは、概に普及していた。那覇市壺屋の小高い丘にあった親局から契約家庭のスピーカーに有線で放送する仕組み。
庶民がつづる沖縄戦後生活史 p138(省略と抜粋)

戦後、沖縄で独自の発達をとげたラジオの共同受信システムに「親子ラジオ(簡易有線放送)」があるが、最盛期三百社を越え「親子ラジオ組合(簡易有線放送)」を結成。琉球新報社等の協力で1960年7月1日に開局したのがROKである。
ラジオ沖縄 - Radiofly

http://radiofly.to/wiki/?%A5%E9%A5%B8%A5%AA%B2%AD%C6%EC


実物写真は沖縄市の郷土博物館のサイトにあります。

物語や音は、電力と一緒にコードを流れます。そのため、電気が家に通っていなくても、親子ラジオで放送を聴くことができました。
http://www.city.okinawa.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=107&id=7509&page=1


本部で放送していた当時の番組をCDにして販売しているところもあるようです。

「親子ラジオ」とは、有線放送の一種(共同聴衆施設)で「親」ラジオで放送電波をキャッチし、それを各戸に配置した「子」ラジオスピーカへと有線で送信するものです。
 昭和32年(1957年)より、町内の親子ラジオの「親局」として当店が当時、録音し放送していた音声をこの度CDに編集しました。

http://www.hi-ho.ne.jp/toguti-radio/oyakocd.htm


地方ではローカル番組も製作していたようですが那覇ではどうだったんでしょうか。親子ラジオ自体は電気が来ていなくても音を聞けたようですが当時の電力事情なども気になります。
高価で庶民が買えなかったラジオの代わりに親子ラジオが普及したことで放送への先鞭を付けたとはいえそうです。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]