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公設市場建設の経緯

小松かおりさんの「沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌」という本に戦後の第一と第二の二つの公設市場をめぐる経緯がまとまっていたので引用してみたいと思います。

戦前の東町市場は1944(昭和19)年の大空襲であとかたもなくなってしまう。戦後、那覇を基地に使用しようとした米軍に対して、焼け残った壷屋の陶業関係者が、陶業の再建のためという理由で那覇への那覇への入域を認めさせたのは有名な話である。その後、壷屋の関係者をかたってなし崩し的に入域者が増え、陳情によって正式に開南、楚辺に住むものも現れた。1947(昭和22)年には開南から松尾にかけて、およそ50名の露天商による闇市が形成された。ここはウィーヌマチグヮー(上の市場)と呼ばれ、米軍からの配給物資や本土や香港、台湾からの密貿易品が並んだという。禁制品の闇市を放置するわけにいかず、島産品を扱うことを条件に、1948(昭和23)年にガーブ川沿いの現在の那覇市松尾2丁目に公設市場として移転したのが、牧志公設市場である。この頃は、奄美、沖縄、宮古、八重山にそれぞれ政府があり、自由貿易は禁止されていたので、牧志公設市場は沖縄本島の産品を中心に扱うことになった。しかし、密輸品を扱う闇市としての正確は、遅くまで残ったようである。公設市場とはいえ、最初は、店舗も業者任せで各々がバラックを建てていた。湿地帯のため。雨が続くとガーブ川が氾濫して、毎年のように周囲一帯が泥だらけになったという。
1950(昭和25)年には食料品市場、1951(昭和26)年には雑貨市場と衣料市場の建物も完成した。食料品市場は、約1300平方メートルのセメント瓦葺きの平屋の建物であった。1964(昭和39)年に衛生状態の悪化などから市の改築案が出されたがうまくゆかず、以降、1972(昭和47)年に改築が成るまで10年近くにわたって牧志市場の改築問題が続く。
沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 小松かおり p21、22(省略と抜粋)


壺屋への入域については自分はこの話を知りません。
開南から中央劇場の一帯のウィーヌマチグヮー、新天地市場の経緯については過去に触れました。

最初の案では、旧市場の跡地に市場を再建する計画だったのだが、市場敷地の90%以上を所有する地主が土地の返還を求めて反対。また食料品売り場を地下にする案に、業者も反対した。
1966年に、当時の西銘[順治]市長が別の場所に市場を移築して完成の一ヶ月後には敷地を明け渡す、との覚え書きを地主と交わして新市場建設[※第二]にふみきった。地主は覚え書きを根拠に土地の返却を求め続けこれが市場問題の中心的な課題となる。1967(昭和42)年には、市場の西側に購入した土地代を含め120万ドルの予算で新市場[※第二]が着工した。[※69年完成]

この頃保守の西銘市長から、市場の強制着工に反対して当選した革新の平良[良松]市長に変わったことが事態をややこしくした。
移転の反対業者は、公約の実行を求めて、土地の明け渡しの覚え書きを破棄するように市長に迫り、
平良市長は巨額の予算をつぎこんだ新市場の処遇をめぐって攻撃する野党と、
[西銘]前市長の覚え書きをたてに跡地の明け渡しを迫る地主、
公約の実行を迫る業者の間で右往左往した。

その後保守が惨敗した市議選などを挟んで、新市場は旧市場[※第一]と競合しない業種で開設することになった。これが第二牧志公設市場である。
第二牧志公設市場は、新たに移転を希望した水上店舗の花屋通り会や、旧市場から移転に同意した業者が半分を占め(略)客足が伸びなかった。この市場は不採算のまま業者が減り続け、2001年にとうとう閉鎖された。

新市場の開設で市と議会が一致した直後、旧市場が不審火で焼失し、半数の業者が焼けだされる事件があった。その直後に地主が土地への新たな建設を禁止する仮処分を申し立て、土地問題がこじれる中で開南へ急造された仮店舗への移転を拒む業者が現れ、また市と契約を結んでいる名義人と、実際に商売している業者のずれから、仮店舗のコマ数が足りないという事態が起こる。市場の管理を実質上業者に任せていたので市も市場利用の実態を把握しきれずにいたのである。
1970(昭和45)年12月には、土地の賃借や譲渡に応じない地主に市が土地収用を決めて改築工事が始まったが、裁判所が土地の帰属が決定していないとして建築を止める事態となり、それが解決すると、建築予定地の柱を立てる場所に立ち退きを拒否する業者が数ヶ月にわたって占拠する問題が起こり、議会は工事の手続きをめぐって粉糾した。
このような問題を経て、地主との土地譲渡交渉が決着し、1972(昭和47)年の9月に第一牧志公設市場がオープンしたのである。現在の第一牧志公設市場は、1972年建築の建物と設備で現在まで営業している。
沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 小松かおり p23、24(省略と抜粋/注約)


戦後那覇の都市形成は失敗と成功の両面があり、失敗面はもちろんなし崩しに出来た市場に都市計画が引きずられてしまったことです。
生活を守るという業者の言い分に引きずられて行政が追認を与え、結果的に第二牧志公設市場の不振や道路計画が実行不可能になっていることを忘れてはいけません。
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