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貝ボタン

古賀辰四郎の古賀商店は多様な賞品を扱っていたのですが、その中で貝ボタンも扱い、沖縄県産の)夜光貝、高瀬貝、広瀬貝を原料として買い上げていました。

海歩きでこれらの貝が拾えたら儲け物なんですが(刺身的に)、当時の沖縄でも中身はともかく貝殻は捨てられるだけだったようです。

大石の呪いでこういう証言がありました。
それから通堂、三重城にボタン会社があって、針でボール紙にボタンを付ける仕事もしました。賃金は十個つけたら八銭とかね。p148

古賀商店ではこのような事業がありました。
那覇寄留の時代では、夜光貝殻等と加工、製造された水産物を大阪古賀商店へ送りだし大阪古賀商店ではそれらの産物を外商を経由して海外輸出し利益を那覇古賀商店に還流し、古賀辰四郎はそれを資金として水産物の調査開拓、大東島、尖閣列島ほかの無人島の探険を行なっていたのである。
http://senkakujapan.nobody.jp/page044.html#%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%BE%B0%E5%9B%9B%E9%83%8E%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%8F%A4%E8%B3%80%E5%95%86%E5%BA%97
ここでは「夜光貝殻と加工、製造された水産物」となっていますが、夜光貝殻と加工・製造された水産物というふうに読むのが正しいのではないかと思います。古賀商店の貝以外の扱いはフカヒレ、べっ甲、干しナマコ、するめなどで、貝殻と書かれてはあっても貝ボタンとは書かれていません。

「近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之」にはこのような記述があります。
大正7年8月に古賀が死去し、息子の善次が事業を継いだ。(略)八重山支店ではサザエを原料としたボタン加工を始めた、10台の機械があったが、労働力不足で6台が稼働したに過ぎない。ボタン加工といっても貝を刳り抜くだけで、賃金は1日20〜30銭の日給で、歩合制でないことから能率があがらなかった。
近代における地域漁業の形成と展開 p23


沖縄以外にも南洋などからも貝ボタンの原料は(大阪に?)輸入していたようですし、輸出先は外国です。ボタンとして加工して出したのか原料としてそのまま出したのかはわかりません。
加工してボタンの形にした方が重量的にも価格的にも有利だと思いますし八重山でくりぬく作業を試していたことも確かです。通堂や三重城(港のそばの倉庫地帯です)で台紙に縫い付けられていたボタンは製品として仕上げられたものだったと思われますがそれがどういう段階を経てきたのかはさっぱりわかりません。
結論はありません(笑)。

【追記】土橋幸次郎により西新町2丁目で貝ボタンが製造されていたとありました。

関連
グダグダ(β) 土橋幸次郎 (大正〜昭和期の貝ボタン製造業者)
グダグダ(β) 大石の呪い
グダグダ(β) 古賀商店
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泊大工

泊には名の売れた大工が多く、区内の家屋の建築はこれ等の名工の手によってなされていた。家屋建築の場合、ほとんどが請負制度であり、請負完了まで、5日または10日間ごとの勘定で職人に賃金を払っていた。
家具の場合は、資材を購入して、製作した製品をしないと収入がなく、それ故家具専門職が少なかった。泊には名大工の多い割に家具職は少なく、家具購入は、おおむね久米大通りに家具屋まで足を運んだものである。
こうしたなかで、泊出身で家具職に従事していた人は幸地長仁、瑞慶山良功、新田宗睦、新田宗盛、伊波興成等であり、泊で家具を製作(店舗を構えず)していたのは伊波興成であった。他の人は、市の中央部で家具製作に従事していた。
戦前は現在のように移入による既製品の家具はなく、県産品ばかりであった。
泊人の足跡/松村興勝 p61


久米大通りは大門前交差点から西武門に至る区間である。この界隈は昔、唐栄といわれた久米三十六姓の帰化人が住み、大通りに面した所も石垣囲いがあったが、間もなく撤去商店街に生まれ変わった。この通りは主に建具類や塗り物などの家具類が多かった。若狭町方面から大門前までタンス、茶ダンスその他の什器類が所狭しと陳列されていた。
久米大通りの家具店は、タンス、茶ダンス、ちゃぶ台、机その他の家具を客の求めに応じて注文を受け製造販売をしていた。久米町の家具店は見世の裏に工場を持って製作していたが、いつごろからか、表通りに面した店の表で製作をする業者が増え、家具店は腕のよいタンス大工を店に雇って腕自慢の家具を製作、販売をして信用を高める努力をしていた。しかし、働いているタンス大工は腕自慢が多く、転々と職場を変える職人も多かった。
那覇市史資料編第2巻第二巻中の7 p299



新栄通りには戦後すぐから新田家具店という家具屋がありますが泊の人なのでしょうか。

昭和12年の料理業 3

「日報の沖縄人名録 昭和12年版」から那覇市内の料理業の項目を分けて抜出しましたがそれの地図版です。
左図が料亭、右がカフェーと思われるものです。

グダグダ(β) 昭和12年の料理業 (料理屋)
グダグダ(β) 昭和12年の料理業 2 (カフェー)

カフェー(S12)

場所は「昭和初期の那覇市街図」を基本にして一部は辻の図を参照しました。
上之蔵にあるものがほとんど抜けていますが旧町名の番地などを参考に補ってください。
住所が若狭1丁目となっているものは波の上通り沿いだったと思われます。

昭和12年の料理業 2

昭和12年の料理業の続きです。
「日報の沖縄人名録 昭和12年版」という本から料理業の項の後半を抜出します。前回と今回のものは料理業で同じ項目内なのですが、前のものは項目の最初の方にあり今回のものは後半にあって分けられています(中間には離島の料理業があります)。
これがなぜなのかということですが、前半には料亭の名が見え、後半にはカフェーとして名があがる店名があることから業態の違いと解釈しました。

那覇会館
今村静男 西本町2ノ31 電394

ライオン
富坂サキ 西本町4ノ36 電231

天狗
高安高俊 辻町1ノ77 電109

モンパリー
北村チヨ 辻町3ノ38

日満
高出時次郎 辻町3ノ98 電507乙

松月
宮城カメ 辻町3ノ270

名護蘭
座波清信 若狭町1ノ26

ニッポン
大嶺カナ 若狭町1ノ30

薪の運送

産地
主に国頭方面の山林、東海岸沿いの平安座、奥、久志方面、西海岸沿いの名護、許田、恩名、慶良間列島
輸送方法 
主として山原船による。
那覇にての集荷港
渡地(通堂町)、中の海(西新町2丁目)
薪炭商への運搬
フナングヮ(下泉町)の古波蔵、石原、備瀬などは中の海、渡地で山原船から大型伝馬船に積み替え北明治橋、月見橋、旭橋、松田橋の下を経て集荷していた。この際の運送費は買い主持ちであった。大伝馬船船一隻約千把くらい、久茂地河沿いの薪炭商は泊港より伝馬船で泊高橋。前島の板橋、美栄橋、久茂地橋の下を経て運送していた。
(古波鮫唯施氏談)
那覇市史資料編第二巻中の7、p418 (一部修正)

那覇の薪荷揚げ地
薪の販売業者の多い所は泊で高橋際(高橋2丁目)の通称舟口という所で業者が十余軒もここに集結し、敷場[シキバ/シチバ]には井桁やバラ積みにした薪の小山が並んで、木の香がプンプンしていた。運搬する区域は泊一円はもとより、近隣の町や首里方面にまで及んでいたが、その他の薪の陸揚げ場所は、西新町の中の海それから渡地那覇港南岸の垣花にもあった。
•泊 高橋2丁目
棚原オト、又吉、新田、塩浜、嶺井、伊波、花屋、高井、久場マカト、久高、平良カメ、平敷
•久茂地 久茂地川沿い
古堅、瀬名波、安次嶺、屋宜
•下泉町 泉崎橋際通称フナングヮ
石原世昌、古波鮫唯施、備瀬マカト(松田橋際)
•垣花
真栄里、宮里、仲間
•住吉 監獄所向い
儀間
•西新町 1丁目
伊佐、我喜屋、諸見里
•西新町 2丁目
比嘉モウシ、当間、瑞慶山、古波蔵
那覇市史資料編第二巻中の7、p293、294

図はいくつかの図を参考にして作成しました。
泊(高橋町2丁目)のオレンジ色は舟口で濃い色の点は薪置場となっていて(那覇民俗地図)、明治初年の図ではオレンジ色のあたりはシキバとなっています。ですが「写真で見る泊の変遷」などの図では塩田になってたりするのでくわしいところはわかりません。
西新町1丁目と2丁目の間が中の海。
泉崎のオレンジ色がフナングヮですが(那覇民俗地図)、明治初年の久茂地川河口が埋立されていない時期は仲毛あたりにもシキバと書かれています。

関連:グダグダ(β) 久高将正 (戦前に美栄橋で薪炭木材店)
参考:グダグダ(β) 渡地 (わたんじ)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ (安里橋のそばにタムンシチバ)

社会主義者たちの派閥 2

外間守善 その社会主義研究会には、伊波先生は参加なされたんでしょうか。
金城芳子 参加しなかったね。いらっしゃらないですよ。有幹のところにもいきませんよ。図書館では末吉麦門冬(安恭)や、真境名笑古(安興)さんたちがあつまって、思想的なそういったものにはあんまり関心がないような感じでしたよ。伊波先生は、城岳のハルヤー(春潮宅)に私たちを連れていっては、よくヒージャー会をやって、春潮さんといっしょに山羊汁をいただきましたよ。だから沖縄人としての啓蒙活動になるわけね。
※ハルヤー(別荘)は曝書山房で伊波普猷の別荘、当時比嘉春潮宅
沖縄を語る 金城芳子対談集 p31


参考:末吉麦門冬 とは - コトバンク
参考:真境名安興 - Wikipedia

検索してみたら伊波普猷の私の子供時分という文がありました。すこし引用します。

学校から帰へると、私はいつも城嶽の前のちつぽけな別荘にいつて勉強してゐたが、首里にゐた時分から昆虫の採集に趣味を有つやうになり、昆虫のことを書いた本を愛読して、いつも蝶々ばかり追ひまはしてゐた。城嶽の辺は私に取つては実に思ひ出の多いところだ。
---
私は満五ヶ年の小学校生活を切り上げて明治二十四年の四月に、いよいよ中学に這入るやうになつた。当時の中学はもとの国学のあとにあつたが、随分古風な建築物であつた。一緒に這入つた連中は漢那[憲和](大佐)や照屋[宏](工学士)や当間[重慎?](前区長)や真境名[安興](笑古)などであつた。
「龍文」沖縄師範学校附属小学校創立四十周年記念誌(大正10年11月20日発行)所載。

http://www.webmtabi.jp/200709/theses/okinawa_ifafuyiu_watashino_5.html


下のリンクは養秀同窓会にある「国学・一中出身者同窓生リスト」です。
1.jpg 
2.jpg
[1191×1184 416kb]

社会主義者たちの派閥

金城芳子(1901生)さんと外間守善さん(1924生)の対談から引用します。

金城芳子 伊波先生が教会に移っていらっしゃって、ハルヤー(別荘)が空いたわけですよ。そのハルヤーに比嘉春潮が引っ越すんですよ。そうするとその春潮さんが住んでいるハルヤーに、島袋盛敏とか、屋部憲重とか、それから比嘉春潮の奥さんの文鳥(比嘉栄子)の前の旦那さんだった永島可昌とか、そういう新しい学校の先生たちの精鋭だな、そういう連中が集まって、社会主義研究をしていた。
外間守善 泉正重はそこには入っていますか。
芳子 泉正重さんはそこには入らなくて、山田有幹がジャーナリストたちを集めて、そこで、社会主義研究をやるわけよ。これは行動派だったからな。学校の先生たちは、どっちかっていうとまだ穏健派。山田有幹組のほうはわりと行動的なところがあって、そこに泉正重なんかがいたわけよ。池宮城積宝とか、渡久地政憑、それに城間得栄たち、ああいう人たちもいた。古波蔵保好たちもそこに集まるわけよね。
外間 じゃ、あれですね。伊波先生の思想的限界を感じた若い世代というのは、今いう山田有幹さんや泉正重さんたちなのであって、比嘉春潮グループというのはまだ穏健派として、伊波先生の周りにおられたわけなんですね。
芳子 そうなんです。
外間 ああ。その関係が大分はっきりしてまいりました。
芳子 そこのところには女はいないさ。やっぱり怖かったんじゃないかな。
外間 社会主義が。
芳子 社会主義が怖いんじゃなく、行動が怖かった。警察が怖いのさ。それから新聞記者たちの生活もふしだらなところがあったりで...。だから、私たちは大正デモクラシーだな、伊波先生はデモクラシーのにおいをたくさん持っていらしたから。そこにはわれわれ女性がたくさんいたわけよ。とにかく比嘉春潮のグループからも、山田有幹のグループからも、私たちと伊波先生はちょっと敵になっていたわけだ。われわれに「伊波氏をめぐる五人の女」という名前をつけたのはそういう連中じゃないかと思うんだ。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p27

曝書山房
参考:グダグダ(β) 別荘(ハルヤー)


なるほど。
参考:島袋盛敏 (しまぶくろ・せいびん) - 琉球新報
参考:古波蔵保好 - Wikipedia

戦前に新聞記者たちと酒盛りをする当間重剛。瀬長亀次郎(元新聞記者)の名があるのが意外です。

泡盛よもやま話 其の二八/仲村征幸
http://www.awamori.co.jp/uruma/uruma33.html

山形屋の扱い品目(1957年)

新郷土地図第3巻(1957年)に山形屋の広告がありましたので抜粋してみます。

1F/化粧品、アクセサリー、婦人肌着、婦人洋品、紳士洋品、子供洋品、靴、レインコート、学生服、帽子、化粧品、石鹸、お菓子、缶詰、食料品
2F/純毛婦人服地、純毛紳士服地、服地、ワンピース、ツーピース、婦人服誂部、紳士背広服、紳士ズボン、タオルねまき、仕立着物、お召し、銘仙、京呉服、布団綿、台所用品、漆器、琉球人形、琉球漆器、紅型、絵葉書
3F/文具、玩具、子供乗物、和家具、洋家具、応接卓、テーブル掛、カーテン、掛軸、置物、博多人形 特売場 食堂
4F/小鳥、金魚、盆栽、植木鉢 展望台 休ケイ所
新郷土地図第3巻


広告には写真もあり下記アドレスの写真とほぼ同じです(同アングルだが撮影時期は違う)。

那覇まちのたね通信 | 企業/山形屋
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2291


コザ市胡屋大通りコザ支店もあり、「創立年月日 1950年6月1日/資本金 10,000,000円/代表取締役 当間嗣徳」とも書かれています。
山形屋は1980年に設立三十周年記念誌が出ているようなのでそれを読めばだいたいのことはわかると思うのですが未読です。

以下余談。
山形屋の向かいには松坂屋という百貨店(?)があったようですがここは情報があまりありません。神里原から国際通りに移転して鉄筋造りの建物で営業していたようですが自分が憶えているころには宝石屋になっていました。
山形屋向いの跡地は駐車場になっているようです(画像左手)。

http://g.co/maps/ga783
左は国映館から山形方面空撮、右は山形屋斜め向かいの映画看板。

左画像で黄色で囲んだ部分が右の看板があったところだと思います。角も看板だったような気がしていたのですが建物がありますね...

【追記】公文書館の写真に松坂屋前の写真があり、店舗前の看板が写っていることをコメントで教えていただきました。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/DPA/HTML/GRI/R08/006753.html

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