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戦前のトマト栽培

※近日中にまとめ直して改訂します。(2012.08.18)

トマトが出てきたので書き留めておきます。
具志堅宗精さんは明治29(1896)年垣花生まれで大正9年に警察官になっています。

私は、当時、高級野菜をつくっていた。サヤ豆、百合根、キウリ、サヤインゲンなどをつくり、それをかついで高級料亭風月楼や那覇港に停泊中の船にも売り歩いていた。ハシリだから高く売れたが、主要生産物である百合根が世界大戦のために、欧米輸出ができなくなり、農業では食えなくなった。 p28

それでも私は締めようとせず、高級野菜をつくってはせっせと彼女の家に売りに行った。彼女一人いるときは、たくさんおまけをつけてやったり、トマトなどただでやったりして彼女の機嫌をとることを忘れなかった。 p27
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 (抜粋と編集)


こちらは国場で1910(明治43)年に生まれた城間さん。

畑はウージ(さとうきび)の他、芋、タマナー(キャベツ)、シブイ(冬瓜)、グンボー(ごぼう)、レークニ(大根)、人参、トマトなどいろいろ作りました。
グダグダ(β) 国場のくらし


那覇市史には農作物の項目でトマトの名は見えないんですが証言などにはでてくるんですよね。とはいえ農業関係の記録や統計などちゃんと調べてませんからどうだったかの結論はありません...
昭和8年の新聞記事には製造者組合創立の記事があります。

トマト製造者組合生る
きのふ設立総会
那覇市内青果出荷商約30名に依って今般沖縄トマト製造者組合が生れ昨晩乙姫亭に於て設立総会を開き規約役員其の他決定した
沖縄朝日新聞 1933(昭和8)年2月21日


【追記】コメントで戦前の首里では「バンカ」と呼んでいたとの情報をいただきました。
【追追記】「バンカ」は「蕃茄」のようで、方言名ではなく当時の一般的名称(?)のようです。
引用は「昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸」(p153)にある「新聞五十年/高嶺朝光」の転載の孫引き転載です。

それからトマト。大正12、3年頃、一般家庭ではめったにトマトが食膳に上がらなかった。高価でもあったし、食べつけないため、嗜好にも合わなかったようだ。料理屋あたりでトマトを薄くきざみ、砂糖や醤油か塩をふりかけて、酒のサカナにしていた。トマトジュースとなると、とんでもない話で飲んだことも見たこともなかった。それも農事試験場が普及に精出して2、3年で全島にひとがった。そのうちに本土の野菜の需給関係に気がついて(温室栽培はまだ実現しなかった)、本土の野菜が市場に出回る前に沖縄から移出するような商才も育った。
「昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸」p153 (抜粋と引用)
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サイドカー

画家の山元恵一さんの父の話が面白かったので引用します。
画像はhttp://www.flickr.com/photos/24443965@N08/3440267242/in/set-72157609823200760/から切り出したもので、元画像は1919(大正8)年に現在位置に移転した県庁正門前の写真です。時期的にもありえない話でもないので写っているひとは山元さんの父なのかもしれません。
戦前の那覇市内をサイドカーで走り回っている人がいたというのは愉快ではあります。

筆でちょこっと八の字ヒゲを引いたような、童顔で、しかもどこか渋い役柄をこなすフランスの俳優に似ていて、山元恵一氏は愛嬌があった。
思い出されるのは、恵一氏の父君が、那覇署長をしていた頃の話である。さすがに親子で、父君も氏にそっくりの顔立ちだった。この父君には妙なクセがあった。それはサイドに部下の警官を乗せ、サイドカーで那覇の街を走るというクセである。普通は船の方に上司がおさまり、ハンドルを握るのは部下だが、那覇署長の場合はアベコベである。真面目な顔で運転する姿は街の話題になった。
那覇市久米町に産まれ、たしか小学校は那覇尋常小学校で、私も同じ学校だった。1932(昭和7)年県立二中を出て、38年東京美術学校油絵科を卒業、41年から県立二中に勤務、戦後派首里高等学校美術教諭をへて、52年琉球大学美術工芸科の助教授となり、苦心の指導にあたるかたわら沖縄タイムス社の主催する沖展運営委員として活躍した。
1977年逝去。
沖縄人物シネマ(抜粋と編集)

 
※この写真はCC BY-NC-SA 2.0で提供されており、当ブログでも継承(SA/Share Alike)の条件に従います

1913年5月13日、那覇市西村生まれ
山元恵一|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館
http://www.museums.pref.okinawa.jp/art/artists/painting/yamamoto_keiichi/index.html


山元姓は内地姓かなとおもったら士族に山元姓で名乗りが「恵/惠」の人がいました。
「沖縄県人事録(大5)」には士族で医師の「山元惠孝」さん、士族かどうかはわかりませんが「沖縄県人事録(S12)」には「山元惠順」さんがいます。

山本と山元は同じ読みですが、「元」を使う姓は鹿児島に多いようです。また検索すると首里の阿氏に山元姓がいるようです。
このへんはさっぱりわかりませんよ...

若狭の大和人墓地

「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」に「日本名勝地誌 第11編」という本があり、以下画像すべてデジタル書庫からダウンロードし画像加工した物です。
まず表紙。

日本名勝地誌 第11編/博文館/田山 花袋∥編/1901(明治34).12
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50104


ほうほう。校正なので内容のあれこれには花袋は関わっていないでしょうね。
1899年(明治32年)に結婚し、大橋乙羽の紹介で博文館に勤務し、校正を業とする。
田山花袋 - Wikipedia


そして話は上の画像(p46)なんですが、「本州人の墓地 若狭町村にあり、道を距てて天尊祠と相対す。」とあります。
下の地図画像詳細は那覇区全図(大4)を参照して下さい。

他府県人の葬式は、1882(明治15)年ごろ古賀辰四郎の先妻(善次氏母)が死亡した際日本式葬式(大和だび)が行われた。
当時他府県人の墓地は若狭町(西武門前山城産婦人科医院裏側)洪済寺境内に定められ、1885(明治18)年真和志村楚辺原の丘に寄留人の墓地として新たに制定されるまで、この若狭町の直堀り墓地に埋葬されたが、楚辺原(県立二中、現那覇高校の北側丘)に墓地が移され、俗に大和人墓と呼ばれた。
那覇市史 通史編2 p236
グダグダ(β) 大和だび(日本式葬式)


地図で赤い点で表示してあるのが山城産婦人科医院、その裏が洪済寺(青ポインタ)、波上宮側の赤いポインタが天尊廟(天尊祠)です。
道を距てて天尊祠と相対す。」とあるわけなんですが洪済寺とは道をへだてて相対していません。昭和10年代相当の「わかさ民俗地図」では天尊廟の向かいあたりには天理教になっています。

那覇民俗地図では洪済寺のそばあたりには「大和人墓跡」とありますが、天尊廟の向かいには天理教がありその他の表記はありません。裏には辻原墓地がありますが...
結論はありませんが、「日本名勝地誌 第11編/博文館」が何を参考にして書かれたのか、もしくは誰がこれを書いたのかがはっきりすればわかることなのかもしれません。

以下余談。
「日本名勝地誌 第11編」は「日本名勝地誌: 琉球之部」という名称で無料でGoogle Booksにもあります(Link)。
「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」は写真撮影画像で焼けた紙の色がそのままですが、Google Booksは白黒で文字も読みやすいです。

本土建設業者 2

本土建設業者の続きのようなもんです。
海洋博のときも内地業者は豪遊、現地妻他いろいろやってたようですがバブル時の土建業者ってのはやることが変わんないですな。

1946年の秋、米国ロサンゼルスのアトキンソン建設会社とアトランタのジョーンズ会社がジョイントベンチャー(共同請け負い)で米軍工兵部隊から米軍工事を一括して請け負い、それを沖縄業者に下請けさせたのが、沖縄の軍工事の始まりだったようだ。両者の頭文字をとってAJ時代という。兵舎、消防、劇場、診療所など小規模の施設が建設されていた。ほかに陸軍のポストエンジニアが沖縄業者に営繕工事を請け負わせ、業者の選択を琉球建設協会が依頼されたこともあった。

軍は那覇の泊一帯を資材集積所にして、資材を豊富に支給し、車両も貸し与えるという持てる国ならではの、ぜいたくな工事をさせた。必要経費に一定の利潤を保障するやり方で契約も行われた。ある沖縄業者は、借りた車両で糸満、那覇間の人員輸送をしてかせいでいた。水増し請求した資材で首里に劇場をたてた人もある。工事をちゃんとやって帳簿さえ合わしておけば、そういう芸当もできたのである。その後、軍側ではDEが工事を発注した。1949年末から日本本土の土建業者が大挙来島して、軍工事ブームをおこした。一部の幹部は高級車を乗り回し、現地妻をはべらかしての大尽ぐらし。よるともなれば地下足袋のままで桜坂バー街を肩で風を切って歩き、料亭にカネの雨を降らせたといわれた。
与那原良和氏談
沖縄の証言 激動の25年誌(上)/沖縄タイムス社 p286、287(抜粋と編集)


DEはエンジニアデポー? それともOKINAWA ENGINEER DISTRICT
参考:グダグダ(β) Atkinson Jones Construction Company

ネイビーによる建設のようす。
HyperWar: Building the Navy's Bases in World War II Chapter XXX Okinawa
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/Building_Bases/bases-30.html

沖縄旗


1950年に発表されたが、住民の関心が得られなかったため、琉球列島米国軍政府は「琉球の統合政府ができてから決める」と声明を出した。そして後継の琉球政府に引き継がれることもなく、そのまま幻の旗になってしまった。
沖縄旗 - Wikipedia


琉球政府に移行する前のゴタゴタですね。
この旗をめぐって面白い話があったので引用しておきます。

知事になった志喜屋[孝信]さんに米軍政府が乗用車を提供した。最初はジープだったと思う。ところがジープはワンサとあり軍用か知事の車かまぎらわしい。で、あるパーティーの席上、軍政官のロートンという大佐が「一つ、知事の旗をつくったらどうか」と提案したと聞いている。米軍の将官も車に旗をたてる。それに知事もならえばいいじゃないかということだったと思う。ところが施政者と対等となれば、知事の旗が国旗的な性格をおびてくる。それに志喜屋さん、副知事の又吉康和さんらも張り切られて、知事旗が国旗へエスカレートしてしまった。実際に通訳した方々に聞いてみないと明言はできないが、真相はそういったものだろう。美術家協会には知事官房から正式に依頼があった。知事旗をつくってもらいたいが、国旗になるかも知れぬから、そのつもりで、という。おっかなびっくりで引き受けたものだ。沖縄は、とうとう独立するのか、と心配もした。そのころ、中国帰属論も耳にして、やれやれ中国の領土になるのか、とわたしたちは少なからず憂うつだった。信託統治がどういうものか - 法律知識のないわたしたちも関心を持って、おぼろげながらわかりかけていた。信託統治には、その地域を将来、独立させる前提があるらしい。国旗をつくるのも、その準備かも知れぬ、とわたしたちは想像した。
おっかなびっくりで製作/山元恵一氏談 p257、258

美術村では、まず国旗のデザイン分類からはじめた。世界中の国旗を大別すると、ヨコに三色等分したのが30余、タテに割ったのが約20、十字のノルウェー型が7、米国旗のように星をあしらったもの9、ほかに日本をふくめて単独模様が2、3ある。沖縄が、そのうちどれをとるにしても、そっくり真似るわけにはいかない。といって余りにローカルをねらえば世界に押し出すのに力は弱くなる。船舶旗に面白いものがあるが、うっかりすると天気予報の旗と区別できない。尚家の左御紋も一案ではあるが、ナチのハーケンクロイツを連想させるので面白くない。 p255、256

沖縄旗を左御紋にしようと言い出したのは護得久朝章氏(当時、沖縄民政府財政部長)そうなれば尚家の人を知事に推さないといかんじゃないか、とカンカンガクガク、ついに取り止めとなった。
護得久氏が左御紋を提唱/松岡政保氏談 p259

沖縄の証言 激動の25年誌(上)/沖縄タイムス社 1971年発行 (抜粋と編集)


へたしたら左御紋になってた可能性もあったわけですね。
だけどこれは尚家(向家)の人しか言い出せない話ですわな(笑)。

王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。
琉球王国 - Wikipedia

泊の菓子店

「泊人の足跡」から菓子店の項目を抜粋します。

泊での菓子店の始まりは、高橋町1ノ1の仲井真だといわれているが確かなことは不詳。
花ボール2銭、タンナハクルー1銭、焼饅頭2〜5銭、カスガ煎餅一斤25銭、クンペン2〜3銭、巻ガン2〜5銭、コーガーシ3〜5銭
---
山田義牛(明治27年生)、祖慶良昌(明治29年生)、知念正功(明治35年生)、仲井真カマド(明治12年生、昭和12年没)、真栄田義郎、屋良朝亀、潮平、富浜、島袋(饅頭専門)、金城(饅頭専門)
泊人の足跡/松村興勝 p60、61(抜粋と編集)


高橋町は現在の泊の海側で、58号線を境に外人墓地側の通称新屋敷が2丁目、崇元寺側が1丁目になります。
参考:グダグダ(β) 旧町名の番地

花ボールとクンペン。
参考:花ボウル - Wikipedia
参考:クンペン - Wikipedia

巻ガンはなんのことかと思ったらあれでした。これはどら焼きみたいな感じですね。

画像はhttp://ataidayori.exblog.jp/12285279/から(無断拝借失礼)。

引用の「コーガーシ」はコーグヮーシで落雁です。
コーグヮーシ/菓子名。落雁。米粉に砂糖を入れて、花形に作った菓子。大きな蓮の花形のものは法事に用いられる。また、小さな桜の花形のものは正月に茶請けなどに出される。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50666

方言の発音をどのように表記するかというのは延々と続く悩みで各個人の解釈でさまざまな表記のしかたがあります。だけども「コーガーシ」「コーグヮーシ」はわかりますが「コーガーシー」はないんじゃないかと...
コーガーシ - Google 検索
コーガーシー - Google 検索
コーグヮーシ - Google 検索
那覇市史資料編第2巻中の7(p323)によると千寿糕(センジュコウ)の糕と同じ字で「糕菓子」と書き、読みは「コーウクヮーシ」のようですから末尾はどうやっても伸びないんじゃないかと思いますが。

泊の鍛冶屋

タイトルとは違って泊出身者なのか泊で営業していたのかの区別はつきませんが、これは引用元の「泊人の足跡」の性質に由来します。
そのへんご注意頂きたい。

昭和に入ってからの鍛冶屋は平民士族の別なく、泊や上之屋、久茂地2丁目(普嘉路)にあった。なかでも久茂地2丁目は鍛冶職が多く、再生時は17、8軒もあって、一名その通りを「カンジャー小路」とよんでいた。農機具の製作は機械によらぬ手製で、ふいごを使うのは女性(親方の妻)か見習少年で、親方と相対する「メーウチ」が呼吸を合わせて、「トンテンカン」と刃物や農具の製作に汗を流したものであった。庖丁などは竹の葉型の家庭用「チリバン庖丁」、「ワーサー庖丁」などいろいろあったが、この庖丁は一名「ヒジュルムン」(冷たき物)といわれていた。
---
庖丁上一本50銭、鎌一本20銭、ヒーラ一本20銭
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島袋次郎(明治生)、石川清喜(明治44生)、崎山嗣郎(明治生)、島袋亀(明治生)、崎山嗣光(明治生)、田場次郎(明治生)
石川松助 大正6年生、戦後寄宮で経営
吉浜朝吉 大正6年生、吉浜照訓弟、沖縄市で吉浜工業所経営
泊人の足跡/松村興勝 p58、59(抜粋と編集)


ワーサーはウヮーサーでしょうか。
ウヮーサー/屠殺業者。主として豚を屠殺する者をいう。牛を屠殺する者を特にさす場合は、ウシ ウヮーサー usiwaasjaa という。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN45011


チリバンボーチャー/たばこを切る包丁。普通の包丁よりもずっと大きい。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN21532


鍛冶屋というと刀鍛冶のような手打ちの作業を思い浮かべますが、戦前の鍛冶屋と称される仕事には鉄工所も含まれていますし動力を導入している所もあります。
この辺を区別して考えてしまうのは自分も刀鍛冶のイメージが強くあるせいですね...

グダグダ(β) 上之屋通りグダグダ(β) 上之屋の鍛冶屋 (崎山カジヤ二つと石川カジヤ)
グダグダ(β) 鍛冶屋 (旧那覇市内の鍛冶屋など)

泊の風呂屋

今でこそ建築様式の変化で自家風呂が多くなっているが、それでも自家風呂のない人は銭湯(風呂屋)を利用している。
その銭湯の営業が沖縄で始まったのは明治23(1890)年3月で、泊では新屋敷の「ンナト(港)」の新崎が風呂屋をはじめたといわれる。この風呂屋に次いで、泊市場の南西に湯屋ができたのは明治の後期であると思うが、年配の人は記憶にあることと思う。
新崎の風呂屋について松茂良カメ(90)が語るところによると、彼女の若い頃新崎の湯屋で入浴したが、当時入浴に女性は着物を一枚持参し、入浴は「バサー」を着て浴槽に入り、同じ女性同士でも全裸を見せないようにしたという。また武士松茂良興作も、入浴にこの湯屋へ出入りしたそうである。
---
石川逢篤渡口武富山田ウシ(昭和42年没/80歳)、玉城(屋号 タケモト)、宮城(瑞慶覧の斜向い)、佐久川長吉(沖縄戦まで営業)、佐久川長栄(現前島小学校隣にて営業 佐久川長吉の子息)
新崎興佑 安政3年生、泊の湯屋の始まりといわれるンナトゥの新崎、大正3年没
親泊英錦 泊市場の南門、隣りに泊郵便局があったが火事で焼失
泊人の足跡/松村興勝 p167、168(抜粋と編集)


この本の発行は1985(昭和60)年です。
バサーは芭蕉布の着物ですが「バサー 着物」で検索するとエイサー衣装と認識されているような... 本物は現在高級品ですから手にとる機会も庶民にはほとんどないでしょうけども...

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