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床屋の広告

開業広告
今般左記之処ニ理髪舗新築ノ上去貳拾伍日ヨリ開業致候ニ付何卒陸續御来車アラン事ヲ奉希上候
追而技術ハ高等的懇切叮寧ヲ旨トシ消毒は最モ厳重ニ施行シ萬事十分ノ勉強可致候
那覇区善興寺突當り
朝日床 主人謹白
四方各
沖縄新聞 1910(明43)年1月9日


一般衛生の為め過般店を京阪風に改造し且つ新式の椅子を輸入して理髪消毒に一層勉強仕り候
薩摩床 電話202番
沖縄新聞 1911(明44)年3月25日


床屋の広告です。
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国際ショッピングセンターのテナント

ゼンリン地図から国際ショッピングセンター内の店舗名を抜き出してみました(同じ名前が二つあるのは間違いではありません)。
下図はショッピングセンターの一階を簡単に描いたもので、店舗名の順番は上(北)から右手(東)を壁沿いにぐるっと回り入口に戻ったところで中央のエスカレータ(赤)両脇に進むようになっています。各階で微妙に配置が違っていますがだいたいは同じです。

※写真は国土交通省のものです(昭和52年)。
http://nrb-www.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

国際ショッピングセンターの歴史や写真などは下記アドレスが参考になります。
http://www.zukeran.org/shin/d/2011/11/02/kokusai-shopping-center/

銘苅の稲作

わずかな言及ですが書き留めておきます。

戦前の銘苅地域は、戸数130戸、人口610人、総面積234462坪であった。また小字別の土地利用については別表のとおりである。王国時代は公租の関係から米作が基本であったが、近代(明治期)以降、換金作物としてサトウキビ栽培が主流となり、銘苅地域でも稲作から畑作への転用が進められたと思われる。戦前同地域(小字多和田)に居住していた人の話では、稲作は大湾ガーラ一帯のわずかな場所で行われていたとのことである、宅地は銘苅・宇久増・港川・名護松尾の各小字に偏っており、いわゆる「散村」の形態が見られる。港川・名護松尾の2小字は他地域よりも墓敷地が多いところである。
銘苅古墓群 (2007年) p113(抜粋と編集)

多和田川

散村と集村ですが昔からある村はだいたい集村になっています。左が上間、右が与儀。
上間(当り原)与儀集落
銘苅はこのような碁盤状の集落はなく、道沿いに家が並んでいるような感じです(那覇新都心物語の「旧銘苅民俗地図」参照)。

ボーシチャナー

ボーシチャナー
自由労働者。棒を敷く者の意。棒のみを持ち、それを下に敷いて雇う者を待つことからこういった。葬式のときには死人を弔い、遺体や造花を持つ。賎業とされた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51559


この項目についてはさっぱりわかりません...
田舎の共同体で自由労働者はありえなかったと思いますし、借金による身売り、あるいは小作人や日雇いなどとはニュアンスが違うように思えます。やはり都市部での話ではないかと。龕を担ぐのは田舎であれば平民の普通の若者がやっていたわけですし。

貧乏人が社会構造的に賎業へとはじき飛ばされたことや、癩病患者が「業病」とされて蔑視されていたのは過去に取り上げましたが、ボーシチャナーがどういう人達であったのかは(自分は今のところ)わかりません。

【追記】「沖縄物語/古波蔵保好」でボーシチャナーに触れている箇所がありましたのでそちらを参照して下さい。

参考:グダグダ(β) 那覇の細民
参考:グダグダ(β) 東寿寺(堂小)
参考:グダグダ(β) バクチャヤーとクンチャー

戦後初期の本屋(作業中)

戦後の本屋がどんな感じだったのかはわかっていないのですが文献などにでてくる記述等をまとめてみたいと思います。雑多な項目になるかとは思いますが...

1948年 牧志に初の書店幸地、松尾に貸本山田 /戦後の沖縄世相史 p35

幸地長順(幸地書店)は戦前から書店経営、戦後は1947年に石川で貸本屋を開業し後に那覇へ移転。
松尾の貸本屋は山田親度経営で1949年7月7日に開店(のち閉店)、1949年12月に牧志で球陽堂を開店する(国際通り物語)。

仲井真元楷は47年3月、松尾の高台に那覇最初の劇場を建てた。48年、新栄通り会長となる。当初はゲタ・線香・野菜をほそぼそと売っていた。50年12月の新聞には「新栄通り 仲井真書店」とある。
戦後の沖縄世相史 p32


50年4月、土地所有権が公布されると商店の建築ラッシュが続いた。神里原通りに雑貨店44軒、飲食店・料理屋が11軒、洋裁店9軒、美容店7軒ほか書店・衣料店・製氷店・旅館・金物店・畳店・ビンゴ屋・湯屋・ダンスホールなどが100軒あまりあり、裏通りにも100軒余の商店が軒を並べる。
戦後の沖縄世相史 p36


沖縄の書店の創業年月を見ると、1950(昭和25)年前後に営業を始めているのが多い。文教図書、みつや書店、高良書店、崎間書店、せんき書店(後の3店は国際ショッピングセンターから牧志郵便局間で営業していたが、いずれも7〜10年前に閉店)などがこの頃の創業である。
「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」 1998年発行p86


安村書店、浦崎書店(第一図表/市場本通り)、屋宜書店、文楽堂書店、みつや書店分店(第二図表/市場通り)、花井書店(第三図表/新栄橋通り)、仲井真書店(第四図表/新栄橋通り)、仲地書店、幸地書店(第五図表/牧志大通り)、球陽堂書房(第六図表/牧志大通り)、みつや書店(第十二図表/浮島通り)、みやざと書房、松山書店(第十三図表/樋川大通り)、太陽堂(第十六図表/神里原商店街)、文林堂(第十七図表/神里原商店街)、盛光堂書店(第二十二図表/沖縄劇場通り)
※○○書店のようにはっきりわかるもののみ(○○堂などは未抜粋)
沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)


みつや書店(第五図/浮島通り)、球陽堂書房、新星堂書房(第六図/国際大通り)、仲地書店、幸地書店(第九図/国際大通り)、安村書店(第十六図/市場通り)、浦崎書店、(第十七図/市場通り)、振興堂書房(第二十七図/新栄通り)、百編堂書店(第二十八図/新栄通り)、松山書店、開南書店(第三十図/樋川大通り)、博賢書店(第三十二図/神里原中央通り)、沖縄書籍(第三十四図/バス道路[神里原])、城岳書店(第三十六図/刑務所通り)、威光堂書店(第三十八図/沖縄劇場通り)、三原書店(第四十図/三原区4班)
※○○書店のようにはっきりわかるもののみ(○○堂などは未抜粋)
沖縄主要地主要商工年鑑(1952)


63年の琉球商工会議所会員名簿から。
安木屋書店/安仁屋雅一[牧志]、琉球文教図書/當銘由金[美栄橋]、かねこ書店/新垣雅一[那覇市若松橋前]、太陽堂書房/平田綾子[那覇市1区25班]、安村書店/安村善太郎[牧志]、幸地書店/幸地長順[那覇市4区9組]、荒城書店/花城安正[那覇市6区16組]、球陽堂書房/山田親度[牧志]、沖教販/真栄城玄明[美栄橋町1丁目20]、みつや書店/饒平名知寛[那覇市6区17組]、崎間書店/崎間麗詮[牧志]

戦後の自動車運転教習所

戦後すぐの運転免許で古波鮫唯成さんが現那覇市役所の敷地で教習を受けたことを取り上げました。
那覇市役所は65年に現在位置に移る以前は天妃小にあり、現那覇市役所の位置はバスターミナルだった時期もあります(現在のバスターミナル建設以前)。
時期的には国際通りの拡張(54年)が終わり、そこにあったバス会社の営業所が移動を余儀なくされて移動したということになるかと思います。そこから想像するならば教習所があったのは終戦〜54年までの間の一時期であろうと思われます。
残念ながら古波鮫唯成さんの手記以外には現那覇市役所敷地で自動車教習所があった記録や市内の他の教習所がいつ頃できたのかは調べられていませんが、「新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社(1957)」に那覇市役所の位置がバスターミナルとなっている写真があり、同じ写真をまちのたね通信で見ることができます。

那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/県庁前交差点(琉球政府、バスターミナル)/1954年頃
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1853


古波鮫さんの話に出ている米軍交付の免許と沖縄側による免許は戦後しばらく両立していたらしいのですが、運転技術の差に問題があったため1953年以降は民間人は琉球警察のものに一本化されたようです。
また当初は1946年4月から民政府工務部陸運課において試験を実施して有効期限5年の免許証を交付していました。
参考:グダグダ(β) 自動車運転免許

1950年頃から始まった企業として自動車教習所という未確認のものがあるのですが、戦後経済のスタートがそのころですから事実である可能性は高いと思われます。
沖縄大百科事典による自動車教習所の説明では1953(昭和28)年頃から那覇に2ヶ所(安謝・首里)教習所ができたそうです。

この項目はいったんここまでにして、50年代くらいまでの自動車教習所は個別に調べていきたいと思います。

パチンコ屋の出現

比嘉朝進さんの「戦後の沖縄世相史」から。

昨年[1953年]6月1日、パチンコの許可制で80軒が開店した。スラブマシン(スロットマシン)は、ハーバービュークラブやVFWクラブで、コインを入れてガチャガチャやっていた。今年頃から軍払い下げ品で市中の営業が始まった。
今年[1954年]はゴルフ・ゲーム屋も現れた。昨年はコリントゲーム屋・玉転し屋・セラトゲーム屋が開店。50年にできたビンゴ屋はかすんでしまった。遊技場は166軒が営業している。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p64(省略と編集)


50年代の住所録にはパチンコ店もあり代表者名もありますが沖縄の姓だったと記憶しています。内地との関連等はわかりません。スロットマシンは基地からというのも良く言われることです。
たから百貨店では1969年のゼンリン地図を参考にしてむつみ橋周辺の図を作りました。
むつみ橋付近図
この図でオレンジ色で示されているのがパチンコ店やラッキーボールです。このほかにもゲームハウスという名前もありますが図には書いてありません。
検索してみるとコリントゲームはパチンコの原型のような野球盤のようなもの、セラトゲームは検索しても該当無し、ラッキーボウルは玉を転がしてやるビンゴゲームのようなものか? こうしてみるとゲームハウスはこのような遊戯機械があった可能性もありますね。

参考:グダグダ(β) ビンゴハウス (1952年の新商売として名前の見えるビンゴハウス)
参考:グダグダ(β) 神里原通り (こちらにもビンゴ屋の名前が見える)

病院通り(牧志)

病院通りといえば久茂地だと思ってしまいますが、那覇タワー前の通りもかつて病院通りと呼ばれていたようです。
むつみ橋付近図

那覇まちのたね通信 | 那覇 歳末風景 南映劇場
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=798


上のまちのたね通信での写真の時期は「1964年12月」となっています。最初の図は1969年のゼンリン地図を参考にしたものですが病院などは書いてありません。
ここで病院通りにあった病院名を抜出してみます。
国際通りから入って左手には武富歯科、渡嘉敷医院、稲福医院、外間眼科、崎浜産婦人科、山里医院。右手には宮城医院、大見医院があります。

以下余談。
写真で通り入口右手の建物に「十」という字が取られたような跡が見えます。

65年の地図ではこの場所は「十文字屋」と「朝日商会」になっています。69年の地図では「(建)」となっていますので建築中だと思われます。
1957年撮影の写真にはこの場所で営業している十文字屋が見えます。

那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り 牧志付近
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1987

>「那覇市歴史資料室収集写真/戦後/オリオンビール発売1周年の垂れ幕が見える/(1957/05)
>オリオンビール発売1周年の旗を掲げたパレード
>山形屋,カクイわた,十文字屋呉服店,CLUB TAIHO,大宝館,UP STAIRS GIFT SHOP


十文字屋呉服店は57年にはここで営業していて64年には山形屋斜め向かいの現在位置に移転(地図は反映が遅い?)してたと思われます。
そしておそらくこの建物は69年には取り壊されていたのでしょう。

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