1963年の市民の友の座談会の最後の部分から抜粋します。
連続して取り上げて来たんですが、一般的な話に終始しているので取り上げなかった部分もあります。
復興の基礎は都計
埋立で頑張った重民さん
[真栄田]都市計画の裏付けをやったのは当間重民さんですよね。
[一同]そう。
[真栄田]辻原の墓地整理や泊の埋立てを思い切ってやった。それが那覇市の発展を約束したようなものでした。シーツ長官の時でしたが、当時の軍政府に交渉して政府は埋立地をとろうとした。それで重民さんは社大党から脱党して頑張った。
[新垣]当時は、みんな社大党で、市職員も殆どそうでした。
[真栄田]埋立地や港湾も政府がとりあげるということだったがやがて市に譲渡するということになり、みんな万歳を叫んだが重民さんは涙で声も出ないほどでした。
[新垣]那覇市の復興は重民、康和、重剛の三代で基礎ができたようなものだ。
[長嶺]小禄は戦後、高良に閉じ込められていた。多くの土地が軍用地にとられましたね。
保存したかった首里城
[儀武]首里は地域的にも遊園地が適当だと考えて、観音堂付近の岩を割るのをやめさせたことありましたよね。
[徳田]首里城がなくなったのはなんとしても痛恨ごとですね。
[儀武]首里城の保存ということでほんとに惜しい。末吉は風景がいいので遊園地にしようと思ったんですが…。 今のうちなんとかしたいもんですね。
[古堅]地主がはっきりしませんね。
[儀武]那覇市は沖縄の首都として、今後の問題は市庁舎の建築ですね。
[古堅]来る議会に提案します。
[儀武]バージヤ長官の時でしたか市庁舎をつくってやろうかということでしたが。
[真栄田]市役所は戦後今の市場にカバ屋で出発、元開南小学校跡から4区のグランド・オリオン通り、それから今の天妃校あと、五回目には立派な、大きな庁舎をつくるべきですね。那覇は戦争で灰燼に帰したんだから、造ってやろうといっていた。アメリカの援助をあおいだらよい。
[新垣]バージャー長官もシーツ長官もそういっていたんだから。今でも変わりないと思う。
[徳田]有意義なお話をお伺いしました。それではこれで終わります。ありがとうございました。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)「
那覇市の復興は重民、康和、重剛の三代で基礎ができたようなものだ」は昭和24(1949)年から31(1956)年までの期間ですね。
当間 重民 S24.12 - S27.2
又吉 康和 S27.3 - S28.9
当間 重剛 S28.11 - S31.11
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm>市役所は戦後今の市場にカバ屋で出発、元開南小学校跡から4区のグランド・オリオン通り、それから今の天妃校あと、五回目には立派な、大きな庁舎をつくるべきですね。カバ屋はテント小屋です。
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