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玉陵問題

玉陵は60年代に学生センターになる可能性があったのですが回避されています。その関連記事を抜出してみます。

聖公会の学生センター建設決まる/玉陵一帯の千坪に/那覇市が建築申請確認
那覇市建築家は、このほど市内字大道宗教法人沖縄聖公会からだされた首里玉陵の学生センター建築申請を確認した。

沖縄聖公会が一昨年、日・米聖公会と協力し、世界組織の一貫として学生センターの建設を計画▽琉大にちかく授業の合間や終了後にも利用できる▽学徒の修養にふさわしい静かな場所▽最小限千坪以上の土地を必要とするといったことから玉陵を候補地にあげ、敷地を買い取ったが、郷土の文化を守る会(山田真山会長)らからこの計画にものいいがついて三年らいもめ続けた。

(略)60年10月全会一致で玉陵への学生センター設置反対を決議した那覇市会へ玉陵保全の陳情をした。これと前後して沖縄聖公会、琉大学生会も那覇市会へ学生センター設置陳情するなど、争いは市会へもちこまれこれまで審査を続けていた。この建築確認は、政府のすすめによるもので、技術的基準にふれない限り建築確認を拒否することはできない。つまり学生センターの設置を拒否する法的根拠がないという。(略)
“円満解決を”
沖縄文化を守る会会長山田真山氏の話
  わたしたちは聖公会の学生センター教会設置には賛成で喜んでいる。ただ沖縄の特別重要文化財である王様の墓地が傷つけられることは、将来沖縄の文化財に大きな損失で残念なことであり、反対している。できるだけことを円満に解決するためちかく幹部が集まって聖公会に直接お願いし、お互いに損害のないようにしていきたい。聖公会としてはすでに土地も買い上げたようであるが、その点一般住民にも呼びかけ、他に土地を求めるように聖公会にお願いする。
沖縄タイムス 1962年4月25日
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学生センター建設に反対/那覇市総務委/「文化を守る会」を支持
琉球新報 1962年5月11日
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玉陵保全陳情など/けさ那覇市会で採択
(略)なお3月の定例議会から継続審査になっていた玉陵保全の陳情は郷土の文化遺産を守るという建て前から全会一致で採択。沖縄聖公会の学生センター設置陳情、琉大学生会から出た学生センター設置陳情はそれぞれとりあげなかった。
沖縄タイムス 1962年6月27日
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政府が買い上げ/玉陵敷地/二年九ヶ月ぶり解決
政府は25日博物館敷地として玉陵の聖公会の学生センター敷地1117坪を正式に買い上げた。契約は副主席室で行われ、政府から瀬菜が副主席、文化財保護委員会荻堂事務局長、文教局大宜味社会教育課長、聖公会からハイオ主任司祭、儀武息茂弁護士が出席した。
契約金額は27000ドルで、政府は尚詮氏らから寄付金3000ドル、博物館敷地買い入れ資金6000ドルのほか、工業高校拡張費からもふりわけることになっている。
これで玉陵問題は文化財保護委員会に持ち出されてから二年九ヶ月ぶりで解決したわけ。(略)
沖縄タイムス 1962年9月26日


尚家の土地であっただろう玉陵が売買されているというのは不思議な気がします。しかし尚家も金を出し、各種予算を切り崩して対応しているというのはあわてたんでしょうね。
ちなみに復帰前の玉陵は荒れ果てていました。その後整備され、首里城建設あたりでもう一度きれいにしたかと思います。

参考:玉陵 - Wikipedia
那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/玉陵/尚円王統歴代の陵墓
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3312

那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/崩壊した玉陵(尚円王統歴代の陵墓)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3311

那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/荒廃した玉陵/尚円王統歴代の陵墓
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3088

那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/玉陵/尚円王統歴代の陵墓
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3087
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新庁舎落成座談会 2

新庁舎落成座談会の続き。

大城/那覇市民はどうしたものか。昔からナーハイバイのようですね。
長嶺/たしかに団結心はまだまだといえる。
当間/みんないっぱしのサムライと思っているのだろう。偉い人が何かいうと、すぐ「クサムニーシ」とくる。
本社/戦前は「那覇気質」が強かったようですが、長嶺さん、那覇の外部にいての感じはどうでしたか。
長嶺/ぼくなんか、ナーハンチュはこわかったよ。よくソーミナー(メジロ)取りが小禄に来て、屋敷内を荒らしまわっていたが、みんな「ナーハンチュ」とおそれいったものだ。
当間/サムライとしては、下の方だったので、いなかにいってあばれていたんだな。
山里/那覇市内でも「トマインチュ」「クニンラー」などと派閥があったくらいだからな。中でも泉崎だけは、本島につながっているため「はしうち」だといって大いばりしていたな。ほかは浮き島のため、外地人だなんていってね。
当間/しかしまあ、よくもあんなちっぽけな市でわいわいしたもんだ。10・10空襲で焼け野が原になった那覇市を見たらほんの一つかみしかないのでびっくりした。

本社/戦前の偉人、奇人伝をひとつ...。
大城/当時の三代偉人としては漢那[憲和]少将、岸本[賀昌]参事官、伊波[普猷]文学士の三人がよくいわれましたね。岸本参事官の子どもには「参事官の太郎」と呼び、二代目までもてはやされていた。
当間/参事官といったって、内容は琉球政府の参事官みたいなものさ。
長嶺/要するに、部長候補生といったものだな。たしかに頭脳はあったんでしょうな。
当間/山田真山さんも都計の仕事かなんかで役所にいたことがあるが、「500円の月給ではオレの三日間の生活費しかない」とタンカを切ったりして上司をおどろかせたものだ。とにかく名物男だった。
山里/山田さんの金の使いっぷりは、たしかに見事だった。
琉球新報 1965年9月17日[那覇市議会史p386から抜粋] (抜粋と編集)


参考:岸本賀昌 - Wikipedia
参考:漢那憲和 - Wikipedia

当間重剛さんも士族だったと思うのですがばっさり切ってますね(笑)。
湧田は「はしうち(橋内)」の気取りが鼻につくので那覇人はサバカチと言っています。

東ボンボロー、西ハーガー、久米村(クニンダ)ビタタイ、湧田サバカチ、久茂地ヌヰー、若狭町サラグヮー、壺川ホーホー、泊マースー、垣花ヒヨー。
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湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
グダグダ(β) 那覇人気質 2

新庁舎落成座談会

琉球新報の1965(昭和40)年9月17日に当間重剛を交えた座談会が掲載されていたので抜粋してみたいと思います。

本社[琉球新報]/当時の市長選挙はどんなものでしたか。
当間重剛/区会議員が指名して、内務大臣を通して天皇までいった。任命権は一応、天皇だった。
大城朝亮/戦前の市長はいまの市長より格は上だったわけですね。
本社/今の主席と同じですね。
当間/当時は選挙権も多額納税者のごく一部にしかなかった。だから「税金を上げてくれ」という人も多かった。「対外的信用」ってわけさ。せいぜい十何票も取れば、議員に当選できた。
長嶺秋夫/いまもそうあってほしいですね。その方が銀行からの借り入れもしやすくなる。
本社/ところで、こんどの完成した新庁舎ですが、本土の類似市に持っていくとどうですか。
長嶺/人口が30万以下の都市としては、いい方だ。同クラスの市では、那覇市におよぶものはちょっとない。もっとも45万人を目標に、あすの大那覇市にそなえて建設してあるわけだから...。
当間/じゅうぶんスペースもとられており、いい庁舎だ。しょっちゅう作りかえるわけにもいかんし、そのくらいはあったほうがいい。

本社/当間さん、そのころの市政について一つ...。
当間/ノンキなものだった。戸籍課の職員等、タバコぼんを前にキセルをポンポンたたきながら、市民と対応していたよ。市民の方がペコペコ頭を下げてね。
山里永吉/あのころは、公僕なんていう精神がまるっきりなかったからね。なにしろナハンチュ(那覇人)の最高の出世は、役所吏員になることだった。
当間/ぼくが、役所にはいったころは出勤簿等もめちゃくちゃだった。欠勤しても「欠勤」とはしなかった。「所労(しょろう)」疲れておりますということで堂々たるものだった。
山里/新聞記者もノンキなもので、ゲタバキ、ユカタ姿でゆうゆうと市長室をカッポしていた。
琉球新報 1965年9月17日[那覇市議会史p386から抜粋]


出席者は以下。
当間重剛/ラジオ沖縄社長/元那覇市長/元主席 1895(明治28)年生
長嶺秋夫/立法院議長 1908(明治41)年生?
山里永吉/琉球文化連盟副会長 1902(明治35)生
大城朝亮/那覇市教育委員

波の上外人バー街

波の上外人バー街
テケテケテケ・・・・とネオンの巷にエレキギターの音もけたたましく鳴りひびく、点滅するネオンは、エレキで踊っている風に見える。波の上バー街は、ジュークボックスがだんだん姿を消していく。最近はバンドがつかない店には、客もあまりつかなくなった。時代の流れであろう。
この波の上は、昔は観月、納涼などから海水浴場として知られる波の上宮の近くにあり、東支那海の波が岩をかみ、風光明媚なところ。そしてその近くはその昔辻遊廓があったが今は外人バー街と変って観光客向けの料亭やアメリカ人専用の歓楽街となっている。
そして戦後23年目にして、外人バー街も、化粧直しといった感じで、エレキバンドがテケテケテケと客をよんでいる。
『AOI』という店をのぞくと、カウンターを背にして、盃をかたむけている客をみて「世も変わりつつあり…」と感嘆する。Aサインバーが80軒ほどあるが、その中の10軒がバンドをつけて客のサービスに答えている。女・酒・音楽ということなのでああろう。外人も興味が現代的になったものである。
---
楽しませてくれる酒場は、なかなかありえない。
ホステスがすばらしいから寄ってもみるのだが、どうもムードが、そぐわない。どうも音楽が耳ざわりだ…というた不福にぶつかるものだ。ホステス・酒・音楽 etc…とにかく最高でなければ夜の時間が惜しい。
さて、クラブ、AOI(葵)へご案内しよう。ところは波の上歓楽街。
波の上の中心街にあり“AOI”のネオンはあなたを招いている。美女とエレキバンド、高級ウイスキー、とにかく最高づくめ、軍資金はポケットマネーでまにあう。
新しい沖縄/沖縄グラビア社 (1969年5月発行)


観光客向けの冊子のようでページ数の表記もありません。見開き2ページには外のネオン、外人のいる店内、舞台にいるバンドなどの写真が掲載されています。
ネオンのある通りの写真はコザ辺りの裏通りのような感じです。

瓦工とムチゼーク(漆喰左官)

屋根獅子の歴史紹介のサイトから。

まづ、その発生に因んで、明治以降瓦葺の家屋が増加するにつれ、壺屋の荒焼窯の職人達の中から瓦工へ転業するものがあった(小橋川永仁氏)ということに注目します。というのは、この職人達が瓦葺のムチゼーク(漆喰左官)を兼ねて、各地で漆喰製塑像をつくりはじめたと考えられるからです。
屋根獅子の様式、形式、素材 (抜粋)

http://www.zyyms.net/yanejisi3.htm

この4種類の窯は、それぞれ規模や形式の違うもので、上焼屋の窯は登窯様式の袋窯で、荒焼屋のそれは登窯様式のトンネル窯、窯小焼は荒焼窯の規模を小さくしたもの、また、アカムヌーの窯は今日の石灰を焼く窯の結構に似たものであったといわれています。
上焼窯はいうまでもなく釉薬のかかったものを焼き、今日でもその伝統は連綿として続いています。また荒焼窯は、今では一基だけしか残っていませんが、明治36年、7年頃にはその窯数およそ40にも及び隆盛をきわめていたとのことです。
この窯で焼かれたものは、方言で「カーミ」と呼ばれている穀物や酒、味噌などの貯蔵に用いられた素焼の壺類、水ガメ類等が主でありました。
ここで注目すべき点は、この窯こそ屋根獅子やお獄用の魔除獅子等が、注文によって、焼かれた窯であったということと、いまひとつは、時には屋根瓦を焼くこともあったという事実であります。
屋根獅子のつくり手 (抜粋)

http://www.zyyms.net/yanejisi4.htm


荒焼で作られていた屋根獅子が上焼で作られるようになる経過と、瓦の需要増での荒焼職人の瓦工への転身などですね。
壷屋の隣りにある牧志周辺には瓦窯や石灰窯があったようですが、これらは明治以降のことなのかもしれません。
参考:グダグダ(β) 島小(前島)

沖縄では古くから瓦をつくり、瓦屋根を葺き、それを漆喰で固めていく職人及び大方これ等の人々で構成されていた部落を、総括的に、又は個別に「からやー」と呼んでいます。
戦前は、その中で「那覇からやー」「首里からやー」がよく知られていました。那覇からやーは、今の那覇高等学校グラウンド西側にあった部落をさしているが、ほかに牧志部落にもあったようです。
首里からやーというのは、元来観音堂北側の大通り下の部落のことで、行政区画上は山川町になっている。首里にも、もう一つ鳥堀にからやーがあったらしく、どちらも首里からやーと呼ばれ、まぎらわしいのでこれと区別するため、翁長氏は自ら「観音堂からやー」と呼びならしているようです。
観音堂からやーは近年(戦後も含めて)まで部落のほとんどがこれらの職人で占められていたが、今では本職の職人は2、3名しか残っていません。この部落には、部落東端に瓦焼窯も残っていたといいます。年数にして今から55年位前だということで、大正の初期にあたります。
この事実からみて、この時期を前後する頃から「からやー」というこれまでの総合的な性格から、はっきりと職業的に瓦づくりと左官の分業がはじまったのではないかと考えられます。
したがって、漆喰製屋根獅子づくりのにない手は、それ以前は「からやー」と呼ばれた職人達で、それ以後は「ムチゼーク」と呼ばれている瓦葺屋根左官達であるといえます。勿論この二者は本質的には同一の職人なのです。
屋根獅子のつくり手 (抜粋)

http://www.zyyms.net/yanejisi4.htm


関連:グダグダ(β) 山川カラヤー

観音堂の交差点から細い道を下りてどこかの横道にはいると、瓦を積んであった記憶がありますが現在はどうなってるんでしょうか。那覇高校グラウンド西側の「那覇カラヤー」は手持ちの地図などには表示がありません。
【追記】見落していましたが県庁裏のあたりがカラヤーです(那覇民俗地図)。

屋根獅子

最近はポピュラーな工芸品扱いの漆喰獅子ですが新参士族や百姓の風習だったとは思いませんでした。
もともと屋根職人が余技的に作るものであまり価値などは認められていなかったとは聞いたことがあるのですが階級でわけられる風習だったんですねぇ...

屋根獅子
商家(新参や百姓)では魔除けとして屋根の正面に漆喰造りの獅子をのせ顔を戸口に向ける。譜代士族の家ではやらない。
那覇市史資料編第二巻中の7、p338


別箇所から。

[以上の記録などから判断すると、]最初から屋根獅子として考えられたものではなく、石獅子の魔力を借りて、我が家の魔除け火伏せに用いられないものかと考えた末に、ちょうど頃よく屋根瓦(赤瓦)が普及して来たので、屋根葺工の手によって思い思いの屋根獅子を作るようになったと考えるべきである。
この屋根獅子は那覇周辺に多く地方に行くにしたがって少なくなっている。先島地方ではほとんど見受けられなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p238


また下記ページを読んでみるとなかなか複雑なようです。

琉球の唐獅子
http://www.zyyms.net/yanejisi1.htm
屋根獅子の起こり
http://www.zyyms.net/yanejisi2.htm

那覇市の名字数上位60(78年) 2

那覇市の名字数上位60(78年)の続きです。

同じ名字の人が何人いるのか、このほど市のコンピュータがはじき出しました。それによると、名字総数は4651でいたって少なく、同一名字を名乗る人が最も多いのが、キンジョウで10919人、一人しかいない名字の方が何と1100人もいるなど興味深い結果が現れています。
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キンジョウ、ウエハラ、ヒガ、オオシロ、ミヤギの上位5つの名字を名乗る人はあわせて39518人。7人に1人は上位5つの名字のどれかを名乗っていることになります。
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また他府県からの人口流入を推測させるように「ワタナベ」名字が302位188人、「スズキ」が332位165人、「タカハシ」が342位155人、「コバヤシ」386位121人、「サイトウ」391位119人となっており、私たちが良く聞き慣れた「ヤブ」548位62人、「オオナカ」611位50人、「タガミ」631位46人よりも上位にランクされ人数も多いのが注目されています。
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1つの名字を名乗る人が1人しかいないのは1100人ですが、1つの名字を名乗るのが2人しかいない人は498人、3人しかいないのは408人、4人しかいないのは434人で、そのほとんどは「ハシダテ」「ホリゾノ」「モミノキ」「アブラヤ」など沖縄では聞き慣れない名字で、純粋に沖縄県内の名字は少ないようです。
市民の友 1978(昭和53)年 3月15日 第327号(抜粋と編集)


「ヤブ」さんは屋部さんもいますが、(殆どいないとは思いますが)一応薮さんもいますからね。「タガミ」って内地性では?
wikipediaによると「比嘉、金城、大城、宮城、新垣」が沖縄の上位5姓のようです。
参考:沖縄県の名字 - Wikipedia

1つの名字を名乗るのが2〜4名というのは(それだけではないとおもいますが)おそらく家族なのでしょうね。沖縄で結婚した内地出身者で沖縄県人の夫人、あるいは内地からの婿(少ないでしょうが)のケースが思い浮かびます。

明治に来た寄留商人には変わった姓の人も結構いますが、見かける事は殆どありません。西里さんがこんにゃく、新元さんがタオル、楠見さんが薬局などの商売で目立つくらいでしょうか。
少し前だと平尾さんが琉銀関係にいたり、昭和(戦後)の人事録では戦前の製糖関係者で内地姓の方が結構いました。
戦後に寄留商人たちがどうしたのかというのは少数を除いて調べきれていませんがゆっくり追っかけていきたいと思います。

那覇市の名字数上位60(78年)

市民の友1978(昭和53)年 第327号に名字のベスト60がありました。これはカタカナと数字だけのコンピュータからから漢字も使用できるものに切り替えるための資料の一つとしてまとめられたようです。
当時の那覇市の人口は293350(本庁93263、首里5073、小禄41033、真和志105091)で総世帯数が86745です。

1〜5
キンジョウ 10919/ウエハラ 8414/ヒガ 8370/オオシロ 7434/ミヤギ 7381
6〜10
アラカキ 5800/タイラ 5645/タマキ 3897/シマブクロ 3827/ナカムラ 3438
11〜15
アカミネ 3425/チネン 3414/タカラ 3375/ヤマシロ 3232/ミヤザト 3206
16〜20
テルヤ 3002/シロマ 2979/クニヨシ 2667/トウマ 2475/シンザト 2220
21〜25
シモジ 2197/スナガワ 2103/ナカソネ 1995/ウエチ 1983/カカズ 1958
26〜30
ナガミネ 1889/アサト 1847/シンジョウ 1809/ギマ 1625/トグチ 1818
31〜35
グシケン 1607/イシカワ 1588/マタヨシ 1540/ヨナミネ 1539/タマシロ 1456
36〜40
ナカマ 1425/マエダ 1419/ヨギ 1402/イトカズ 1352/ナカモト 1292
41〜45
ガナハ 1228/シヤヒラ[ママ] 1192/トウヤマ 1171/トカシキ 1161/ヨナハ 1145
46〜50
キナ 1138/タカエス 1137/オナガ 1118/ホカマ 1110/ヤマダ 1105
51〜55
ウエマ 1092/ナカザト 1068/オオミネ 1066/マツダ 1064/ウエズ 1060
56〜60
カワミツ 1038/グシ 1037/カミヤ 1015/イハ 988/トモリ 977
市民の友 1978(昭和53)年 3月15日 第327号(表から数字を抜出)


同じ記事で述べられていますが、同じ読みの異漢字、例えばトグチ<渡久地・渡口・渡具地>などの違いがわかりません。
その他にも新垣(シンガキ・アラカキ)、玉城(タマキ・タマシロ)の読みの違いも出てしまいますし、さらに新垣は異漢字の新嘉喜もいたりしますからさらにわからなくなります。

しかし地方に多い姓が結構見られますね。

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