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動力船と帆船

動力船と帆船の入港先について書かれてあったので抜粋します。

根路銘の平安丸(動力)
昭和6年に伊江島から船を買い入れ、平安丸と呼ばれた34、5トンの貨物船である。昭和7年から大宜味〜那覇間の運送をはじめた。村の産物を運び、生活必需品を運び協同売店に便宜を与えた。しかし昭和8年の夏に沈没事故が塩屋湾で起きた。(中略)船は毎月5往復、避難場所は塩屋港であった。那覇での津口は第二桟橋、渡地前である。上りの便の荷物はここで降ろされ目録通り売られた。
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根路銘の船の積荷
積み荷の主なものは、材木・木炭・松炭・便木(さらぎ)・センダン・ヤラブ・イクギチ・竹・柱木などと砂糖であった。商品の主なものは、米・豆・石油・油・大豆粕・袋入肥料・セメント・ダシ小箱・下駄包・文具類・紙包・豚・牛・木材の一切・豆腐ウス・酒徳利・瓦・昆布・茶・漆器・陶器類・反物・バーキ・ソーキ・ナベカマなどで、山原の日常生活用品はすべて積荷となった。
下り荷は各字の売店前に船をつけ、田嘉里では浜に陸揚し、馬車で売店へ運んだ。木炭の集散地は与那原、那覇では帆船を利用する泊港、動力先を利用する渡地であった。
なきじん研究14号 山原の津(港)と山原船/大宜味の港 p65(抜粋と編集)


渡地(通堂町)の桟橋は通堂町(昭和4)、薪については薪の運送を参照して下さい。
下り荷で肥料を持ち帰っていますが、寄留商人・地元商人を問わず肥料を扱っている商人は多いです。このブログ内で過去に取り上げた人をピックアップしてみます。

グダグダ(β) 喜屋武元持
グダグダ(β) 新里康毅
グダグダ(β) 新里康昌 (米穀肥料商/カネコ新里商店経営)
グダグダ(β) 小松琢次郎
グダグダ(β) 小牧薫 (旭町で肥料商)

新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成では「字西・字東を中心とする一帯には、寄留商人による大規模な米穀、呉服、雑貨の卸売店舗、本土商店の支舗、高級旅館、銀行、大通りに面しつつも敷地の狭小な箇所については飲食店が分布する。海に面する字西の埋地には、海運業者、材木業者、砂糖や肥料関係の移出入業者とその倉庫が集中」とあります。また「字久茂地には、電機会社や農場試験場、移民取扱所、染物所、パナマ帽工場、製材工場、樽製造工場、煙草工場などの工場が多いが、久茂地川に沿った立地に起因するであろう」とありますが砂糖樽用の木材なども山原からのものです。
山原産出の木材等を陸揚げし、生活必要物資を購入するには那覇の港(渡地、泊)周辺は便利になっています。海運の盛んな時代に地方宿(宿小)がこの辺に集中したのも納得できます。
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壷屋への陶土

[恩納村(間切)の]仲泊や前兼久では、港に近い山手から陶土を掘り出し、それを村船に乗せて泊港(那覇)まで運んだ。前兼久の港は比較的深かったので、浜辺に船を横付けすることができたが、仲泊は浅く、陶土の積み込みが困難であった。それを打開するために、浜辺からまっすぐ約200m沖に達する広い溝を掘って船が浜辺につくようにした。仲泊の村前の船の出入りする海底の運河をイノー路といい、今でも残っている。船に荷物を積み込むには満潮時の6時間であった。陶土を俵に入れて男は肩に女は頭に、旨まで海水に浸かって積み込んだという。屋富祖の白陶土は海辺に接した高いところから産出したので、掘った土を浜辺に落とし、船に積み込んだ。陶土は各自の村船に積み、那覇の泊港に運んだ。泊港からは伝馬船に積み替えて安里川を遡行、崇元寺橋をくぐって壷屋のカーラバンタに陸揚げした。
なきじん研究14号 山原の津(港)と山原船 p50(抜粋と編集)


「壷屋のカーラバンタ」は那覇民俗地図では見つけることができないのですが、タムンシチバ(薪積場)はあります。
陶業のための燃料は山原頼りですね。
牧志集落遠景図

恩納間切は陶土を産出し、那覇の壷屋に山原船で運んだ。赤土(赤陶土)は仲泊・前兼久の山手で産出し、白土(白陶土)は屋富祖・名嘉真、名護間切のブセナで産出した。白陶土が産出する場所は海岸に接した場所にある。赤陶土と白陶土の運ぶ比率は10対2の割合だったようだ。
なきじん研究14号 山原の津(港)と山原船 p56(抜粋と編集)

二階建て(ニーケーヤー)

昭和54年発行の那覇市史資料編から。

民家における二階建ては、辻町の遊廓から始まったらしい。それは辻町が明治末期に大火にあい、再建する時に木造二階建て瓦葺きにしたのがその嚆矢である。その後住まいにも用いられて、大正頃から広く用いられたようであるが、しかし一般化したというほどではなく、街で店舗などをするために用いたというのが実情のようである。
現在の街のように二階建にしなければ住まいの構成が出来ないという敷地の状況ではなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p238


画像はwikimediaからで辻です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tsuji_area_in_Pre-war_Showa_era.JPG

戦前の旧那覇の風景には二階建が見え、大通り沿いの大商店の中にはかなり立派な建物があります。まちの種通信の古写真で密集する二階建を見ることができます。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=467
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=469
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=472
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=466


戦前の旧那覇はかなり変化していて、屋敷地の石垣の撤去や通りの拡張、火事による焼失などにより建物も変わってきています。上に再掲した図は以前に紹介した「新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成」からのものですが、東町大火の範囲がわかります。
論文を引用します。

那覇全体の宅地割について述べたい。先の復原作業では昭和期の地図を土台としたが、それにも関わらず明治37年の地番を推定することができた。つまりこれは、明治37年以降の地割が大部分において細分割されることなく昭和期まで継承されたことでもある。これらの各地割形状は、正方形に近い多角形の形状をして屋敷型の宅地割で、1737年に出された屋敷地一辺の長さでもって制限を加える近世の家作令に由来すると見て間違いない。遊廓地を除く大部分については、久米をはじめとして比較的広大な宅地割で構成され、昭和期の地図でもその様子は窺える。那覇の現住人口は、垣花・牧志を編入した後の明治36年の時点で42,842人、大正3年には56,481人に増加している。この15000人余の増加人口は、各宅地の内部において貸家を建てて吸収されたと解釈できよう。
新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006974616


人間の流入はあるが土地敷地の再分割や統合はなし、しかし商業地としての重要性は高まっています。最初に引用した那覇市史の記述では「二階建にしなければ住まいの構成が出来ないという敷地の状況ではなかった」とあるのですが、これは旧那覇の商業地を除いた記述であると考えた方が良さそうです。
また戦前期に効率的な商業地利用のため新しく登場した建築様式が二階建(ニーケーヤー)であったといっていいのではないかと思います。

二階建とは直接の関係はありませんが、人口集中による住宅不足解消のための方策がブリ屋敷(群屋敷)、その他にカラシヤー(貸家)も存在します。

戦後すぐの運転免許

古波鮫唯成さんの手記に面白い箇所があったので引用しておきたいと思います。

私はジープで基地内を30分ほどぐるぐる回って運転したら、「OK!」とすぐその場で運転免許証を手に入れ、大山米軍キャンプから牧港の軍作業現場へ向かったことを覚えている。
那覇市内では自動車運転教習所(現在那覇市役所)も出来上がり、多くの人達が集まった。練習用の車はアメリカ製の大きなセダン(リンカーン、プリモス、フォード等)で、運転席に座ると両手両足がようやくハンドル、クラッチやブレーキにとどく状態だった。恐る恐る練習して本物の免許証を手にした時飛び上がるほど嬉しかった。
希望を胸に -戦後六十年目の手記-/古波鮫唯成 p18(抜粋と編集)


古波鮫さんは1945年に一中を卒業され、60年代からは泉崎で英語塾を開いていました。また英語塾以前は米軍従業員の教育にも関わられています。復帰前に泉崎のイングリッシュセンターに通われた方も多かったのではないでしょうか。
薪の運送でとりあげた那覇市史では下泉のフナングヮで薪関連に関わっておられた方で古波鮫唯施さんという方がおられました。姓も名乗りも同じですし英語塾の場所も川沿いですので縁者の方なのかもしれません。

沖縄イングリッシュセンター学院
http://www.geocities.jp/okinawaec/T1.htm


戦前の運転免許は運送・輸送関係者以外にはほぼ取得されておらず、そのほかには軍で車両関係に携わった人間が少しいただけのようです。

参考:グダグダ(β) 新垣義堅 (戦前からの自動車関係者)
グダグダ(β) 自動車運転免許 (戦後の運転免許について)

※この項は「戦後の自動車運転教習所(作業中)」から独立させました。

開南の仮設市場

那覇市開南の仮設市場撤去
しばらくご辛抱を -市当局-
早く道路に使いたい -付近住民-
「いったいいつ撤去するのか」ー。牧志第一公設市場の完成で、開南の仮設市場は撤去することになったが、移転から10日以上も放置されたままになっており、付近住民からの苦情が絶えない。市では「早急に撤去したい」といっているが、撤去までにはなお2週間以上かかりそう。また仮設市場の場所はさる2日の議会で市道として正式に認定され、建物が撤去されるとすぐにでも道路として使用される。開通すれば与儀十字路から開南間の交通事情がかなり緩和される予想。
開南仮設市場は2年前に「新しい市場が完成するまで」との約束で付近住民の協力を得て設置された。ところがさる9月になって工事中だった牧志第一公設市場が完成、10月3日に開設式が行われ、それまで開南仮設市場で商売していた323人の業者全員が移転した。ところが移転はしたものの建設はそのままの状態で置かれている。(略)市側では「歩行者天国や那覇祭りの準備で忙しくて撤去が遅れているが、今週中にも撤去工事の業者を決め、建物内部に残っている冷蔵庫や品物を引き取らせ、遅くとも25日くらいまでには撤去したい」といっている。
沖縄タイムス 1972(昭和47)年10月12日 (抜粋と編集)


この仮設市場があったのは開南から神里原向けのバイパス道路で、新聞には開南からの通りに覆いをかぶせるような仮設市場の写真が掲載されています。上の図での矢印が新聞の写真の撮影方向で、赤の範囲に屋根のついた仮設市場がありポインタで示した開南会館も写っています。
ここに入居していたのは下記のような人達。

(1)入居者の区割手続
先ず、水上店舗への入居資格者、入居位置及び専有面積を確認する必要があった。新店舗への入居資格者は、勉強堂に地代を支払ってガーブ川河川上で営業していた者で組合加入者であることを条件にした。そのため花屋組合員はガーブ川周辺で営業していても、場所使用料を市当局に支払っており、新店舗への入居を強く要求したが除外された。那覇市は花屋組合員を新築予定の公設市場(第2公設市場)への収容を約束、その間新栄通りの仮設店舗で営業することとなる。

http://ir.okiu.ac.jp/bitstream/2308/225/1/12_002.pdf


以下余談。
下記アドレスは当時の写真か? 開南のバイパスではなくて新栄通りのように見えるし、新聞での写真では道路幅一杯に建物が造られているので写真とは違うように思われる。水上店舗建設中の仮営業場所?
ガーブ川改修と水上店舗建設は60年代前半で、引用記事中の公設市場建設は復帰前後なので別の写真(現在のコンクリ造りの公設市場もそれくらいにつくられている)。顛末は公設市場建設の経緯を参照して下さい。

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1737
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1736

国際通りの変遷

資料のご紹介。

「那覇市とその周辺の地理」関西大学地理学教室

これの五章が「国際通りにおける土産品店」となっていて、1955、69、85、95、04年の国際通りの店舗を「最寄品、買回品、飲食・娯楽、商店、その他」別に色分けした図があります。
goo辞書から。

もより‐ひん【最寄り品】/消費者が近くの小売店で頻繁に購入するような商品。食料品・日用雑貨・タバコなど
かいまわり‐ひん〔かひまはり‐〕【買(い)回り品】/消費者が価格・品質・色・デザインなどを比較検討したうえで購入する商品。婦人服・呉服・靴など。


傾向としては戦後からずっと最寄品・買回品の減少で、これはブログ内市場カテゴリでも取り上げているので実感します。土産物は外人向けと日本人向けの区別、取り扱い品目(サンゴ・洋酒・皮革製品)の変化もありますね。
これらの変化は観光政策の変化も反映しているでしょうし、関税面の影響もあります。近年では観光でのイメージ像の変化も大きいでしょう。
これらは興味深いではあるんですが、調べるには過去の観光資料をかなり読み込まないといけないはず... このへんは研究報告がでてくるのを待ちたいです(他力本願)。
観光に関するイメージ論などは多田治さんが研究されています。


以下余談として。
昔の話ですが、壮年の方に国際通りの話などを聞いたとき「あそこは昔から観光の為の通りだ」と言われることが結構ありました。今になって資料を見つつ考えてみると、あの人の話していた昔の国際通りとは60年代以降の姿だっただろうなと思われます。
戦後初期である50年代の国際通りを経験していて、しっかり記憶することのできた年齢であった年代はもはやかなりの年齢ですので、身の回りの消耗品を商っていた時代のことを聞くことはもはや困難であるわけです。
同時に平和通りなどでも小規模の日用品よろず扱いのような店舗は消えていっているわけで、これらは消費行動の変化の結果でもあるんでしょう。このへんのマチグヮー内の変化はもっと詳細に調べられてもいいんじゃないかと思います。

観光に関しては復帰前からけっこう意識されていたようで、当時の観光向けの冊子などには飲屋や土産品の案内がたくさんあります。
今となっては観光はホテル宿泊がメインなので旅館に泊まるというのは想像しにくいのですが、当時の冊子には木造の旅館が観光向け宿泊所として案内されています。少し前まであちこちにあった木造の旅館は当時は観光客も相手にしていたわけです。これらの旅館と戦後に続々とできた地方宿と怪しい旅館の区別を付けるのは難しいのですが、観光案内などで区別していくことでどうにかなるんでしょう。

ハブとマングース

1951年の沖縄商工名鑑に妙な広告がありました。

那覇市国際大通り 蔡温橋北側
含毒動物園
経営 山城吉正
土曜日曜はヘビとマングースの闘技があります
海山の含毒動物其他珍しい動物貝類を揃えています 教育資料に団体学生一般の参観を期待しています


ヘビとマングースとなっていますがハブなんでしょうね。
マングースが沖縄に移入されたのは1910(明治43)年のことのようです。

日本では1910年に沖縄島へインド産(亜種H. j. auropunctatusと考えられている)の個体13-17頭が、また1979年頃に奄美大島へネズミ類やハブ駆除のために30頭が移入された。
ジャワマングース - Wikipedia

戦後のアイスキャンデー

高良嘉永さんがアイスキャンデー製造を手がけた話を自伝から引用します。
高良さんが昭和26(1951)年10月に熊本から帰郷すると牧志一帯にあった自分の土地は割当土地として人が住んでいて、新県道が通ってはいるものの静かだった牧志部落は繁華街になっています。

沖縄に帰ってきた当初、一番珍しかったのは、米国産のコカコーラやバヤリースジュースであった、本土ではやっとラムネが出回りはじめた頃である。
国際通り沿いにあった国際劇場は、当時那覇で唯一の興行場で、いつも映画や芝居で大賑わいだった。その道向いの私の土地(現在の高良産業ビルの敷地)に住んでいた国吉氏が安謝へ引っ越すことになり、私に家を譲ってくれたのだが、しばらくして別の人から、そこでアイスキャンデーを製造販売したいとの申し出があった。1952(昭和27)年のことである。
申し出のあった当山氏と奥間氏がそれぞれアイスキャンデー製造機を一台ずつ設置し、私が土地と家を提供することで話がまとまり、三者で共同経営することになった。
キャンデーは飛ぶように売れた。午前3時頃から晩の9時頃まで自家発電で機械を連続運転して、毎日3000本を製造した。目のまわるような忙しさであった。売り子が30名程いて、1本5円売りのキャンデーを3円で卸していた。売り子も多種多様で、自転車の後ろに荷物台をつくり、キャンデーをのせて走る青年、キャンデー箱を頭に載せて売り歩く小母さん、キャンデー箱を脇にかかえて市場内を売り歩く若い女の子らで店は大いに賑わった。
お陰でその年の夏場は30万B円の利益を得て、税務署に申告するほど儲ったが、翌年は、自家発電をやめて桜坂の準電気業者から受電して製造機を運転したところ、操業時間が短縮されてしまい、利益は皆無であった。そういう訳で、2年目であえなく操業中止となる。
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり  p105、106(抜粋と編集)


このブログでは「沖縄主要地主要商工年鑑」の51、52年版を使って50年代初期の那覇市内の繁華街の様子をまとめています。カテゴリの市場では公設市場などだけではなく繁華街を含めた商業地を扱っています。
またブログ上部の「MENU」をクリックする検索窓のあるウインドウが開いてブログ内検索ができるのですが、ここに「アイスケーキ」と入れると「沖縄主要地主要商工年鑑」のいくつかの図が該当します。おそらく50年代初期には那覇の繁華街にいくつかのアイスキャンデー・アイスケーキ販売製造元があり、さまざまな販売方法で売られていたんでしょう。

アイスキャンデー売りがアイスクリン売りの元祖みたいなもんだとすると下手したら親子三代で経験している人がいるかも(笑)。
参考:アイスクリン 沖縄 - Google 検索

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