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牛馬市

牛馬市の現況
此の程宮古より多くの牛馬を積み来りたることは既に報道したるが牛馬の市は例年の通り真教寺前埋地又は垣の花辺に開かれその数は牛馬あわせて600頭位ひなるが田舎か金に逼迫し居る時期柄とて売捌け捗々しからず市場開始以来56日経過するも未た三分の一位ひしか売れずそれは先ず例年と差したる相違もなけれどもその代価に至りては非常の下落にて馬は最高が45円70銭のものもあり又牛は最高が20円最低は3円と云ふ大下落なるも猶ほ買渋ると云ふ有様なり3円の牛と云へば乳離れの子牛ならんと思ひの外これにも鼻を穿ちたるものさへありさて又5円70銭の馬はどんなものかと云ふにこれ又3歳以上のものにて乗れば十分に役に立ち又荷駄をつけても相当の用を便するものなりされば牛馬好の農民には如何にしても我慢することが出来す質に典して買ふものあり又牛馬商の話に拠れば1人5[、]6頭持ちが先ず普通なるかそれにて既に40円位ひ損失したるものもありと云ふ
明治35年6月25日
沖縄県史 資料編6 新聞集成政治経済1 p403(抜粋と編集)


西新町3丁目の真教寺あたりの牛馬市のようすです。
真教寺近くの西本町には「ウシマチサガイ」という地名(?)があります。
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泊港の輸出入高/与那原港

泊港昨年中の輸出入高を聞くに輸入は
薪木471120、丸材木45本、キチ1345束、松板236枚、真竹17587束、竹茅2470束、製藍629950斤、木炭3740斤(*1)、製糖906梃、白土1087000斤、牛56頭、山羊60頭、白米210斤、大麦3000升、白太豆2100升、石灰12升、船舶542
輸出は
焼酎1820升、素麺5390斤、昆布120斤、茶2654斤、白米44980升、味噌310升、石油1790升、白太豆8580升、蕃藷粕2400升、樽皮567梃、イク木535本、素焼甕218個、瓦114500枚、杉板117間、石灰300升、伊集木60本、船舶536隻なりと
明治35年1月19日
沖縄県史 資料編6 新聞集成政治経済1 p363(抜粋と編集)


輸入の「木炭3740斤」は「37、40斤」となっていて桁間違いか数字が抜けたかのどちらかだと思われます。
数字の表記は「四七一、一二〇」のようになっていますが「471120」のように略しました。
与那原はどうだったか。
輸入
薪木3648777、丸イーク木50本、イークキチ90本、雑柱木8788本、雑キチ2971本、真竹14803個、竹茅3005束、木炭88個、樽板165500枚、製藍425笊、エリツス40122個、砂糖1738梃、島絣27個、船舶数1457
輸出
焼酎511500合、素麺13295斤、昆布758斤、茶7948斤、味噌3700合、石油9200合、白米548300合、食塩1800合、大豆1850合、石灰4900合、甘藷152740斤、豚26頭、船舶数1452
明治35年1月17日
※明治34年1月から12月までの総数
沖縄県史 資料編6 新聞集成政治経済1 p362から項目と数字のみ抜出


船舶数は泊港が500台、与那原が1400台で倍以上の開きがあります。
泊港に入ってくるもので与那原港にないのが白土ですがこれは壺屋向けなんでしょう。1升は10合なので与那原港から輸出された焼酎は51150升、泊港からは1820升ですからこれは相当の開きがあります。
明治43年の統計書では泡盛の生産量は首里が那覇の倍以上になっています(1斗=10升)。首里からは東海岸の与那原港へ持っていった方が早かったんでしょうね。

那覇 25戸 9137.3斗
首里 106戸 21050.0斗
島尻 11戸 834.5斗
中頭 7戸 661.3斗
国頭 3戸 150.0斗
宮古 6戸 332.4斗
八重山 17戸 301.7斗
那覇市史資料編第2巻下 p434(引用と編集)

通貨の単位

わかりにくい所があるのでメモ代わりに書いておきます。

一厘/五十文(グンジュー)、二厘/百文(ヒャーク)、三厘/百五十文(ヒャークグンジュー)
四厘/二百文(ニヒャーク、タクムイ)、五厘/二百五十文(ニヒャークグンジュー、タクムイグンジュー)
六厘/三百文(サンビャク)、七厘/三百五十文(サンビャクグンジュー)
八厘/四百文(シビャーク)、九厘/四百五十文(シビャークグンジュー)
一銭/五百文(グヒャーク、イチクムイ)、一銭一厘/五百五十文(グヒャークグンジュー)
一銭二厘/六百文(ルッピャク)、一銭三厘/六百五十文(ルッピャクグンジュー)
一銭四厘/七百文(シチヒャク)
一銭六厘/八百文(ハッピャク)
一銭八厘/九百文(クヒャーク)
二銭/一貫文(イックヮン)
五銭/二貫五百文(ニクヮングヒャーク)
十銭/五貫文(グクヮン)
二十銭/十貫文(十縄=トゥナー)
五十銭/二十五貫文(ニジューグクヮン)
一円/五十貫文(グジックヮン)
二円/百貫文(ヒャックヮン)
十円/五百貫文(グヒャツクヮン)
二十円/千貫文(シングヮン)
百円/五千貫文(グシン)
二百円/一万貫文(イチマン)
千円/五万貫文(グマン)
一万円/五十万貫文(グジューマン)
二万円/百万貫文(ヒャクマン)
那覇市史資料編第2巻 中の7 P695(抜粋と編集)


【追記】銭の穴にひもを通した大金の運び方の説明文があったので引用しておきます。

 ◇重い通貨。
 当時の通貨は紙幣ではなく、いまの5円玉のような穴開きの1厘銭が主。後年になって2円に相当する100貫文の重量は約10斤〈6㎏〉。10円が丁度 50斤〈30㎏〉。したがって10円を運ぶには大人の男が右肩に2円、左肩に2円、左右両手に1円づつ、背中に2円、腹に2円の硬貨を巻き付けて運んだ。これが20円になると100斤になるため、金袋は2人で担ぐか、牛車・馬車で運搬。紙幣が流通するようになるのは、明治27年〜8年ごろになる。

http://sun.ap.teacup.com/ueharanaohiko/240.html

東町の3月遊び/流れ舟 3

明治5年東町生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。
他シマとの競争意識について。

こうして流し歩くうちに他シマの舟とすれちがうことがある。相手になるのは大抵は西町だがそれとわかると近づけてチヂンを打ち鳴らし歌を掛け噂や評判の相手に悪態をつきひとしきりわめき合う。どっちかが答に窮して返歌が口をついて出なかったりいい負けたりすると言葉争いは事面倒だとばかりに、もう相当に頭にきてカッカしているから、いきなりお椀で潮を相手にぶっかける。相手も心得てそれとばかりに両方から浴びせる。中には棹をもち出すのもいる。お互いにびっしょりべとべとになって、いわゆるミジブニ(水舟)にして引き揚げる。時にはつられて船頭同士の喧嘩になることもある。東と西、久茂地と譜嘉地のように伝統的な仇敵がどこにもある。しかし遠慮して黙っているとやはり意気地なしとみておかまいなしに潮を浴びせる。好んでするものではないがはずみがつくととんでもないことになってしまう。
(中略)
泉崎と湧田はタナカ小路を挟んで両方が立ってチヂンを叩いて張り合った。うっかり見にいこうものなら掛歌の的になってしまうから、こわいもの見たさで遠くから見ていた。

〽井口グヮーヌ アンマーヤ ヌーサル アンマーガ マササルン アラン 井口グヮーヌ アンマーヤ クルチ ウチキリ ムリティ ウチキリ
(井口さんの母さんはどれほどの母さんか、霊験があるでもなし殺しておけひねっておけ)

さしもの井口家の奥さんも歌にかけられてはやされ歌われた。道幅も二間そこそこの狭い所だからすぐ見つかってしまう。
久茂地と泉崎が久茂地川を挟んでカーラバンタで、久茂地はアガリヌサチ、泉崎は甲辰校側に立って喧嘩していた。時には男の子がイッシンバーエーで石の投げ合いをしていた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P710(抜粋と編集)


下泉が泉崎で上泉が湧田、久茂地大通りを境にして川側が譜嘉地です。
シマごとの対抗意識は結構なものだったようで、安里育ちの古波蔵保好さんの本にも石合戦や喧嘩などの思い出が書いてあったかと記憶します。小さなシマではあるんですが文化がけっこう違いますから相容れないものがあるんでしょうね...

井口さんの奥さんをはやした歌は怖い内容のようですが「クルチ ウチキリ ムリティ ウチキリ」という韻を踏んだ言葉を使いたかっただけのように思えます。「クルス(クルチ)」という言葉は標準語にするとどうにも物騒でいけません...

東町の3月遊び/流れ舟 2

ひきつづき明治5年生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。

え、昼間です、真昼間、船の左右に幕を張って雨が降ると上にカバをかける。暗くなると提灯に火を入れる。すると遠くからみると水に映えて羨ましいくらい奇麗でしたよ。御飯?そんなのわけない、あらかじめお手伝いさん頼んでおいてヌチャーシー、ヤー<広いお座敷のある家を借りてそこで遊んだり寝起きすることもありまた煮炊きもする>で頂く。ジューシーとなますで簡単にすます。何しろ25貫(50銭)で5日も遊んで舟賃や女中代も払うから贅沢はできない。このアシビヤーはサガイにある湖城家が常宿だった。お友達の家で海を前にしてその向いに奥武山が浮かんでみえた。お椀やお皿などは湖城さんとこで借りて、朝は御飯にお肉のお汁と膾を頂くなり、舟にのるとお昼はジューシーを飯櫃に入れ傍に膾の桶を用意してお手伝いさんが岸で待っているから、舟をつけてお櫃や桶や食器を入れたバーキ<籠>をあげるや手早くよそうと、皆お腹をすかしているから一斉にかぶりつくように瞬く間に空になる。時には雑談したり、噂の誰それ、結婚の取り決めなどなどそしてお昼寝もする。舟は船頭に任せて沖に出ることもある。そのうち、クチ、サビシイネー(口が淋しい意、何か口にしたいような時おやつみたいな)ところ天に甘酢をかけたのを端道の宇良に頼む。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P709、710(抜粋と編集)


辻端道の宇良てんぷら。
参考:グダグダ(β) 庶民とフクミン
参考:グダグダ(β) 油のひみつ

明治5年生の方の思い出ですから実体験は明治初期で、そのころにはところてんがあったことがわかります。いつからあるのかはわかりませんが寄留商人が持ち込んだんでしょうか?
明治初めの25貫(50銭)はバカにできない金額です。

東町の3月遊び/流れ舟 1

那覇市史から明治5年生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。
結構長いのでいくつかにわけます。

妾(わたし)たちはね、3月に遊ぶのに芝居を見ようなんていうのがいるとね、そういう人には銘々にお金をやって勝手に見ておいでと前もって年上の方からいわせたよ。大体、芝居なんていうのは家族と一緒ならいつでも見られるもの。このアシビというのは1年に3月の月だけのたった一度しかないのだからそれこそこの日を遊ばなくては全く意味ないョ。アシビがいやだから芝居にゆく人にはお金を返すがよいと皆ぶつぶつ文句をいったものだ。3月はヌチャーシーでみな皆でお金を出し合って一緒に遊んだものだ。えッどんな遊びかって?それは3月アシビなら妾の町の東[町]ならナガリ、ブーニー(流し舟の意)にきまっているョ。大きな伝馬船にのって水のまにまに船をやる。30人かいや4、50人はのったろうか。船に乗ってチヂン(小太鼓)叩いて思う存分に歌って踊って過すのだ。海の上の、船の中で、あたりには誰もいない所で皆が勝手に歌って踊って...本当に楽しかった。今思い出しても気がせいせいする。え、どこを別にきまりはないが、東のサガイから乗ってどこへでも漕いでゆく。海のあるったけ、公園の奥武山のぐるりを回ったり、真玉橋を潜りぬけて川でもどこでも木が生えてるとその中を通り抜けて饒波・高江洲までも上げ潮にのって川の真中を漕いでいった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P709(抜粋と編集)


思ったより大きな船でおどろきました。

参考:グダグダ(β) 河川 2 (饒波川)

久茂地のニンブチャー

いつの頃からか、久茂地のコーシヌミーマーチューにも念仏者が住みついていた。3戸の長屋に住みついていたので、近代にはその居住地はミーチクヮンタク(3つの官宅)と綽名をつけられていた。そこの住人は依頼されれば雑役にも従事し、通常はボーシチャナーと呼ばれていた。ユカッチュ(良か人、士族)のダビには2人、百姓のダビには1人出て、ニンブチャー(念仏者)をつとめ、チョームン(経文)を唱えた。葬列の旗持ち、天蓋持ちもボーシチャナーがつとめた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P431(抜粋と編集)


コーシヌミーマーチューというのはどこだかわかりません(格子戸、格子の枠の間のすきま、のことをコーシヌミーと呼ぶようです)。
ボーシチャナーは何でもやる日雇いのようなもんでしょうか。

那覇市内の外人関連


那覇民俗地図、真和志民俗地図で外人関係の箇所を書いてみました(年代はバラバラですが)。
護国寺はベッテルハイム、オランダ屋敷は明治の宣教師居住地(参考)、朝鮮屋敷は漂流者の滞在所(だったかな?)、唐人屋敷はわかりません。
タカマサイは与那覇勢頭豊見親ですが言葉も通じなかったということで外人枠へ(白川氏の皆さんすみません)。
参考:与那覇勢頭豊見親 - Wikipedia

あとは天久宮(天久聖現寺)も外人関連のエピソードがあったはずですが詳しいことを憶えていません...
天久宮は図では泊病院の裏、現在の外人墓地後方です。

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