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卸仲買及小売雑商(明治25年)

沖縄縣内務部第一課による明治25年の「沖縄県治一覧」(発行は同27年、データは同25年)から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで、切り出して画像加工してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61139#
順番は<場所|卸売商|仲買商|小売商|雑商>です。
首里に小売が結構あったというのは意外でした。

•那覇|15|15|664|447
•首里|3|3|1115|307
•其他|0|2|1079|332
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ユーチ

画像は「沖縄県立博物館・美術館 博物館紀要 第3号」の「当博物館所蔵の斧について/山崎真治」から切り出して作成。

http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/bulletin/index.html

雪の崎の語源であるとされるユーチの形がわからなかったためすっきりしなかったんですが図が掲載されていたので幾分すっきりしました(笑)。

沖縄の伝統的な民具に見られる斧には、ウーヌ(斧)、ティーン(手斧)、ユーチ(ヨキ)などの区別があり、用途によって使い分けられていました。
沖縄の斧|学芸員コラム|博物館|沖縄県立博物館・美術館

http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/column/column041/index.html


参考:グダグダ(β) ユーチヌサチ・スーヌサチ

多額納税者(大正4、7、昭和14)

大正4(1915)年
海江田丑之助|579
新里康昌|500
山城高興|499
村瀬金十郎|478
藤井吉兵衛|477
白木藤次|369
喜屋武元持|318
平尾喜三郎|315
矢野雄三|310
吉田得三|294

大正7(1918)年
新里康昌|808.58
山城高興|778.84
平尾喜三郎|651.62
南崎豊吉|608.70
矢野雄蔵|402.83
浜崎藤次郎|411.90
村田弥吉|309.75
島袋嘉辰|304.87
慶田覚太郎|304.64
天願貞次郎|289.31

昭和14(1939)年
山城高保(金貸業)
新里康昌(酒造業)
平尾喜三郎(呉服商)
村田弥吉(呉服商)
並川亀次郎(金物商)
中馬政次郎(米穀商)
屋我マカト(金貸業)
木村義雄(米穀商)
長野時之助(保険業)
平尾安二郎(呉服商)


寄留商人に関する一考察 : その特質と存立基盤の第11表から抜き出しました。
元のデータは琉球新報八十年史p160とp178、那覇市史2-中-2のP143のようです。字が違うような人もいますがちゃんと確認できていません。

明治28年の料亭・割烹

1895(明治28)年の「袖珍沖縄旅行案内 全」から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫、画像は切り出して画質調整してあります。

▲遊廓 辻を第一とし中島渡地之れに次く辻にて有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむ所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸席割烹店は東屋芸妓21人を有し常磐仝9人小徳仝10人海月3人券番3人合計46人
▲貸席 最高尚にして眺望絶佳なるものを吾妻館とし域内に西洋料理蓬萊温泉あり座敷最広きを常磐新席とす
▲割烹店 席貸を兼ぬるものは東屋本店常磐小徳海月とし純粋なる割烹店を東屋分店とし其の他三国屋京亀玉川屋いろは等あり
▲演芸場(省略)
▲旅館 那覇の池畑回漕店浅田山川森田を最上として嘉手納前兼久名護等にあり


同じ本の末尾にはここで取り上げられた店の広告があります。

グダグダ(β) 吾妻館の広告(明治28)
グダグダ(β) 東家本店・東家分店
グダグダ(β) 常磐楼
グダグダ(β) 三国屋/浅田五三郎/池畑回漕店/岩満写真場
グダグダ(β) 沖縄印刷所/柳屋/山川旅館

糸満宿屋/サザエとり

糸満出身、明治44年生の金城カネさんが語る糸満宿屋のようすです。

夏は魚が少なくなるので、那覇の向いにある神山島にサザエをとりに行った。渡地にあった糸満宿屋を根城にして、島で雇い子20人を寝泊まりさせ貝をとる。舟一杯になったら宿屋に運び、代わりに食料を積んで行く。4月から9月まで、ずっとこの仕事が続いた。
サザエを勝手にとることは許されなかった。島の持ち主である渡嘉敷村に金を払い、その権利を買うのである。父一人では小さな仕事しかできないので、3人で組を作っていた。雇い子には、サザエ10斤につき2円の花代をあげた。深い海に潜るだけに配当金も多かったのである。
さてとったサザエの処分は、私たち女の出番。糸満宿屋でシンメーナービにゆで、貝殻と身に分ける。ボタンになる貝殻は「仲尾」とか「くがるん」という海産物問屋の寄留商人が買いに来た。身の方はくしに5個づつ刺し、1本2銭で売った。
夜になったら宿屋の姉さんと、花の辻町にこのくし刺しを売りにゆく。「サザエコーイミソーレー」と呼ぶと、芭蕉の着物に紙をきれいに結った尾類が買ってくれる。これでなますを作って、酒のさかなにするのだった。私の毎日は荒っぽい海の男相手。辻に行く時には何か知らない世界をのぞいているようで胸がときめくのだった。
サザエとりの根拠地にした糸満宿屋は魚の集散地にもなっていた。宿屋の女主人である上原のカナーアンマーは商売にも義理にも強くとても賢い人。それでみんなが頼ったのだろう。伊江島や名護、前兼久から舟が入り「売りさばいてください」と魚を持ってくるのだった。那覇で売られる魚の多くはここに集められていたと思う。
カナーアンマーの力で魚を行商する女も20人はいつも集まった。宿屋はまるでセリ市のよう。その舵はカナーアンマーひとりの手で動かし見事にさい配を振るっていた。
私の戦後史 第五集 金城カネ p222、223(抜粋と編集)


神山島はチービシですが、そこに小屋を掛けて貝をとったということですね。
貝殻を買っていた寄留商人の「仲尾」はおそらく中尾、「くがるん」は古賀(くが?)ではないかと思われます。

金城カネさんは金城商事の方です。
http://www.kinjoshoji.co.jp/company/history.html


参考:グダグダ(β) かまぼこ
参考:グダグダ(β) カマボコヤ
参考:グダグダ(β) 貝ボタン
参考:グダグダ(β) 古賀商店

出店の移転

終戦後しばらくしてむつみ橋かいわいの国際通りには、バラック造りが軒を並べて商売した。幅員拡張工事にともない、その人たちへ琉球民政府から撤去命令が出た。瀬長亀次郎氏らが先頭に立ち、比嘉秀平主席、関係当局へ陳情、移転先探しも追った[ママ]。しかし、適当な場所がみつからない。当時むつみ橋から現ダイナハ前にかけてのガーブ川沿いの「沖映通り」は沖映が300万(B円)をかけて仮開通した。最右翼と私を決めつけていた琉球民政府職員が「宮城嗣吉氏に会い、相談しても反対される」と思い込み、陳情団へ移転先を「ガーブ川沿いにしては」と話を持ち出した。しばらくして瀬長亀次郎氏らが相談にみえた。人の頼みを断りきれない私は「当局の意向であればよいでしょう」と即座にOK。出店は一昼夜のうちに完成し翌朝から商売をはじめた。
その後2、3ヶ年ほどして「沖映通り」も那覇の都計で、改修されることになった。出店の立ち退きにこんどは市当局が手を焼き、出店を許可した私のところに又吉康和市長が自ら撤去協力に来られた。瀬長氏に会い、その話をすると瀬長氏は「君との約束は守る」と退くことを約し、それから2、3日後アッという間に泊港近くの1号線沿いに移った。
ところが1号線拡張工事でまた撤去命令を受け、こんどはガンとして動かない。米軍に呼ばれた比嘉主席、又吉市長はその対策に苦慮した。米軍は「ブルドーザーを使い敷きならせ」との強硬姿勢。時に民連ブームである。琉球政府は米軍の出方は「騒ぎを大きくする」と憂慮した。そこでガーブ川沿いの件もあり、又吉市長が宮平久米男建築課長を伴い私に相談に来た。
当初、私は「警察のする仕事で出る幕ではない」と断った。しかし、比嘉主席、又吉市長らに懇願され「話しだけでも瀬長氏に取り次ごう」と引き受けた。宮平建築課長を沖映に待たせて瀬長氏に会い色々話すと静かに聞き入っていた瀬長氏は「宮平君に思い切ってやれ、と伝えよ」と言われた。暗い心境にかられ苦悩したが、さすが瀬長氏は政治家で、私の話を了解され、翌日撤去作業は騒ぎもなく円満に解決した。
私の戦後史第5集 宮城嗣吉 p345、346(抜粋と編集)


参考:http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm 歴代市長
民連ブームは兼次佐一当選時が凄かったのですが、ここでは又吉市長となっているので昭和27年3月〜28年9月の出来事のようです。
※又吉康和(在職中逝去)、当間重剛(臨時)、瀬長亀次郎(当選するがクビ)、東江誠忠(臨時)、兼次 佐一(民連ブームで当選)

余談ですが昭和28年にはこんなこともあったようです(出典:那覇市議会史)。

バクチャヤー癩患小屋の処分

県史にバクチャヤーにあった癩病患者小屋取り壊しの新聞記事がありました。
写真もあって、掘建て小屋が写っています。

バクチヤ屋下の 癩患小屋焼払る
醜い癩乞食も一掃され大那覇市に浄化の喜び
醜い姿をさらして那覇市内をあの軒この軒と一銭二銭の合力を訴へて徘徊してゐた癩患食乞の群も沖縄のエム、テイ、エル救癩運動に救はれ30名近くも市内を稼ぎ場にしてゐた男女癩病患者がそれぞれ原籍町村へ送還されたため那覇市から恐しい患者を一掃し昨今は殆ど醜い姿を消したのである、沖縄エム、テイ、エル会では彼ら癩患乞食達が温い塒(ねぐら)として巣喰ってゐた辻町バクチヤ屋下の西新町屠場前の乞食小屋が空屋同然となつたので再び彼ら癩乞食の巣とならぬ様亦市民衛生上小屋を焼払ふことになり那覇署と相談の上昨日午前10時半から那覇消防組の出動を願ひ自動車ポンプも出て警察官立合ひの下に全部焼き払ってしまつた
この癩患小屋はバクチヤ屋下海岸に面して三ヶ所に集団し、見るからに非人小屋らしく古トタンヤ[ママ]古板片で造られた見すぼらしい小屋で全部で8軒戸数にして約10戸ここに男女30名近くの癩患が生活を営んでゐたものでこの小屋にも5人の家主さんが居ゐたのである
消防隊員がガソリンをぶつかけて火を放つや忽火焔あがり見る見る間に焼失3ヶ所の小屋を見事焼き払つた、かく大那覇市には醜い癩患乞食の群が消え更に彼らの巣窟たる癩小屋が焼け払はれて市民衛生上市街美上大改革を見たわけである(写真は昨日焼き払はれた癩患小屋)
※図4「清川安彦氏 新聞切り抜き」より1935(S9)9.18の記事
沖縄県史 各論編5近代 p559(抜粋と編集)


しかし554ページの同年11月19日の「一寸那覇市内を歩いても癩の醜い姿を晒しつつ門々を一碗の恵みにすがっりつつ徘徊する男女の癩患乞食を見受ける」という記事もあるので焼き払いによって一掃されたというわけではないようです。
「沖縄県史 各論編5近代 第六部第四章」の「近代沖縄とハンセン病差別」はまとまっていますので全体像についてはそちらを見て下さい。

大根(若狭/鏡水/和宇慶)

鏡水大根のニュースがありました。

“那覇の味”復活へ 鏡水大根、目指す普及促 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-193086-storytopic-5.html


直接の関係はありませんが若狭の大根について抜粋しておきます。

大根はワカサマチデークニという特殊品種で、長さ1尺6、7寸(50センチ内外)、径5、6寸(18センチ内外)もあって14、5歳の子には5本以上は持てなかった。鏡地[ママ]大根は丸く桜島大根に近かったが本種はどちらかというと和宇慶の下(ワオーキヌシチャ)大根に近い形であった。味は抜群でシミムン(煮付け)用に喜ばれた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 p247、248(抜粋と編集)


和宇慶の下大根」らしきものは栽培されているようです。

沖縄の中でも中城村 特に和宇慶・南浜・北浜 の限られた地域で生産され、珍しい大根である。
http://arakakikoei.ti-da.net/e2326049.html


鏡水大根はこんな感じ。

http://aka-gan.com/etc/2666.html

ワカサマチデークニはどんな感じだったんでしょうか。こういう形の大根が育つのは砂まじりの土質が必要なのかもしれません。
鏡水大根の写真掲載元サイトには「鏡水大根物語」という漫画もあるのですが、ナーファチー(那覇地)での記述などを重ねて読むと興味深いです。

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