泊前島誌の「泊・前島と硫黄鳥島について」から抜粋します。
戦前、前島町の中央四叉路西角に豊里友堅が石臼を精製加工する作業所があった、この石臼の原材料は硫黄鳥島から産出され、ポンポン船で泊港経由運ばれて来た。石臼の原材料は山形といって硫黄鳥島の住民が旧噴火口の火山岩から切り出した荒削りの雌、雄一対で、船が入るたびに10〜20対運ばれて来たのを豊里友堅の弟友賢が久茂地の作業所に、友睦が糸満に二男友信の作業所が県庁通りの突き当たり、名度山愛順の家門にあってそれぞれ精製加工されて沖縄本島のみならず、宮古や八重山及び離島の山間僻地に至る迄石臼が販売供給された。
石臼は全世帯の必需品であった。これらの石臼は長い間使用していると山が擦り減って空振りするので補修する必要があった。豊里系統の方々が金槌を持って各市町村を巡回していた。
このように豊里家と硫黄鳥島の関係は深く、真喜志駿の母カナは明治22年に硫黄鳥島で生まれ、弟友信が2歳の時に父母共々泊前島に引き揚げて来たのである。処で硫黄鳥島住民の国吉、仲宗根、糸数、東江、仲村姓は豊里家と姻戚関係があり真喜志駿の幼い時、硫黄鳥島からこれらの方々が鳥島言葉丸出しで豊里家によく出入りしていたのを思い出す。
泊前島誌 p399、400(抜粋と編集)引用箇所の前では硫黄屋(ユーワーヤ)やそれらに関わった人達について触れられています。ユーワーヤのあった場所は那覇民俗地図によると中の橋から泊小学校に行く道(ユーワーヤースージ)の右手になります。
新屋敷周辺で使った図を再掲。

右手から伸びてくる緑色が丘のようになっていて、本文中では「赤平丘陵地」と呼んでいます。この丘陵は戦後米軍が削り取って埋立に使ってしまいました。
ユーワーヤの硫黄は硫黄鳥島からのものですがWikipediaの
硫黄鳥島には明治期の説明がないので本文中に引用されている「鳥島移住六拾年のあゆみ」(S38)から抜き出します。
一、硫黄鳥島の概況
(略)又硫黄に次いで挽き臼の産地として世人に良く知られた島である。島は良港なく交通に不便であった。明治38年小学校設立せしも36年の移住とともに具志川小学校へ校舎を移す。
昭和拾四〜五年頃より硫黄鉱業復活し鉱山へ出稼ぎ者増加し児童も増え戦後に鳥島小中学校設立す。昭和34年異変発生で又総引き揚げをなす。現在硫黄鳥島は無人島となり、噴火口の煙が依然として天空に吹き続いている。
二、経過(六拾年のあゆみ)
1、移住の起因
明治36年4月鳥島硫黄坑が大爆発をなし、その惨状は真に筆舌に著す事の出来ないものであった。
3、調査の報告
これ以上の惨状は無いが数年毎に又大爆発は免れないと予告す。当時の人口増加や生産の状況からおしても永住の見込みなき事で強行に移住を進めた。
6、久米島へ出発
明治36年12月20日に仁寿丸で久米島へ第一着(略)明治37年2月11日版第二回船で旧鳥島と最後の別れの出発
8、その後の状況
大正年間硫黄鉱業盛んになるや久米島より硫黄鉱山へ出稼ぎにゆくもの、又戦後硫黄採掘会社が設立された事や石臼原材料の山形を採掘する為に人口も増えつつあったが時代の波は硫黄を採掘しても採算が取れずに失敗に終わり、石臼採掘も一時期好況であったが石臼に変わる電動機械化による簡易な絞り機に取って代わり絶滅の危機に陥ったのである。
折しも昭和34年7月硫黄坑口の突然の異変が発生し爆発の危険に晒されたのでこれを機会に琉球政府の援助によって総引き揚げを断行したのである。7月30日晩、旧鳥島と別れ31日午前9時満潮丸にて泊港着。引き揚げ完了する。世帯数37戸、人口129名以降硫黄鳥島は無人の島となる。
泊前島誌 p400〜403(抜粋と編集)まとまりがありませんが泊・前島が硫黄と縁の深いことと、硫黄鳥島でとれる石臼原料を加工して販売する泊前島の人達がいたということです。
余談として文中に少し出てくる真喜志駿さんのプロフィールを本の中から抜粋。
大正7年生、本籍前島1丁目
昭和13年近衛歩兵第三聯隊入隊
昭和21年シンガポールより復員(大尉)。広島県の南方復員本部で復員事務官。
ブリジストンタイヤ沖縄販売会社代表取締役会長。参考:
近衛歩兵第3連隊 - WikipediaPR