玉陵問題の続きです。
新聞記事を引用したのですが経過等がわかる文がありましたので抜き出してみます。
1959年12月、キリスト教団体の沖縄聖公会が玉陵の一部に学生センターを設立すると発表した。当時の琉球新報は(略)意外なほど手放しの歓迎記事を掲載した。
「学生センター生れる/来春霊御殿前に/沖縄聖公会の手で/総工費13万ドルの豪華版
図書館、レクリエーションホール、ロムトリー、礼拝堂等からなり全部鉄筋コンクリート建て。尚家河の要望も入れて外観は琉球格調ゆたかな強いデザインで仕上げ内観は近代的な明るい感覚の設計を取り入れ、裏側になる尚家の霊御殿も十分生かした総合的な立派な設計だ。
琉球新報 1959年12月13日」
新聞報道の時点では学生センターの建築は文化財保護委員会に届けられていなかった。委員たちは報道でこのことを知り非常に驚いたようだ。新聞報道から三日後、玉陵の管理者である護得久朝章は文保委に対し玉陵の敷地の一部を聖公会に売却させてもらいたいという現状変更願を出した。聖公会も同じ日に文保委に対し、学生センター建築許可申請所を提出した。
(中略)
そのあと少し時間をおいた1962年7月に、事態が動き始めた。いつまでたっても作業が進められないことに業を煮やした聖公会が整地作業に入ったのだ。実は那覇市は聖公会に対して1962年3月15日付で建築確認通知を出していた。
郷土の文化を守る会の理事名度山愛壙が、現地視察に着ていた聖公会のハイオ司祭と小競り合いになり周囲の人に引き離されるなど状況が緊迫化した。ハイオ司祭は現場に立ててあった那覇市職労首里市部の旗を持ち帰ろうとしそれを名度山が奪い返そうとした。名度山は司祭の車に挟まれて数メートルひきずられ全治一週間のけがを負った。興奮した司祭は奪った旗を持ってUSCARの公安局に局長を訪ねた。
(略)
ハイオ司祭は那覇署に告訴した。反対派もハイオ司祭が赤旗を無断で持ち去り、さらに名度山を車でひきずり負傷させたことで司祭を告訴した。双方からの告訴により警官隊が出動する騒動となり、両者間の緊張状態は極限に達した。
しかしこの一件が両者が面と向かって話し合う場を作った。現場では那覇署長のとりなしで名度山の父、名度山愛順とハイオ司祭が話し合った。司祭は「琉球政府か尚家がこの土地を買いたいというなら筋が通るので18000ドルで売ってもいい」としたのに対し、名度山愛順は「それならばわれわれがその方向に全力を尽くし返事をしよう」とこたえ、この場は円満に収まった。結局、琉球政府が博物館の建物用地としてこの土地を買い上げたことで問題は決着した。
玉陵問題/源河葉子「戦後をたどる|那覇市歴史博物館編」 p86、87(抜粋と編集)この本は「那覇市史 通史編」の三巻です。
護得久朝章、名度山愛順、名度山愛壙が登場してますね。護得久朝章は尚家の土地管理をしていたので玉陵の土地売却は尚家の了承があったと思われますが、一部とはいえ先祖の墓所売るか? 一応琉大(現首里城公園)は手狭で不便をかこってましたから教育のために協力して欲しいという要請に応じた可能性もあるかとは思います。
上記引用では省略した箇所が多くてなんか司祭が悪者みたいですが、「反対を押し切ってまで設置する意志はないので他の場所を世話して欲しい」と反対派と対話を求めたりしています。建築許可も出て土地売買も終了しているので聖公会側に手続き上の不備は無いのですが、結局は文化人等の反対派が運動により建築中止の方向に押し切りました。
契約金額は27000ドルで、政府は尚詮氏らから寄付金3000ドル、博物館敷地買い入れ資金6000ドルのほか、工業高校拡張費からもふりわけることになっている。
沖縄タイムス 1962年9月26日最後は尚家の売った土地を行政があわてて買い戻したという形になり、尚家は差額分の収入があったわけです。
参考:
尚詮 とは - コトバンク参考:
グダグダ(β) 玉陵問題PR