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土地所有長者番付(1952)

1952年の市民の友から「土地所有長者番付 断然上岡さん」という記事を引用します。

今次の戦争で決戦場となった郷土と運命を共にして居残った沖縄の住民たちの血の義清と旧市内未開放によって土地を失った那覇市民は大多数を占めているが○く斯うした未曾有の“沖縄の悲劇”の中にも拘らず無疵に然も有利な條件に恵れた戦後派の不動産土地長者番付を調査したところ左の通り戦後開放地の地主王は断然上岡氏で王座に君臨している。
那覇市7区7組 上岡作太郎 
110082坪
在福岡 山城高常 
9699坪40
高良嘉永
3256坪74
渡名喜良夫
4860坪40
玉那覇ウシ
4091坪90
故井上為一 遺族 井上清子
7210坪50
糸嶺篤弼
8112坪37
市民の友 1952年6月15日 第7号(抜粋と編集)


上岡作太郎(勉強堂)さんは天妃の文房具商、高良嘉永さんは牧志の大地主。
渡名喜良夫さんは那覇長者番付(S12) 4で上泉の貸家業、井上為一さんは寄留商人、糸嶺篤弼さんは那覇士族で牧志の大地主。
玉那覇ウシさんはわかりません。

在福岡 山城高常」は山城高興の縁者ではないかと想像しますがよくわかりません。山城高興は大正5年の沖縄県人事録で「現今多数の家屋と三万余坪の宅地を有す」とあるのですが...
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電気の普及当初(久茂地)

「那覇の民俗ニュース」から「電気の普及」を引用します。

那覇に電気がついたのは、明治43年7月で、初めて電気がついたときの逸話は、まるで漫才みたいだった。東町郵便局の隣りに浜崎商会という卸屋があったが頗る滑稽な人で、庭先で、子どもたちが電気がつくのを今か今かと待っていると、「ウヌ ランプや マーカラ油を入れるか」と問うと、「ヤーヌクシーカラ イリレー ウヌ 線伝わってつくさ」また「扇風機は下のプ○トゥルーから入れるとミグティ シラクナイサ」と説明したが納得がゆきかねた。

石油ランプが入ってきたのもそれほど前ではありませんので、線から伝わって明るくなるというのは納得できかねたんでしょう。
このころは電燈も扇風機もレンタル定額制です。

参考:グダグダ(β) 沖縄電気会社
参考:グダグダ(β) 風袋(カジブクル)

会社の浮沈(久茂地)

「那覇の民俗ニュース」から「会社の浮沈」を引用します。

久茂地大通りのシッタイ道には素封家の屋根門と石垣が見事にならび、本土の大名屋敷のようであった。
明治の中期、大湾、宮里、桑江、新崎、喜久山、国吉、宮城、金城、渡嘉敷、与座、川上、仲地、賀数、与儀、阿波根、我部、小渡、平田、東恩名、有銘、福永、照屋、大田、勢理客、比嘉、宜保、名渡山、山田、南風原、我謝、富村家等の村内有名資産家が合資で貿易会社を組織し、○球商会(?)なるものをつくり、外国貿易で一稼ぎしようとたくらんだが、日露戦争後の不景気と寄留商人との競争に敗れて倒産し、大株主の我部、新崎、東恩名、有銘、川上、賀数、西平、松堂が銀行から差し押さえられた。我部家の土地は徳田某の手に落ち、タバコ製造所となった。当時は専売局はなく、自由販売であった。専売局支部ができ、煙草と塩が専売になったのは明治の末からである。ヒッタイ道[ママ]に徳田のヤシチと呼ばれるところがあるのはこれからである。


これは南清貿易がらみではないかと思われます。
後日会社名などがわかれば追記します。

明治期に沖縄経済の振興策として、政府により推進された沖縄と南清の直接貿易。1894年10月に那覇港が特別輸出港指定を受け、99年7月開港。琉球処分以来途絶えていた貿易の再開であったが、輸入超過などで伸び悩んだ。
http://web.ryukyu.jp/news/storyid-42457-storytopic-121.html


関連:グダグダ(β) 今と昔(久茂地)

デング熱

南条みよしさんのデング熱流行体験です。

この年(1931)年の夏休みだったと思いますがデング熱が大流行しました。どの家庭でも一家が枕をならべて寝ていました。毎日のように隣組から死者が出て、一日中物悲しい鐘の音が流れていました。デング熱の病原菌は港から侵入、那覇港の西、通堂一円から那覇市内全域にひろがり、首里、中頭、島尻、国頭と沖縄本島全域に蔓延したようでした。私は薬を飲んだおぼえはなく、ただ頭を冷やされただけしかおぼえていません。
夏休みがすんで二学期が始まると、お友だちの顔はやせこけ、頭の毛もぬけて、以前の面影をとどめない姿になっている人がいました。それでもみんな生きていたことを涙を流して喜び合ったものです。
私の戦後史 p252 (抜粋と編集)


蚊を介して感染する南方系の病気のようです。

また、民間レベルでみなすと、沖縄では、大正4年と昭和6年に大流行があった、とされています。その昭和6年に沖縄で大流行した時には、それが鹿児島県まで入って来た、といいます。
 また、昭和8年には和歌山市のある工場で、沖縄県で募集して来てもらった女性の工員さんからデング熱が広がり、35人がデング熱にかかった、という記録があります。いずれにしても、それまで日本本土でのデング熱の患者の発生は軍隊内か、沖縄を介したもので、患者の発生は散発的で、大流行には至りませんでした。ですから、昭和17年において、初めて日本本土の広範囲で、デング熱の大流行を経験することになるわけです。

http://pws.prserv.net/maki-j/dengue.htm


検索していたら興味深いpdfを見つけました。所報12号(1978年)に掲載されています。

沖縄におけるデング熱の疫学 Ⅰ.流行史と住民のHI抗体保育状況
http://www.eikanken-okinawa.jp/syoho/shoho12/image/104-114.pdf
http://www.eikanken-okinawa.jp/ 


pdfによると最初の流行は1893(明治36)年で収束が1955(昭和30)年、その間大小あわせて十数回の流行があったようです。
年表では1931(昭和6)年の流行時には患者数53129人、死亡470人(死亡率1.7%)、ただし患者数はこの数倍はあったとの意見もあるのでおそらく南条さんのようなケースはカウントされていないのでしょう。
pdfでは生年別に抗体保有の割合を調べていて昭和17年以前が保有割合(陽性率)が高いとされています。また保有割合にも地域的な偏りがあるようです。
難しいことはよくわからないのですが(すみません)かなりの大流行であったことわかるのは興味深いです。

ニンジョーグチ/豆腐(久茂地)

「那覇の民俗編集ニュース」から久茂地の「落雷」「ヤマトンチュ教師」を引用します。図は「那覇民俗地図」「戦前の久茂地村民俗地図」を参考にして作成しました。

落雷
鈴木製材所の隣りのニンヂョクチには瓦葺きの屋取りがあったが早朝からの大雨はカミナリをともない、稲光は眼がくらむくらいで、最後の大きなカミナリは、屋取りで豆腐をひいていたお婆さんに命中して、屋取りと共に焼けて即死したのであった。
ヤマトンチュ教師
久茂地村は範囲が広く、現在のソニービルは村の中央にあり、向岸には浜崎製帽所があった。久茂地校の正門は裏側にあたり、100メートル先の墓地の下に新井(ミーガー)がありいかなる干ばつでも水はあり、村の庶民の豆腐づくりにはかかせない湧泉だった。(後略)


ニンジョーグチ(那覇民俗地図)がどういう意味かはわかりません(船の着き口?)。
「昭和初期の那覇市街図」(国場組社史掲載)では川沿いには久茂地橋側から電気会社、大城組、日高製材所、国場組土木建築請負、製材所があります。
ミーガーの場所はわかりませんが、久茂地小の前の道を進んで行くと左側裏手は墓地地帯ですのでそのあたり?( 参考:戦前の松尾

結論は豆腐作ってた家があるってことくらいでしょうか(笑)。
引用での屋取りについては微妙なとこがあるので別項で。

改姓した人

旧那覇・真和志とは関係ないんですがメモ代わりに書き留めます。
沖縄になかった姓に改姓した有名人ということで。

源 武雄(旧姓知念/1928年頃改姓/私の戦後史8 p222)
天野 鉄夫(旧姓金城/終戦後改姓/私の戦後史8 p313)
松岡 政保(旧姓宜野座/1931年改姓/松岡政保 - Wikipedia 「沖縄苗字のヒミツ/武智方寛」 p85–86)
千原 成梧(旧姓安里/戦前改姓/那覇市史資料編第2巻 中の7 P719)

民有の銃砲/宿の数(明治25年)

沖縄縣内務部第一課による明治25年の「沖縄県治一覧」(発行は同27年、データは同25年)から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで、切り出して画像加工してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61139#

民有の銃砲。意外と銃あったんですね。
軍銃19
洋形 12|和形 7
猟銃 423
洋形 91|和形 332


取締に関する諸営業から宿関係(単位は人)。これは単位が人なのでおそらく許可証持ちの数、宿1つに1人と考えていいんでしょう。
旅人宿 16
回漕店宿 2
間切村宿 212
下宿屋 9

間切村宿は宿小(ヤールグヮー)と同じであるなら数の多さも理解できます。宿小は普通の民家に宿泊人が泊まるようなものだったようです。

砂糖車での負傷

沖縄縣内務部第一課による明治25年の「沖縄県治一覧」(発行は同27年、データは同25年)から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで、切り出して画像加工してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61139#
ハブ(飯匙)の患者が233人、死亡が33人。
製糖車の患者が18人、死亡が3人。
砂糖車に挟まれて手を失うなどの事故は結構あったようです。

象足や陰嚢象皮腫はおそらく象皮病(象皮病 - Wikipedia)です。検索すると「地方性象皮病ノ本態ニ關スル研究」という昭和13年の論文のpdfがあるのですが、これによると島尻などでも酷かったようです。
てっきり離島中心の話かと思ってました...

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