「
庶民がつづる沖縄戦後生活史」、「
戦後の沖縄世相史」から引用します。
テレビが各家庭に普及する前、ラジオは唯一ともいえる娯楽だった。1952年ごろから、ラジオ放送の共同聴取施設として「親子ラジオ」が普及した。米軍は49年、住民向けの日本語放送を開始(略)受信機の普及が十分でないなどの理由で中止した。50年1月から本格的な放送を始め、53年にはKSARにコールサインを改めた。
電力事情は悪く、ラジオも高価だったため、受信機とて少なかった。米軍政府はがガオリア援助資金で各市町村に共同施設をつくり、各家庭には有線で流した。
庶民がつづる沖縄戦後生活史 p137(省略と抜粋)親子ラジオは20センチ四方の板箱にスピーカーを入れ、線をつないで放送局から発信する有線放送である。このころ、民間の有線放送社が2、3設立され、親子ラジオが普及した。
戦後の沖縄世相史 p43(省略と抜粋)小さな放送局がたくさんあったのか?それとも配信だけの小さな会社があった?
高校卒業(1955)年直後である。仕事を探していた時、地人の商会でアルバイトをしたのが親子ラジオの配線工事だった。親子ラジオそのものは、概に普及していた。那覇市壺屋の小高い丘にあった親局から契約家庭のスピーカーに有線で放送する仕組み。
庶民がつづる沖縄戦後生活史 p138(省略と抜粋)戦後、沖縄で独自の発達をとげたラジオの共同受信システムに「親子ラジオ(簡易有線放送)」があるが、最盛期三百社を越え「親子ラジオ組合(簡易有線放送)」を結成。琉球新報社等の協力で1960年7月1日に開局したのがROKである。
ラジオ沖縄 - Radiofly
http://radiofly.to/wiki/?%A5%E9%A5%B8%A5%AA%B2%AD%C6%EC実物写真は沖縄市の郷土博物館のサイトにあります。
物語や音は、電力と一緒にコードを流れます。そのため、電気が家に通っていなくても、親子ラジオで放送を聴くことができました。
http://www.city.okinawa.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=107&id=7509&page=1本部で放送していた当時の番組をCDにして販売しているところもあるようです。
「親子ラジオ」とは、有線放送の一種(共同聴衆施設)で「親」ラジオで放送電波をキャッチし、それを各戸に配置した「子」ラジオスピーカへと有線で送信するものです。
昭和32年(1957年)より、町内の親子ラジオの「親局」として当店が当時、録音し放送していた音声をこの度CDに編集しました。
http://www.hi-ho.ne.jp/toguti-radio/oyakocd.htm地方ではローカル番組も製作していたようですが那覇ではどうだったんでしょうか。親子ラジオ自体は電気が来ていなくても音を聞けたようですが当時の電力事情なども気になります。
高価で庶民が買えなかったラジオの代わりに親子ラジオが普及したことで放送への先鞭を付けたとはいえそうです。
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