「沖縄戦後生活史」から渡慶次ハルさんの証言を引用します。
1938[昭和13]年7月、上京以来5年ぶりに帰郷した。那覇市立天妃尋常高等小学校付属幼稚園へ就職したためだった。
当時の那覇市長故当間重剛氏にあいさつに行くと、市長は開口一番「郷に入れば郷に従えというが、言葉は別だ。君の切れ味のよい歯切れよさ、洗練された言葉が気に入って採用した。これを失わずにずっと続けてほしい」と念をおされた。
偶然の一致だと思うが、当時、那覇の標準語は「天妃ヤマトゥグチ」という妙な訛りのヤマトゥグチが、当然のように使用されていた。
幸か不幸か、それが原因で私はこれを守り通し、職場ではもちろん、結婚したときも家庭で標準語で話すことを許してもらい、それを生活語としていたので方言は不得手である。
友達や周りの人たちが、時と場、相手によって巧みに両方を使い分けて話している様子を見て、うらやましいやらくやしいやらで、今さらながら自分の不器用さ、要領の悪さに腹が立つ。 (那覇市)
沖縄戦後生活史 p170昭和10年東京都竹旱町教員養成所卒。13年那覇市立天妃幼稚園勤務。22年文教学校付属幼稚園勤務。26年那覇市立開南幼稚園勤務。29年那覇幼稚園協会初代会長。38年沖縄幼稚園協会副会長。47年沖縄女子短期大学非常勤講師。
http://library.main.jp/index/jst19786.htm昭和13年の那覇中心部では天妃ヤマトゥグチというのが使われていたのは面白いです。「天妃」とわざわざつけられているのは寄留商人の中心地であったせいもあるんでしょう。
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