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オランダ屋敷

或る日、学校帰りに友人二人と安里の丘のオランダヤーに寄ってみようということになり、その家の周囲を、ウロウロのぞき見していたら、20歳くらいの青い目の娘が出てきて、ニコニコしながら、お入りなさいと庭に応じ入れられた。草花をいちいち説明し、ローラ・シュワルツ、妹はメリーという名も教えてくれた。窓にに金網が張ってあるのが珍しかった。
一年後に桜島が噴火し、義援金の募集に私たちの女学校も参加し、「流浪の民」の4部合唱など好評を博し、ローラ、メリーさんもピアノ、子守唄で出演、皆から親愛感を持たれた。
明治、大正の沖縄の外人宣教師の初代はアモア。私が6歳か7歳頃に、大きな犬を連れ、牛肉をぶら下げて人力車で行くのを一度だけ見た。間もなくサナダ虫で死亡、その墓は天久の寺の手前の外人墓地にあった。
次がブール、そしてシュワルツ。三人とも中学校の英語教師嘱託だった。宮里栄輝、石川正通、真玉橋朝英さんらがシュワルツの教えを受けた年代だと思う。その感化のせいか中学生が大分、天願家の教会メソジストに行くようになって真玉橋さんも洗礼を受けたという。
カルテの余白/千原繁子 p36、37


琉装にカンプー姿のシュワルツの娘達。右ローラ14才、ラナ24才頃
千原さんが安里の学校に通っていた頃のエピソードです。このオランダヤー(オランダ屋敷、安里二階)は安里の高台にあった洋館で宣教師が住んでいました。
沖縄のキリスト教年表は下記サイトが詳しいです(日本語)。

The Timeline of Earl R. Bull and Okinawan Christianity
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/academic/bull/man/tl.html


オランダヤーオランダヤーオランダヤー

写真はまた那覇市からの無断拝借です... すみません...
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戦後すぐの寄宮

戦後すぐの寄宮、参考にしたのは那覇復興地図です。
寄宮(45年)寄宮(47年)
オレンジが荒地、緑が水田、赤が住宅、茶が道で破線になっているところは庭園路です。真和志小は45年から残っていますが省いてあります。
寄宮十字路から知事公舎を越えて与儀公園一帯までは水田の記号がつけられているのですがこれは空撮写真から判断したという那覇復興地図の成り立ちからの違いかもしれません。与儀の暮らしでは「1928(昭和3)年農事試験場建設のときは内地からたくさん人が来た。夫も土地をはかりに行った。サトウキビ畑が広がっていたが農事試験場がみんな取った。あそこは与儀部落の財産だったが強制だった。」という証言があるので畑だったのではないかと思うのですがどうでしょうか。ただしガーブ沿いは湿地でどうにもならなかったという証言もあるのでわからんとこではあります。

まずこの範囲の地形なのですが、右に上間・識名の高台がありなだらかに寄宮十字路付近の低地に下る地形です。オレンジの荒野となっている箇所はほとんどが山裾や丘となっていて右端のオレンジ色でない部分も斜面なので耕作できない場所です。中央の寄宮中学校は周囲から一段高い丘になっています。
戦前相当の真和志民俗地図と47年を比較すると、寄宮中学校前と真和志小学校横の集落が戦前とは違う形での集落になっています。
真和志小学校後方、現在の農協があるところの後ろは碁盤目に近い形で区画があります。これもこの時代の名残なのかもしれません。
那覇寄宮3 - Google マップ

参考:グダグダ 大原区(寄宮)
参考:グダグダ 大石毛
参考:グダグダ 勝良又原(国場)

真和志支所から神里原

1947年頃の真和志支所近くから神里原に下りてゆく道周辺です。
47年頃の寄宮
図の参考にしたのは那覇復興地図です。

話は赤線で描いた道のことなのですが、この道が旧道なのかわかりませんでした。1945年の地図にはこの道は無いのですが1947年には存在しますのでその間に作られたのだろうと思われます。
1946年の地図もあるのですがその地図にもこの道は無く住居も殆どありません。47年になると図ではピンクで示した住居が出現します。
このあたりは戦後那覇の開放時期とつきあわせると確かだと思われます。

余談としては寄宮十字路がまだ存在せずT字路になっています。当時は寄宮中学校側に一つ入った道が現在の道の機能を果たしていたんでしょう。
真和志小学校周辺を参照して下さい。

人殺岩(安謝)

戦前の漁業権の範囲です。右図は浦添市史を参考に作成しました。
左は以前作ったもので、右は今回1945年の空撮写真の上に書き入れたものです。右図は干瀬を意識して書き入れてあります(左では意識していません)。
元の図も概略的なもので、この二つの図を作った自分もいい加減なのでこのブログでの図などはこの程度の正確さとご了解くださいませ。m(_ _)m

浦添市史から引用します。

小湾の地先専用漁業権は漁場位置およびその区域を次のように定めている。即ち、漁場位置は沖縄県中頭郡浦添村字小湾地先である。基点甲は字仲西と字小湾の境界であり、乙は字小湾と字勢理客の境界である。基点丙は那覇市安謝即ち、当時の島尻郡真和志村にある人殺岩であり、現在でも形は変わっているものの現存しているという。この基点と沖にあるイ、ロ、ハの三点を各々に結んだものが図の小湾の漁場区域となるわけである。
浦添市史第4巻資料編3 p101、102


イロハの点は描きいれてありませんし、小湾の位置や甲乙丙の各点の位置も検証してありません。ここで着目したいのは那覇市安謝、当時の真和志村安謝にあった人殺岩です。安謝部落から現在の58号線をこえた海側あたりにあったようなのですが、この辺には義理地原があります。そこらへんからの名称なんだろうなと思いますがそれ以上の情報はありませんし、例の刑場の位置も実際よくわかりません。
そしてオチも結論もありません。

国場の骨買い・古布買い

浦添は畜産の盛んな地域であったようです。
浦添市史資料編122ページ、昭和9年の「浦添村家畜数調」という表によると、牛約840頭、馬約950頭、豚約2670頭、山羊約2570頭と結構な規模です。

戦前の浦添村は畜産のとても盛んな村で、面目躍如たるものがあった。その背景を考えてみると、
農耕地が広くそして資料になる青草が絶えることはなく、さとうきびのしょう頭部や甘藷のカズラ等の粗飼料が豊富で手軽にはいるのでほとんどの農家が牛・馬・山羊を飼育し、家畜増産の基盤は確立していた。
田畑の耕作や製糖場のキビの圧搾には地区力が大いに利用されたが、昭和16年頃から発動機工場にかわったのでかつての役労牛は肉牛としての供給地となり、阪神航路の船の出る毎に肉牛を移出するようになった。オートバイ乗りの牛馬商の渡慶次某(喜舎場小、天久在)が農民相手に庭先取引をしていた。
牛馬の増産奨励にもなり、唯一の農村娯楽としての闘牛が、牧港、伊祖、城間、宮城、小湾の各字で盛んに行われた。安波茶馬場や隣村で競馬も行われたので馬の頭数もふえていった。
浦添市史第4巻資料編3 p123(省略抜粋編集)


輸出される肉牛の数は沖縄県史等でも確認できます。一方乳牛は那覇と同じくあまり普及しなかったようです。
戦後はなぜか肉目的の兎飼育ブームがあったようで家畜の項目に兎という項目があったりします(たしかみなと村など)。浦添市史の123ページには兎で失敗したエピソードにも触れられています。あと沖縄タイムスフォトギャラリーには「うさぎブーム」という1947年撮影の写真があります。

国場の生活史証言で骨を肥料目的で買うという話がありますが、浦添市史にも売った証言が散見されます。

骨小コーヤーが国場・仲井真辺りから来たので、ウヮシティ(豚捨て)ガマに貯めて売ったとのことである。
仲間 p142
魚は糸満の人が売りに来たし、スクガラス売りは泊から、フクターコーヤー(ボロ布買い)、フニヒルヤー(豚の骨買い)は国場・仲井真から来た。
安波茶 p144
国場・仲井真辺りからは「骨小、フクターヤ、ネーミソーラニ」と声をかけ、マッチと交換した。
前田 p145
浦添市史第4巻資料編3(抜粋省略)

真和志の民話

教育委員会が作成した民話集の説明に興味深いものがありました。民話調査は昭和51年と52年で、すでに日本復帰してからしばらくたっているころです。

かつて、旧那覇と旧首里は、沖縄の各地の話が集まる所であり、さらに、それらの話をもとに、新しい話を再創造するるつぼであった、それは(略)本土の奈良や京都がになった役割を沖縄ではこれらの二つの核がその役割をはたしており(略)
那覇が他の都市と異なる所は、他の文明都市が早い時代に伝承の中心地および再創造の機能を失い、口承文芸から文字文芸に移行したのに対し、旧那覇・旧首位においては文字文芸を併存させ、近い時代まで伝承の中心地・再創造の二つの機能を保ちつづけたことにあった。

真和志地区はこの旧那覇・旧首里の中間の地区であることによって、この二地区の伝承を受け入れるのに最も有利な地理的条件を有していた。民話における創造と伝承の関係は、一般に都市区が各地の民話の集約と再創造の機能を持つのに対し、農村地区は、伝えられた話を受け入れ、それを、ほぼそのままのかたちで伝承し保存することにあったと思われる。そしてそれらの話は一体となり伝承されていったのである。
ところが、戦後における他地域からの人口の流入は、さらに、真和志地区の民話を多彩なものにした。本島中南部や周辺離島はいうにおよばず、宮古・八重山の話も受け入れることになったのである。

---
この民話集に掲載した民話の調査は二次にわたっておこなわれた。
第一次は昭和50年6月から7月に書けておこなわれた。
第二次の調査は昭和51年に結成された那覇民話の会が51年4月から9月までの期間に28名が参加しておこなった細く調査である。
この二次にわたる調査で得た成果は185名の話者から905話の民話を聴取したことである。
県都である都市部のしかも、一地区で、900話をこえる話数が聴取されたことは、これまで日本の民話調査ではかつてなかったことである。なぜなら他府県においては、寒村僻地においてこそ民話は豊富に伝承されているという固定観念があり、事実そうした傾向が強いからである。
那覇の民話資料(第3集 真和志地区 2)/那覇市教育委員会 p4、5(抜粋引用/一部編集)

古波蔵村の移動

古波蔵(クファングヮ)は現在国場川沿いですが過去は裁判所付近にありました。

村は当初泉崎村・久米村久茂地の一部を含み、集落は村北西部の泉崎村などに近い小字楚辺原・真地原一帯に形成されていた。しかし1640-50年代に真和志間切から那覇町および久米村町・若狭町が町方として管轄を離れたため、村の一部(湧田村)が泉崎町の籍内となった。このため男女あわせて290人余いた村の人口は減少し、耕作のため渡名喜島より百姓を呼んだが、貢租が納めきれず身売りなどが続き、70人余までになった。こうした状況のなか、時の地頭職程順則古波蔵親雲上は1688年寄百姓制の拡充を申し出て、具志川・南風原・羽地の三間切より百姓を迎えた。しかしこの政策も功を奏さず、町方への転出が相次ぎ、また耕作地が集落から離れていたこともあって村の疲弊は続いた。1845年集落を町方から離れた場所へ移動させたいと村民からの願いがあり、国場村に隣接する小字兼久原に集落が移動した。
1880年の戸数239、人口958人
1903年の戸数254(士族127、平民127)、人口1141人(士族623、平民518)
角川辞典 p179(省略と編集)


真和志民俗地図を参考にすると楚辺原は城岳から那覇高校あたり、真地原は裁判所から王の殿あたりの一帯です。移転先の兼久原は古波蔵の原名で触れました。
古波蔵の原名
疲弊した村は様々なてこ入れをおこなって復活させるのですが、功を奏さず1845年に現在地へ移転したということですね。楚辺原・真地原からは耕作地が遠かったとのことですが現在の場所近くに畑があったとしたら確かに遠いかもしれません。

那覇に編入された湧田村は旧家の屋敷と湧田サバカチと呼ばれるような平民が住んでいたようですがどんな風だったのでしょうか。
湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
那覇人気質 2

久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。
那覇の細民

瓦屋は城岳の東なる湧田楚辺原にあり、カラヤーと称している。焼瓦職の多きをもって名付けられ、現今那覇□□町に属する小字である。
瓦屋

与儀の地は泉崎湧田に住むものからは「ユージ・クヮングヮ」の併称で知られているだけにそれほど遠い田舎の感じは無く、また実際に毎日の生活物資の供給地でもあった。
与儀(ユージ)

与那覇堂村

松川の原名

真和志民俗地図では与那覇堂村は真和志村の範囲になっていますが明治12年に首里山川村に編入されているようです。首里民俗地図を見ると山川村との境界はすべて道になっているようなので道筋が現存するなら境界線もはっきりできるかと思います。
以下抜粋引用します。

与那覇堂村
首里城の西、首里台地の西端部に位置し、東は大鈍川村(ウドゥニガームラ)、西は真和志間切茶湯崎村(松川村)、北は真和志間切真嘉比村。真和志之平等のうち。ユナファドーと呼ぶ。
「球陽」尚貞王4(1672)年に初めて真和志郡与那覇堂村を首里府に所属させたとある。首里古地図では(略)の屋敷地のほか、北・西の真嘉比川沿いに畠・田が広がっている。畠は屋敷地の北と西に広いが、他は真嘉比川沿いにまとまっている。北西部には「鳥頭」「はるおかみ」と記された二つの丘が見える。
文化12(1815)年の士族の家部26(琉球一件帳)。
明治12(1879)年大鈍川とともに山川村に編入。
角川辞典 p113(省略と編集)


首里民俗地図は昭和初期を想定しているので大鈍川村の名前はありません。
しかし山川村の範囲内で下記引用の条件に合致する山川村の西部が大鈍川村の範囲だとおもわれます。首里の歴史本を調べればでてくるかとは思いますが当ブログの範囲外なので調べません。

大鈍川村(ウドゥニガームラ)
首里城の北西、首里台地の西斜面に立地し、北から東は山川村・真和志村、西は与那覇堂村、南は寒水川村(スンガームラ)。ウドゥニガーあるいはウドゥンガーと呼ぶ。
文化12(1815)年の士族の家部50(琉球一件帳)。
明治12(1879)年与那覇堂村とともに山川村に編入。
角川辞典 p113(省略と編集)

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