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環状2号以前

古島インターチェンジの続きのようなもんです。
写真は建設中の古島インターチェンジを北から眺めたものです。
古島インターチェンジ
古島インターチェンジは「1970年に当時の琉球政府道41号線(現国道330号)のバイパスが安里交差点~当IC間が部分開通したのに伴い供用され」ました。
環状2号は「本土復帰後、那覇市安謝 - 首里儀保町の環状2号線が全線完成」しています。

「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム」というのがあるのですがこれは閲覧のみのようで写真を使うことができません。ここに1970年の古島インターチェンジ周辺の写真があります。
国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/
なお、公開された空中写真デジタル画像は、閲覧以外の目的で使用することはできません。

下の左図は、http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MOK701&courseno=C10&photono=11から道路や学校・集落の位置を模写したものです。右図は地図に左図に描きこんだものを同じように書いたものです。


自分の図でもおおざっぱに環状2号以前の道筋がわかるかと思います。環状2号のマカンミチ入り口から古島インターまではいくつかの道を大きめの道でつないで直線化、そして道周辺の区画整理もやったというのが写真も見るとわかります。
下の図の元図は米軍の作戦図です(なので戦前です)。
浦添
当たり前ですが那覇北方の集落のネットワークにバイパス(330号線)が存在しません。何車線かある道や中央分離帯のある道は集落間の交通をスムーズにしますが道路で分断もします。
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真嘉比インターチェンジ

現在の真嘉比交差点そばにあった真嘉比インターチェンジです。インターチェンジというと大げさですが、バイパスは中央分離帯があるため側道に入るには立体交差が必要だったのです。

興南高校の南側でくるっと弧をかいてるのがわかります。
バイパスは昔に比べて信号が増えたという実感があるんですよね。
真嘉比インター
1970年に当時の琉球政府道41号線(現国道330号)のバイパスが安里交差点~古島ICが部分開通したのに伴い供用された。
供用開始から1997年までは市道(真嘉比古島線)から国道側の古島IC方面(北行き)へは高架橋で国道を跨ぎ、左旋回で交差するという方式だったが、国道西側の米軍住宅地返還による新都心地区開発に伴い、市道の高架橋を新都心側(新都心西通り線)へ改良・延長、国道側の出入口を撤去した(高架橋は改良工事のため一時閉鎖、国道へは高架橋を通らずに平面交差)。新都心西通り線が整備された2001年に高架橋が再供用された。
真嘉比インターチェンジ - Wikipedia


カラーの航空写真は国土交通省のもので加工は自分によります。
整理番号 COK-77-1
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C57
撮影年度 昭和52年度
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html

古島インターチェンジ

Images of Okinawa after World War IIに建設中の古島インターチェンジの写真がありました(説明は内間となっています)。
古島インターチェンジ
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=233&route=browseby.php&city=Uchima&by=city&s=browse
インターチェンジの北の高所から南へ向かって撮られています。奥の赤い矢印が安里のタンク、その手前のオレンジのポインタが切り通し造成、右側の米軍住宅内の緑ポインタは丘です。


1970年に当時の琉球政府道41号線(現国道330号)のバイパスが安里交差点~当IC間が部分開通したのに伴い供用された(当時は那覇市街方面の南行きのみ)。バイパスが当時自動車専用道路として建設されたため、交わる幹線道路とはICによる立体交差となった。1971年には当IC~大平IC間の部分開通したのにともない、浦添市方面の北行きも供用された。
古島インターチェンジ - Wikipedia


交差する環状2号ができるのは少しあとです。

本土復帰後、那覇市安謝 - 首里儀保町の環状2号線が全線完成(当時は那覇市道)。その後南風原村(現南風原町)新川 - 那覇市上間一日橋間も完成。
沖縄県道82号那覇糸満線 - Wikipedia


昭和のゼンリン地図を見る限りでは、古島インター周辺は人家も少なくブロック工場などがちらほらある場所でした。
復帰前後の道路開通によって様変わりした一帯といっていいかと思います。

カラーの航空写真は国土交通省のもので加工は自分によります。
整理番号 COK-77-1
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C57
撮影年度 昭和52年度
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html

終戦後の安謝港

戦後那覇港が米軍港として占拠され、泊港は未整備のため、安謝港が脚光を浴びた。
水深は浅いが、奄美大島から貨物船が往来するようになり、さびしい漁村だった安謝は急速に町として開けてきた。トンネル通り沿いに安謝市場があり、海岸通りには各商店・旅館・劇場・食堂・料亭・飲み屋が軒を連ね、大島産木材、米・家畜取引の中心地となった。
波止場には大島船船取り扱い事務所・安謝港仲仕組合・共進組の海運業や、沖縄造船・松田造船の造船所があり、アプレの港町として栄えた。
戦後の沖縄世相史 p37


1949(昭和24)年の記述ですが、これを了解するためにはすこし注約がいるかもしれません。

岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。
住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275


安謝部落は安謝小学校周辺が本来の部落で58号線から向こう側にはあまり人は住んでいませんでした。
参考:グダグダ 安謝の原名(西側)
参考:グダグダ 安謝のトンネル
最初の引用で示したように那覇港が使えず泊港も造成が済んでいないため那覇の港として脚光を浴びました。また岡野・住吉の両区も戦後すぐに住み始めているため復興は早く、安謝誌にはトンネル通りがいかに賑わっていたかというのが出て来ます。
現在埋め立てられた曙あたりの海岸線には昭和中期の地図でも造船所が確認できます。

銘苅の道筋

那覇新都心物語の図から作成した銘苅部落周辺の道のいい加減な図です。大きめで周囲の部落に通じる道()を書きました。
実線が自信あり、破線がいまいち、点線がよくわからん、と考えて頂ければと。黒の実線は線路、青い点は井泉です。

ピンクは銘苅部落ですが中心的に集中している箇所のみ描いてあり、他にも住居は道沿いなどに小規模の集まりか単独の住居がつかず離れずで点在する形になっています。
銘苅を流れる川は下のリンクを参照して下さい。
参考:グダグダ 真嘉比の暗渠

周辺は天久、銘苅、安謝の部落があります。天久は現在の新都心入り口あたりで下のリンクで紹介したようになっています。
参考:グダグダ 天久の屋取 2
参考:グダグダ 天久村の御嶽

真嘉比部落は真嘉比小学校北方、再開発が行われる前の集落の区域とほぼ同じです。
参考:グダグダ シュガーローフ

安謝も現在の場所とあまり変わりません。
参考:グダグダ 安謝の原名(西側)

現在との大きな違いはバイパス(330号線)がなく環状二号線も存在しないことでしょうか。58号線の原型はありますがこの二つがないと北と東へのアクセスは大分様相が異なって来ます。

荒れる繁華街

栄町歓楽街は桜坂より安直に遊べる場所。居酒屋やバーの代金は安い。キャバレーは見当たらず、売春まがいの小料理屋が多い。女給が飲食その他を接待する。当初は旅館だったが、52、3年から売春宿になった旅館も多い。このため栄町内にある婦連や大道小・真和志中の先生方を嘆かせている。
潜伏する強盗・殺人犯を最初に捜査するところは栄町やひめゆり通り・真和志支所通りの屋台店という。屋台は引っ張っていくのではなく、固定した屋台店、安居酒屋である。ここは三日に一件の割で暴力・傷害事件がある。酔客や通行人にたかり、ある夜は通行人にタバコをせびりあけぼの劇場裏に引きずり込んで袋だたき。
栄町は発足した当時、泊にあった輸送部隊カンパン(宿舎)ドライバーのたまり場になり、愚連隊になったものもいた。今でも運転手崩れの8人が縄張り。よそ者の無頼漢は栄町に寄せ付けず、自分たちも他所の縄張りを荒らさない。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p80(省略と編集)


上の引用は1958(昭和33)年頃の話です。固定された屋台というのはいわゆるバラック造りだったのでしょう。
53年のあけぼの劇場ができた頃に真和志支所前の通りが繁華街化。50年に開設された栄町は景気の悪化とともに売春街が発生。
それと共に暴力団と愚連隊も入り込んできています。

いまでは少し想像しにくくなっていますが真和志小学校裏から真和志支所前を通ってまっすぐ坂を下る通りは繁華街でした。古いテナントがわずかに残っています。
民謡酒場も何件かありましたが現在は消えてしまいました。

栄町の出現

「戦後の沖縄世相史」から引用します。この本は戦後の新聞記事などをまとめたんだと思いますが犯罪などの暗黒面も含めて書いてあります。

米軍のゴミ置き場だったのを49年4月末に開放されたので、区画し真和志の商業地域にしようと翁長[助静]村長は尽力した。
50年2月に栄町公設市場を開設。トタンぶきで72室あるが、6月に数店を数える程度。
市場の東側は料亭街となり、12月までには四つ竹・よかろう・八千代・だるま亭・一楽など20軒が建ち、宴会は引きも切らず、三線太鼓の音が外に流れた。同年1月11日に再建された沖縄劇場で大伸座がふた明けした。この年、料亭街の東角に沖縄婦連会館が建った。
玉突き屋・ビンゴ屋・マージャン屋ができ、純旅館が十数軒あるが、中には泊まり客でない飲食の接客をする旅館もある。飲み屋が十数件に増え大道通りに商店が並び、栄町中央通りに大丸百貨店が建ち、市場にも入店が増加した。
50年、はや栄町に暴力団が横行。栄町は7月自警団を結成し、有給の自警員4人を置いた。
52年に入ると、芝居(沖縄劇場)の不振と不景気で客足がとだえ料亭・旅館・商店の転廃業が続出。その結果特飲街に変貌し売春宿が約百軒、娼婦が数人玄関口に座っている。飲み屋も百軒余。踊り子を抱えた数件の料亭は賑やかだ。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p46、47(省略と編集)

栄町

旧那覇の開放がまだですから辻からの人間も栄町にきたようです。
昭和中期のゼンリン地図をみると大道小学校そばあたりには料亭らしき名前、現在の繁華街にはバーなど、モノレール安里駅あたりの下側にもバー街は広がっています。

現代に一番近い時期だと現在の栄町リウボウはバスの駐車場、銀行辺りはホームセンターのサンキューが元ボウリング場の建物のまま営業していました。このボウリング場が沖縄劇場跡です。
51年あたりの地図だと琉球新報も栄町近くにあります。

時を同じくして沖縄劇場が、劇場〜映画館〜ボーリング場〜ダンスホール〜百貨店並の店舗へと変わる。
http://www.sakaemachi-ichiba.net/about_sakaemachi.html


このあたりには小さなヤクザの事務所がありますがこの時代の名残なのかもしれません。あまりおおっぴらには語られませんが、本島出身ではない暴れ者たちが暴れまくった時期でもあって、特定の島出身者を嫌う人間はこの時代を経験していることが理由になっていたりします。

仲井真の原名

仲井真の原名をまとめていませんでした。西に国場、東・東北方向に上間部落がありその中間と国場川の川向こうが仲井真です(ピンク色の範囲)。
山川原・淵下原・東原
メインの集落は仲井真原と前原です。前原あたりは古島原と呼ばれていて古いシマであった可能性もあると思います。
関連:グダグダ 仲井真原・前原(仲井真)
仲井真原
川を渡った南側、東オフリ原、西オフリ原、伊地堂原、上田原は仲井真です。

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