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古波蔵村の移動

古波蔵(クファングヮ)は現在国場川沿いですが過去は裁判所付近にありました。

村は当初泉崎村・久米村久茂地の一部を含み、集落は村北西部の泉崎村などに近い小字楚辺原・真地原一帯に形成されていた。しかし1640-50年代に真和志間切から那覇町および久米村町・若狭町が町方として管轄を離れたため、村の一部(湧田村)が泉崎町の籍内となった。このため男女あわせて290人余いた村の人口は減少し、耕作のため渡名喜島より百姓を呼んだが、貢租が納めきれず身売りなどが続き、70人余までになった。こうした状況のなか、時の地頭職程順則古波蔵親雲上は1688年寄百姓制の拡充を申し出て、具志川・南風原・羽地の三間切より百姓を迎えた。しかしこの政策も功を奏さず、町方への転出が相次ぎ、また耕作地が集落から離れていたこともあって村の疲弊は続いた。1845年集落を町方から離れた場所へ移動させたいと村民からの願いがあり、国場村に隣接する小字兼久原に集落が移動した。
1880年の戸数239、人口958人
1903年の戸数254(士族127、平民127)、人口1141人(士族623、平民518)
角川辞典 p179(省略と編集)


真和志民俗地図を参考にすると楚辺原は城岳から那覇高校あたり、真地原は裁判所から王の殿あたりの一帯です。移転先の兼久原は古波蔵の原名で触れました。
古波蔵の原名
疲弊した村は様々なてこ入れをおこなって復活させるのですが、功を奏さず1845年に現在地へ移転したということですね。楚辺原・真地原からは耕作地が遠かったとのことですが現在の場所近くに畑があったとしたら確かに遠いかもしれません。

那覇に編入された湧田村は旧家の屋敷と湧田サバカチと呼ばれるような平民が住んでいたようですがどんな風だったのでしょうか。
湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
那覇人気質 2

久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。
那覇の細民

瓦屋は城岳の東なる湧田楚辺原にあり、カラヤーと称している。焼瓦職の多きをもって名付けられ、現今那覇□□町に属する小字である。
瓦屋

与儀の地は泉崎湧田に住むものからは「ユージ・クヮングヮ」の併称で知られているだけにそれほど遠い田舎の感じは無く、また実際に毎日の生活物資の供給地でもあった。
与儀(ユージ)
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