教育委員会が作成した民話集の説明に興味深いものがありました。民話調査は昭和51年と52年で、すでに日本復帰してからしばらくたっているころです。
かつて、旧那覇と旧首里は、沖縄の各地の話が集まる所であり、さらに、それらの話をもとに、新しい話を再創造するるつぼであった、それは(略)本土の奈良や京都がになった役割を沖縄ではこれらの二つの核がその役割をはたしており(略)
那覇が他の都市と異なる所は、他の文明都市が早い時代に伝承の中心地および再創造の機能を失い、口承文芸から文字文芸に移行したのに対し、旧那覇・旧首位においては文字文芸を併存させ、近い時代まで伝承の中心地・再創造の二つの機能を保ちつづけたことにあった。
真和志地区はこの旧那覇・旧首里の中間の地区であることによって、この二地区の伝承を受け入れるのに最も有利な地理的条件を有していた。民話における創造と伝承の関係は、一般に都市区が各地の民話の集約と再創造の機能を持つのに対し、農村地区は、伝えられた話を受け入れ、それを、ほぼそのままのかたちで伝承し保存することにあったと思われる。そしてそれらの話は一体となり伝承されていったのである。
ところが、戦後における他地域からの人口の流入は、さらに、真和志地区の民話を多彩なものにした。本島中南部や周辺離島はいうにおよばず、宮古・八重山の話も受け入れることになったのである。
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この民話集に掲載した民話の調査は二次にわたっておこなわれた。
第一次は昭和50年6月から7月に書けておこなわれた。
第二次の調査は昭和51年に結成された那覇民話の会が51年4月から9月までの期間に28名が参加しておこなった細く調査である。
この二次にわたる調査で得た成果は185名の話者から905話の民話を聴取したことである。
県都である都市部のしかも、一地区で、900話をこえる話数が聴取されたことは、これまで日本の民話調査ではかつてなかったことである。なぜなら他府県においては、寒村僻地においてこそ民話は豊富に伝承されているという固定観念があり、事実そうした傾向が強いからである。
那覇の民話資料(第3集 真和志地区 2)/那覇市教育委員会 p4、5(抜粋引用/一部編集)PR